4-1 始まりの地 ◇
◆
朝食を終えたテオフィロ達3人がくつろいでいると、ジョエレがのそのそと動きだした。いつもは食後しばらくリビングに転がっている彼だというのに、珍しく自室に引き上げていき、すぐに戻ってくる。
その格好はどう見ても外出仕様で、歩いていく方向も玄関だ。
彼が1人でふらふらするのはいつもの事だが、何も言わずに出かけるのは珍しい。
「ジョエレ出かけんの?」
だから、テオフィロは声をかけた。
「便所」
何ともおかしな答えが返ってくる。
「便所そっちじゃないけど」
見え見えな嘘に突っ込んでみると、
「テオ」
隣に座っているルチアがテオフィロの腕を引き、無言で首を横にふった。突っ込んでやるなという事だろうか。
ジョエレはジョエレで取り繕うつもりすらないようで、
「糞でしばらくこもるから、晩飯はいらねぇぜ」
振り返らず、そう言って出て行った。
あまりに潔すぎる態度にテオフィロは逆に呆れる。
「晩飯いらないほどって、どんだけ頑固な便秘だよ」
今はまだ朝食を終えたばかりの時間で、一日が始まったばかりだ。言葉通り受け取れば、ジョエレは12時間あまりトイレにこもると宣言したことになる。
それを誰が納得するというのだろう。
テオフィロの横でルチアは膝を抱え込んでいる。
「仕方ないよ。ジョエレ、去年もこの日は帰って来なかったじゃない」
「そうだったっけ?」
テオフィロは首を傾げた。
去年の今頃はまだこの家に居着いたばかりで、2人の行動にそんなに注意を払っていなかった。だから、去年と言われても分からない。
幸いにも、テオフィロが覚えているかは大した問題ではないようで、ルチアが頷く。
「そうなの。でね、一昨年もこれくらいの時期にいなくなってた気がしたから、去年聞いてみたんだ。でも、はぐらかされちゃった。きっと、あたし達には触れられたくない事なんだよ」
「あいつ、地味にそういうの多いよね」
「そうね」
少し寂しそうな顔をしてルチアが立ち上がった。彼女はしばらく天井を見上げていたけれど、次振り向いた時には笑顔に戻っている。
「ね、テオ。今晩2人だし、たまには外に食べに行こっか」
「俺はどうでもいいけど」
「じゃぁ決まり。ジョエレいないし、お洒落なお店でもいいよね」
ご機嫌に彼女は棚から雑誌を取り出し、店を見繕いだした。
ジョエレが大衆食堂を好むので、3人で外食する時はそういう系統の店に入る事が多くなる。テオフィロとしてもそちらの方が気楽で良いのだが、ご主人様が望むのなら、どこだろうと付いていくだけだ。
ただ、テーブルマナーの煩い店だけは勘弁してくれと、心の中で祈っておいた。
◆
ジョエレは駅で列車に乗り込み、ヴァチカンの北にある街オルヴィエートを目指した。
街につくと商店の立ち並ぶ区画へ向かう。
世界一美しい丘上都市と呼ばれる街は、その名の示す通り崖の上に立つ街だ。中央部に建つゴシック様式の大聖堂は時間と共に表情を変え、必見の美しさとも言われる。
そんな景観にすら脇目も振らず必要な物を買うと、馬を借りて街外に続く小道に入った。オリーブの木が立ち並び、ぶどうと小麦の畑が広がる地域を進んで行く。
しばらくすると、周辺と微妙に空気の違う一帯に辿り着いた。
「26年も経ったのに、周囲に馴染みきらねぇもんだな」
手綱を引き馬を止める。手近なオリーブに馬を繋ぐと、程よい大きさの石に腰掛けた。オルヴィエートで買った物を詰め込んだ袋から紙コップを取り出し、それに白ワインを注ぐ。
「悪いなエルメーテ。お前の好きだった奴は欠品だってよ」
液体で満たしたコップを地面に置いた。続いてコップを2つ出し、両方にワインを注ぐ。片方だけを手に取った。
中身をちびちび舐めていると、先程ジョエレがやって来た方向から蹄の音がする。
馬の嘶きと女の声が聞こえた少し後には、足音が近付いてきた。
「毎年この日だけは忘れないのね、あなた」
「お前もな」
ジョエレの横に座ったディアーナに空の紙コップを渡す。彼女がきちんと持ったらワインを注いだ。
「今年は安酒ね。いつもの奴もそんなに高いって程じゃないはずだけど。あなた、そんなに金欠なの?」
「欠品してたんだよ。あれじゃないなら、あとはどれでも同じだろ」
「それなら仕方ないわね」
今日は普段着のディアーナが手にしていた紙袋からパニーノを2つ取り出し、地面に置いた紙コップの横に置いた。再度袋に手を突っ込んだ彼女は両手に1つずつパニーノを持ち、聞いてくる。
「どっちがいい?」
「サラミ」
「飽きないわね」
「お前もいつも蒸し鶏じゃねーか」
ジョエレはディアーナから片方のパニーノを受け取り、すぐに頬張った。選んだのは数種類の野菜とサラミが挟んであるもの。個人的に、この組み合わせが最高だと思っている。
ジョエレの好みを熟知して選んできているにも関わらず、彼女は毎年尋ねるのだ。どっち? と。
何を思って聞いてくるのか。永遠の謎の1つだ。
「あら」
パニーノを食み、ワインに口を付けたディアーナが意外そうな声をだした。
「このワイン、パニーノに凄く合うわね。いつものよりいいくらいだわ」
「まぁ。大衆食にはお手頃価格の奴の方が合うよな、普通に」
「何よ。きちんと考えて選んできてるんじゃない」
「いつものが欠品だったのは本当だけどな」
ジョエレが肩を竦めると、ディアーナは呆れたように嘆息した。それから、もうひと口、小さくパニーノを噛む。
「あなたがこういう物にも詳しくなるだけの時が流れたのね」
「まぁな」
「彼らの魂も、そろそろ主の御許に辿り着いたかしら」
切ない目つきで彼女が虚空を眺める。
「だといいが」
ジョエレも小さく呟いた。