4-5 告解
◇
ベリザリオが目覚めた時、視界に飛びこんできたのは乳白色の天井だった。
首を回してみると、複数の規則的なラインを描いている機器や点滴が見え、管を辿ってみれば、当然のように自分の身体に繋がっている。
起き上がろうとしたら腹部と右足に激痛が走り、そのまま枕の上に頭を戻した。
再度首だけを回し窓から外を眺める。
そこには青い空しか見えず、病院の個室にいるらしい事しか分からない。
(なぜこんな事になっている?)
思い出そうとしたら頭痛がした。それに、とても強い眠気が残ったままだ。
満足に動けそうになかったのもあって、欲求に逆らわず、再び眠りに落ちた。
◇
枕元に人の気配がしてベリザリオは目が覚めた。
「アウローラ?」
普通に、そこにいるのは彼女しか思い付かず、呼びながら首を回す。
「お兄様……」
予想に反して、いたのは23歳になる末の妹だった。なぜか、彼女は複雑そうな表情をしている。
「どうした? そんな表情をして。私に隠れて悪戯でもしようとしていたのか?」
「わたくし変な顔をしていまして? 少し眠くて欠伸はしましたけど。そんなに変な顔なら、これからは人前での欠伸に気をつけないといけませんわね」
何事もないかのように彼女は笑った。眉は歪めたままで。
「私はどういう状態なんだ? それに、ここはどこだ。アウローラはいないのか?」
妹の表情は気になったものの、もっと気になる事は他にある。口早に疑問をぶつけてみた。
けれど彼女は答えず、ベッド脇にあるナースコールに手を伸ばす。
「兄が目を覚ましました」
『すぐに主治医を向かわせます』
「お願いします」
その上、短い会話を終えると、こちらを見ずに離れて行ってしまう。
「私の質問の答えは?」
「先生がいらっしゃる前にお手洗いに行きたいので、後ほど」
顔を合わせぬまま、扉が開いて閉じた音がした。
それからすぐに白衣の集団と妹がやってきた。彼らはベリザリオのベッドを上半分だけ立ててくれ、楽に起き上がっていられる状態にしてくれる。
それなりに痛みはあったが、我慢できない程ではない。
「ヴァチカンの掛かりつけ医にお運びするべきだったのでしょうが、出血と傷が酷かったので、ひとまずオルヴィエートで処置をさせて頂きました」
そのように主治医は話を始める。
けれど、彼の言っている事が全く理解できず、ベリザリオはぽかんとしていた。
(ああ、そうだ。確かオルヴィエートに行楽に来ていて――。買い物をした後どうした?)
主治医は怪我の原因をベリザリオが知っているかのように話しているけれど、そんなもの知らない。それに、共に出かけて来たはずの3人の姿が見当たらないのが不思議だった。
せっかく遊びにきたのに何してるんだ、と、毒舌を吐かれそうなものだが、無いと調子が狂う。
3人のことを考えると頭痛がした。
その上、何もわからぬまま主治医の話が続いていくのでイライラする。ベリザリオは頭に手を添えつつ主治医の言葉を遮った。
「すまない。私はなぜ怪我をしているんだ? あと、連れが3人いたはずなんだが、彼らは?」
「ご存知ないのですか?」
主治医が驚いたような反応をした。そのまま横にいる妹に小声で話しかける。
「あの事もまだ?」
「ええ」
「お話しても?」
彼女は厳しい表情で目を伏せ、小さく呟いた。
「はい。葬儀にも出さねばなりませんし、むしろ、こちらから動かす前に目覚めてもらえて良かったかもしれません」
不思議な事を妹は言う。
この状態と葬式に何の関係があるのか分からず、ベリザリオは怪訝に眉を寄せた。
そんな彼に、主治医が再び顔を向けてくる。
「では。まず、現状の話からいたします。卿が当院へ運ばれてきたのは先日の午後になります。事件現場はオルヴィエート外れの教皇庁所有の邸宅ですね。のちほど公安から事情聴取があると思いますので、そちらはご了承下さい」
「事件?」
「その件は当方では分かりかねますので今は置いておきますが。卿にはまず、ご足労頂きたい所がございまして」
看護師が車椅子を押してきた。
「ご気分が宜しいようなら案内致したいのですが、いかがしましょう?」
「必要だというのなら行こう。睡眠は十分のようだしな」
ベッドから動こうとしたベリザリオを何かが引く。邪魔をしているのは身体中に繋がれているコードだ。
「ああ、お待ち下さい。もうすぐ点滴が終わるのでそれから参りましょう。数値も安定しているようですし、不要な機器は外して。少しでも身軽な方が負担は少ないでしょうし」
「わかった」
身体をもとの姿勢に戻し、看護師達が作業するに任せる。
点滴が終わったら車椅子に移った。
エレベーターに乗ると主治医が地下のボタンを押す。簡易案内にはその階にだけ施設の記載がない。
目的の階につくと仄暗い廊下を一行は進んだ。
通路にはいくつかの鉄の扉があり、準備室、解剖室、処置室などといったプレートが気持ち程度掲げられている。
地下のせいか、それともこの階が死体を扱うせいか、背筋がそら寒い。
そんな通路の突き当たり、霊安室にベリザリオは通された。
ここに近付くにつれて強くなる頭痛が洒落にならない酷さになっていて、気分まで悪くなっていたけれど、仕事だと言われれば我慢するしかない。
車椅子が遺体の枕元で止められた。
並べられている遺体は2つ。それとは別に、布を掛けられた小さな塊があるのが目についた。
ベリザリオがそちらに気を取られている間に、看護師達が遺体に被せられた布の顔部分をめくる。
現れた顔にベリザリオの表情が固まった。
「エルメーテ・スフォルツァ卿と、アウローラ・ディ・メディチ様でお間違いないでしょうか?」
横から主治医が無機質に尋ねてくるが、どう反応すればいいのだろう。
上手く答えられず、ただ唇を震わせながら、顔を両手で覆い下を向いた。
彼らの死に顔を見て、無意識に封じていた記憶が戻ってくる。
「アウローラ。エルメーテ……」
嗚咽とも言えない何かがベリザリオの口から漏れた。
彼らは完全に被害者だ。ベリザリオの問題に巻き込まれただけ。
張本人は生きていて、巻き込まれた側だけが死ぬだなど、何の喜劇だろうか。
「ディアーナは?」
遺体が1つ足りない事にベリザリオは気付き、顔を上げた。
「ディアーナ・オルシーニ卿は御無事です。ですが、あなたと彼女以外は、救急隊が回収した時には既に。奥方のお腹の子も、頭部に銃弾が留まっていたのが原因で助けられませんでした」
「……そう、か」
布が掛けられたままの塊に目をやった。
あれが、産まれてすらこれなかった子の遺体なのだろう。けれど、顔を見てやる心の余裕がない。
「少し、1人にしてくれないか」
設えられた救世主像を眺めながらベリザリオは求めた。
「明朝にはご遺体をお屋敷に運びます」
主治医はそれだけ言い後ろを向く。看護師や妹も続こうとした。
「アウローラと子供の遺体は」
妹の背にベリザリオは声をかけた。
「低温保存しておいて欲しい。葬儀には私が出したい」
致命傷ではなくとも、この傷では動けるようになるまで時間がかかる。それまで遺体を保たせるための処置が必要だった。
「ええ、お兄様。お義姉様もきっと喜びますわ」
妹は胸の前で指を組み、首を縦にふる。
「隣室に1人残しておきますので、お帰りになられる時はお呼びください」
今度こそ、ベリザリオを残して誰もがいなくなった。
ベリザリオは痛みを無視して車椅子を転がし簡易祭壇まで行く。そこに置かれた十字架を右手に持ち、左手を聖書に置いた。
教会勤務をしなくなって久しいが、祈祷なども普通にできる。
通常、このような場合、死者の罪からの解放や永遠の安息を願うものだが、ベリザリオはそれをしなかった。
ただ、すまない、と、ひたすらに呟く。
明るい未来を奪ってすまない。
きちんと産まれてこさせてやれなくてすまない。
幸せにしてやれなくてすまない。
自己満足だと分かっていても、謝り続ける事しかできなかった。