4-12 復讐のいざない
「あなた喋れたの?」
ディアーナは率直に尋ねてみた。
しかし、ベリザリオから返事はない。何を話しかけても反応はなかった。視線を落とし、ネックレスを握り込んだ姿で固まっている。
(空耳だったのかしら)
彼の声を聞きたいと望む心が聞かせた幻聴だったのかもしれない。
どのみち、今日はこれ以上相手をする時間を取れない。詮索は諦め、ディアーナはネックレスを首にかけてやって帰ろうとした。
けれど、ベリザリオがしっかりと指を閉じていて、開いてくれない。
「これを取り上げはしないわ。失くしてしまわないように首に掛けてあげるだけ」
閉じた彼の手をディアーナは両手で包み、ベリザリオを下から覗きこんだ。
「だからお願い、指を開いて。ね?」
優しく語りかけ、しばらく待ってみる。やがてベリザリオの指が開いた。
「ありがとう。いい子ね」
ネックレスを回収し、彼の首に回してやる。
ベリザリオが鎖から下がる指輪を握りしめ、苦しそうに唇を噛んだ。そのままベッドに転がり枕に顔を埋める。
何も言わずディアーナは病室を出た。
(言葉はきちんと分かってる。それに、凄い切れ切れにだけど、昔のベリザリオが出てきてる気がする)
時間をかけて身体が良くなったように、会話などといった能力もゆっくり戻るのかもしれない。何にせよ、必要なのは時間のようだ。
◇
指輪のネックレスを返してからベリザリオの様子が変わった。それも、悪い方に。
まず、リハビリが適当になった。
食事もほとんど手をつけなくなり、目に見えて痩せた。脱水症状まで起こして点滴をうった程だ。
外ばかり見ているのは相変わらずだったけれど、身を投げたいかのように前のめりになった事があり、それ以来、彼1人の時に窓を開けるのを禁じた。
(イライラする!)
病院の廊下をディアーナは足早に歩いていた。
ベリザリオが記憶を持っているのは間違いない。戻ったという方が正しいのだろうか。全部かまでは分からないが、指輪に関する記憶――自殺未遂の直前までと原因辺り――は持っているだろう。最近の行動の変化がいい証拠だ。
1度自殺未遂を起こした人間は自殺へのハードルが下がる。
せっかく救えた命なのに、放っておけば、彼は簡単に命を投げ出すだろう。むしろ死にたがっている。
あんな腑抜けを助けるために自分は尽力していたのではない。
あんな奴の事情に巻き込まれてエルメーテとアウローラが死んだだなんて、やるせなさ過ぎる。
ディアーナが荒っぽくベリザリオの病室の扉を開けると、看護師がびくっとした。
それが普通の反応だろう。なのに、ベリザリオは反応の欠片も見せない。
何に対しても無気力で無関心な態度に、ディアーナのイラつきが更に上がった。
「彼と話があるから外してちょうだい」
さすがの彼女でも不機嫌が隠し切れず、言い方が少しきつくなってしまった。
そのお陰か、看護師は逃げるようにいなくなる。
ディアーナは病室の扉を閉めベリザリオに近付いた。相も変わらず、彼はベッドに座って外を眺めている。
「いい加減にしなさいよ!」
ベリザリオの病衣の胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
「悲しくて、苦しいのがあなただけだと思ってるの!? ふざけないで!」
言葉を吐くたびに昔の記憶が脳裏をよぎる。
謎の組織から襲撃された時、エルメーテに押さえられていたせいでディアーナは全く動けなかった。彼の身体に遮られて視界も塞がれていた。
そんな中でも、音と声だけは聞こえていたのだ。
アウローラを呼ぶベリザリオの絶叫だって聞こえていた。その後の、壊れたような笑い声も。
きっと、地獄のような光景だったに違いない。
けれど、そんなベリザリオを助けにすら動けなかったディアーナの無念など、彼は知らないだろう。
銃声のたびにエルメーテの身体に衝撃が走り、垂れてくる生暖かい血に汚れることしか出来なかった無力さも、愛する男が次第に冷たく重くなっていった恐怖も。
いっそ狂いたかったのに、無駄に強すぎる理性が正気を保たせた。
お前にあの地獄が耐えられるのかと問い詰めてやりたかった。
答えなど、問うまでもなく分かっているけれど。
ベリザリオの人生は順風すぎた。
学業も、友人も、伴侶も、仕事も。ディアーナが知る限り、彼は全てにおいて挫折を知らない。小さな失敗程度はあったけれど、失敗とも言えない程度の傷ばかりだった。
そのうえ産まれは選帝侯で、生活に困る事もない。
その代償がこの打たれ弱さだ。
だから、突然大きなストレスを受けた時に対応しきれない。理性さえ簡単に吹き飛んで、自分すら見失ってしまう。
(こんな事がなければ、そんな弱点、一生露見しなかったんでしょうけどね)
わずかに驚きを見せた彼の顔に、ディアーナは手に持っていた紙を押しつけた。
「ジョエレよ」
低い声で呟く。
「ベリザリオの戸籍はもう無い。今のあなたはどこの誰でもないわ。だから、私が新しい名前をあげる」
ベリザリオが顔に押し付けられている紙を手に取り、
「ジョエレ・アイマーロ?」
不思議そうに新しい名を口にした。この男、やはり喋っていなかっただけだ。
「それがこれからのあなた。捨てるつもりの命なら、私のために使いなさい」
「お前のため?」
「私は、私の日常を奪ったあいつらを許さない。復讐に付き合ってもらうわ。同じ死ぬのなら、その仕事をしている途中ででも死ぬのね」
「……復讐」
紙を握ったベリザリオの手が膝の上に落ちる。その手にディアーナは手を重ねた。
「復讐が嫌だというのなら、私の子供のために組織を潰すでもいい」
「子供?」
ベリザリオの顔が上がった。信じられないものを見るようにディアーナの腹を凝視してくる。ディアーナは目を伏せ、自らの腹を優しく撫でた。
「そう。エルメーテとの子供、出来ていたみたいなの。婚約は破談になったから、父親って公表は出来ないんだけど」
「子供……。エルメーテの」
ベリザリオの手がディアーナの腹に伸び、触れた。手を引っ込めると、胸の指輪を握り込む。
「エルメーテ、お前の血は受け継がれているんだな」
下を向いて、小さな声で言った。
そのまま動かなくなり、しばらくしたら、彼の顔から雫が落ちてくる。
「泣いているの?」
「泣く? 私が?」
ベリザリオが指で目元を拭った。指は見事に濡れている。
「私も泣けたんだな。アウローラの葬儀の時ですら涙のひとつも出ないから、泣けない人間なのだと思っていた」
せきが切れたかのようにベリザリオの目から涙がこぼれた。
あの事件以来、いや、それ以前でも、ディアーナはベリザリオの涙を見たことがない。
人目があるから感情を抑えているのだと思っていた。
けれど、泣かないのではなく、泣けなかったとは、なんと不器用な人間なのだろう。考えてみれば、こんなに弱っている彼を見たのは初めてだ。
「アウローラ。ディアーナが私に生きる目的をくれたよ」
泣き声で彼は言う。
「エルメーテ。お前の人生の分まで、私は――……いや、お前も俺と共にこれからは歩もう」
「俺?」
ベリザリオの言葉遣いが変わった気がして、ディアーナは彼を見下ろす。
「あなた、エルメーテの真似でもする気?」
「そうだよ。わた――俺がエルメーテのように生きる事で、途切れてしまったあいつの人生も、少しは埋め合わせてやれればいいと思って」
「下手くそね」
ベッドの端にディアーナも座った。
「ディアーナ」
「何?」
「ありがとう。私を生かしてくれて、空っぽの私に中身をくれて」
変わらず俯いたままベリザリオが言う。
「どういたしまして。あなた、言った側から素に戻ってるわよ」
「ああ、本当だ」
ベリザリオが顔を上げる。
「どうやら俺に役者の才能は無かったみたいだな」
涙は流れていたけれど、なんとも吹っ切れたような彼の笑みだった。




