4-7 立つ鳥跡を濁さず
大戦による壊滅を免れたヨーロッパとはいえ、被った被害は小さくなかった。
入手できなくなった資源があったりで使えなくなった技術が続出し、技術レベルは一時18世紀程度まで戻ったとも言われる。
それに歯止めをかけたのが選帝侯。
技術を10の分野に分け、各家で集中的に保持、管理、代替技術研究を行うことで、ようやく衰退は止まった。
航空技術や宇宙工学、軍事技術などは死んだままだったりと、分野により多少の違いはあるけれど、現在の技術レベルは概ね21世紀前半程度まで戻っている。
そんな選帝侯の中で、デッラ・ローヴェレは化学に特化した家柄だ。
家督を継いだベリザリオも当然のように化学に精通しており、一研究員として研究所に所属している。
その身分をいいことに、ベリザリオは翌日からデッラ・ローヴェレ家所轄の化学研究所にこもった。
自分専用の研究室で、あるウィルスにDNA断片を取り込ませる。
何のデータを持っているDNA片なのか彼にも分からない。手持ちのものを、確認もせず無秩序に取り込ませていた。
大学生時代、エルメーテと卒業旅行に行った先で見つけたウィルスは、遺伝情報を取り込ませやすく、且つ、対象への伝達率が異常に高かった。上手く使えば難病の遺伝子治療を容易にしてくれるだろうと、かなりの期待をされている。
つい最近までディアーナと共同研究をしていて、臨床まであと少しというところまではきていた。
そんな有用なウィルスの原種を1株残さず、全て操作に放り込んだ。
増殖培養、挿入、回収、凍結保存。ひたすらに同じ操作を繰り返す。並行して、溜め込んでいたデータを全て消去していった。
「メメントモリ」
呟きながら、PC中にあったものは消去した上で、HDを酸に浸し、さらに物理的に破壊する。
新種ウィルスを扱う実験に使う試薬は、必要のなくなった物から全て廃棄。調整法のデータも破棄した。
数日かけて目標量のウィルスを確保したところで作業は終了。
一旦家に帰り、少し休んで、安息日になるのを待って出かけた。
行き先は国務省長官室。
休日だろうと庁舎入り口には警備員がいるので、身分証を提出する。
「お身体はもう大丈夫なのですか?」
「お陰でだいぶ」
「それは何よりです。それで、本日は何用で?」
「目を通しておきたい資料があったものだから取りに。復職したら、すぐに作業に移りたくて」
手にしてきた大きめの紙袋をベリザリオは見せる。
「大変な時でしょうにお疲れ様です。身分証をお返しします、どうぞ」
身分証を返してきながら警備員。
「猊下も眼鏡をなさるんですね。初めて見ました」
別れ際に彼が言った。
「これでも昔は毎日眼鏡だったんだけどね」
ベリザリオは軽く返事をし、玄関をくぐる。
休日だけあって誰ともすれ違わない。あれこれ詮索されるのが面倒で、この日を待って正解だった。
合鍵で扉を開けて長官室へ入る。
ベリザリオが登庁していなくても掃除は入っているようで、埃は積もっていない。持っていた仕事の中でも、急ぎのものは誰かが片付けてくれたようだ。
執務机の鍵のかかった引き出しを開けた。用の無くなった鍵は鍵束から外す。そのまま天板の上に置いたけれど、不自然だったので、テープで机の裏に貼り付けた。
ベリザリオなら絶対にやらない事だが、誰もそこまで細かくは考えないだろう。
むしろ、次の長官が、探偵ぶってここを探してくれれば万々歳だ。
鍵の処理を終えると組織からの手紙を回収する。それを、持参した紙袋に放り込んだ。家に届いていた分は先に袋に入れてきたので、手持ちの手紙はこれで全てだ。
引き出しの中に潜ませていた写真まで回収し、その中で笑うアウローラに目を落とした。下を向いた拍子に眼鏡がずり落ちたので、縁に手をあて戻す。
昔はよくあった事だ。
けれど、アウローラが素顔の方が好きだと言うから眼鏡を外した。
彼女がいなくなって、コンタクトをつけるのが面倒で眼鏡生活になっていたのだが、アウローラには不服だったのかもしれない。
「お前は厳しいね」
写真の中の彼女に苦笑し、それをジャケットの裏ポケットに入れた。
去り際に戸口から部屋を見渡し、深く一礼する。
「お世話になりました」
部屋を施錠し、何事も無かったように教皇庁を後にした。
庁舎を出てから久々に自分の足で街を歩いた。
車で通り抜けてしまうだけの景色と、歩みに合わせて流れる景色では全く違う。毎日通勤で使っていた通りだというのに、知らない店が多いのが意外だった。
そんな通りの途中で、ベリザリオは建物と建物の間の隙間道に入り、通り抜ける間にパーカーのフードを深く被る。
再び路地に合流すると、顔を伏せ気味にして雑踏に紛れた。
しばらく行くと貧民街に流れ着いた。
あても無くぶらつきながら目的のものを探す。
足が完治していないのと、襲撃されてから運動不足だったのが祟って、疲れるのが早い。歩き疲れては休み、また探して疲れては休む。
そんなことを繰り返した末にようやく目的のものを見つけ、それの隣にしゃがんでいる男にベリザリオは話しかけた。
「火を借りても?」
「ん?」
男は胡散臭げにベリザリオを見上げ、おもむろに手を出してくる。
「100ユーロ」
「随分と取るな」
「嫌なら他をあたりな」
「いや」
ベリザリオは財布から紙幣を出そうとした。しかし、100ユーロ紙幣が見当たらない。仕方ないので200ユーロ紙幣を出した。
「釣りは出ねぇぜ」
「構わない」
「毎度」
男は紙幣を受け取ると静かになった。
これ以上要求はなさそうだったので、ベリザリオは財布をしまおうとする。そこに小柄な少年がぶつかってきた。
衝撃でベリザリオは紙袋を落としそうになる。そちらに注意をとられている間に、少年はまんまと財布を奪い逃げていった。
その後ろ姿を呆然と眺めているベリザリオに、男がくぐもった声で言ってくる。
「そんないい身形で不用心に高額紙幣出したりしちゃ、狙われて当然だぜ」
「それは失敗したな」
慌ててもどうしようもないので、気にせず紙袋を放り投げた。一斗缶に落ちたそれが他のゴミと共に燃える。
便箋に含まれた香料か、蝋か、判別はつかなかったけれど、甘い臭いが微かに混ざった。
「取られた財布、気にならねえの?」
「そうだな。そんなには。ただ、さっきの彼と知り合いだというのなら、カードは使うなとでも忠告しておいてやってくれ」
手紙が燃えていく様を眺めながら答えた。
財布の中に本当に大切なものは入っていない。金すら、もう必要ないだろう。
カードを使うなの警告はただの気まぐれだ。
明らかに身形の貧しい少年がベリザリオのカードを使えば、一発で盗品だとばれ、捕まるだろう。半分はこちらの不注意で盗まれてしまったのに、少年が無用な罰を受ける必要はない。
「終焉をもって楽園を創造せん、か」
揺れる火を見ながら呟く。
「ん? 何語喋ってんだ? あんた」
「独り言だ。気にしないで欲しい」
やんわりと男の言葉をかわし、その後は黙った。
今のように追い詰められていれば、粛清された世界はさぞかし楽園に見えるだろう。火が塵を舐める様が、ヨーロッパに災禍が巻き散らされる様子に被ってならないのは、気にし過ぎだろうか。
「世話になったな」
持ち込んだ手紙が全て燃え尽きたのを確認して、ベリザリオはその場を去った。




