間話 教皇庁の人々
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ピリッとした空気の漂う教皇庁の1室。
そこにある執務机の前にバルトロメオとアンドレイナが直立していた。
彼らの前には黒髪をきっちりと固めた中年男性が座っている。難しい顔で書類をめくる彼こそ、2人の上司の上司、教理省長官レオナルド・ボルジアである。
レオナルドは書類を机の上に放ると、疲れを感じ背もたれに寄りかかった。
「報告は分かった。とりあえずは、聖下並びにオルシーニ卿、生徒達に死者が出なくて何よりだった。あの場にいらしたのがオルシーニ卿だったのが幸いだったな」
「はい。さすがは稀代の三傑とまで言われたお方。お年を召されたとはいえ、一線で動けるだけの力は健在でした。それに、庁外に優秀な人材をお持ちのようです」
「使える手駒が多いとは羨ましい話だ」
小さく鼻を鳴らし執務机に肘をつく。
「それで、捕縛した組織の構成員は?」
「何も吐かぬまま毒を」
アンドレイナの言葉にレオナルドは眉間に皺をよせた。それを解すため、眉間を指の腹でなでる。
「またか。奴らの忠義心はどうなっているのだろうな?」
「末端の人間までこうも情報秘匿に死を選ぶとなると、何か催眠でも掛けてあるのかもしれません」
「厄介だな。何か方策を取らねば、尻尾すら掴めんか」
溜め息が出た。
読み終えた書類はとりあえず引き出しに入れ鍵を掛ける。
その間もアンドレイナの報告は続く。
「あと、ル・ロゼの学長なのですが、評議員に乗せられていただけで、計画の真相は知らないようです」
「捕まるのは役に立たぬ小者ばかりか」
レオナルドは椅子から立ち上がり窓辺に寄った。
窓から見えるヴァチカンの街並みは一見平和だ。しかし、地下では危険と言うにも危険過ぎる連中が暗躍している。
彼らの動きはとても周到で、派手なくせに尻尾は掴ませてくれない。そもそもが、人々は組織の存在すら知らない。
教皇庁にすら彼らに気付いている人間がいないくらいなのだから、事態は深刻だ。
(いや。あるいは、私以外にもあと1人)
組織の存在に気付いていそうな人物が脳裏に浮かんだが、あくまで勘だ。ここで考えたところで答えの出る問題ではない。
思考を保留しレオナルドは振り向いた。
「何にせよご苦労だった。お前達も愚弟に振り回されて大変だっただろう。特にバルトロメオ。お前はしばし軽い職務に就き、傷を治すことに専念するといい」
「お心遣いいたみいります。しかし、これしきの傷、気合を入れれば痛みも感じません」
バルトロメオが深々と腰を折る。
どこまでも根性論を振り回す彼がレオナルドは嫌いではない。しかし、それと仕事は別だ。苦笑を浮かべてバルトロメオに言う。
「いざという時、十全に動けねば困るのだ。今回のようにな」
「はっ。承知しました」
頭は下げたまま承諾の返事が返ってきた。
話さなければならない事は全て話したので、レオナルドは手を叩く。
「それでは解散だ。くれぐれも、お前達が私の指示で動いていると悟られぬように。局長といえども漏らすなよ」
「はっ」
異端審問官達は敬礼し、去ろうとして、
「あ」
バルトロメオが抜けた声を出した。
「何だ?」
「局長から、局員の鍛え直しをするから1時間遅れると言付かっておりました」
「ん。ああ、了解した。何なら日にちをずらしても構わんと伝えておいてくれ。飲みより職務の方が大切だからな」
「承りました。では」
今度こそ2人は部屋を出て行った。
レオナルドも部屋を出る。国務省に赴き1室の扉を叩いた。
「レオナルド・ボルジアです。オルシーニ卿、よろしいでしょうか?」
「ちょっと待ってちょうだい」
中から落ち着いた声が返ってきた。
言われた通りその場で待つ。
しばらくすれば入室の許可が下りるものとばかり思っていたのだが、予想に反してディアーナが部屋から出てきた。
「こんにちはボルジア卿、何用かしら? 来客中だから、時間のかかる用なら後から私が伺うけど」
「これは失礼致しました。いえ、先日の件で挨拶がしたかっただけなので、すぐに終わります」
「ここでのお話でいいかしら?」
「構いません。むしろ、お時間を頂きありがとうございます」
レオナルドは頭を下げた。
ロールでの件に関しては、警備の不備といい、騒動を引き起こす原因となった彼の事といい、レオナルドには非しかない。
いかなる叱責や罵りも受ける覚悟――だったのだが、ディアーナからは優しい雰囲気しか感じられない。
「この間は弟君が大変でしたね。彼は元気になられましたか?」
かけられた言葉も、雰囲気同様に温かいものだ。
「あれから顔を合わせていないので分かりかねますが、その件では愚弟がご迷惑をおかけしました。弟に代わり、せめて挨拶をと」
「あら、いいのよ。謝罪なら、聖下から既にいただいているから」
笑うように彼女が言った。
全てを受け止めてくれそうなディアーナの空気に、つい、レオナルドの口がゆるむ。
「事情が事情とはいえ、やはり、あれを教皇に持ち上げてしまったのは失敗であったと、そう思わずにはいられません」
「ボルジア卿」
少し、ディアーナの口調が厳しくなった。
「私はそうは思わないわ。誰にだって始まりはある。未熟な頃もね。きちんと導けば彼は伸びるでしょう。それこそ私達年長者の役目じゃないかしら?」
(あいつはそんな器ではない)
頭を下げたままレオナルドは思った。
メルキオッレには人々を惹きつけるカリスマも、それを補うだけの才能と胆力も無い。兄である自分が一番心得ている。
けれど、身内を認められ嬉しくない者などいない。
レオナルドは頭を上げ微笑んだ。
「世辞とはいえ有難うございます。私も、あれへの接し方や評価を変えておきましょう」
「そうしてくれると嬉しいわ。もういいかしら? ごめんなさいね」
再び優しい雰囲気に戻ったディアーナが扉の取っ手に手をかける。
「お忙しい中失礼致しました。では」
それ以上彼女を引き止めず、レオナルドも国務省を後にした。
◆
ディアーナが部屋に戻るとメルキオッレが扉に張り付いていた。
「お行儀が悪いですね」
ひとこと彼女が指摘すれば、彼はばつが悪そうに扉から離れる。
「ごめん。兄さんのことが気になっちゃって」
「聖下のお兄様は厳しい方ですから、その点は大変ですね」
ディアーナは苦笑した。
レオナルドは自分にも他人にも厳しい男だが、メルキオッレには特に厳しい。兄弟2人が顔を合わそうものなら説教が飛ぶのだから、大変な話だ。
呼び出される前に座っていたソファの場所に戻ろうとすると、背にメルキオッレが話しかけてくる。
「ねぇディアーナ」
振り返ってみれば、真面目な表情の彼がこちらを見ていた。
「さっき言ってた言葉なんだけど。僕は本当に伸びれるかな?」
ディアーナは数度まばたき、柔らかく微笑む。
「ええ、そう思いますよ」
その言葉で彼は落ち着いたのか、笑顔でソファに座った。もう冷めてしまったであろう珈琲をひと口だけ含み、呟くように言う。
「兄さんにはいつも溜め息ばかりつかれるから。僕もベリザリオ卿みたいに何でもできれば良かったんだけど」
「聖下」
ディアーナはメルキオッレの対面に腰掛けると、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「よいですか? ベリザリオだって、最初から全てが出来たわけではありません。入庁したての頃は、彼だって上手くいかない事は多かったのですよ」
「そうなの? 確かにこの前聞かせてくれた昔話の彼は、ちょっと型破りな成績いいだけの人って感じだったよね」
「そう。彼も普通の人間だったんです。ただ、それなりに頑張っただけ。聖下だって出来ない努力ではありません」
「でも、僕、彼みたいに、教皇庁の仕事もしながら新種ウィルス発見とか、新技術の開発とかできる気しないし」
メルキオッレが困ったように斜め上を向く。
「それは努力してから仰っていただきませんと」
ぴしゃりとディアーナは青年の逃げ道を塞いだ。けれど、それだけではメルキオッレが困るだろうから、別の道を提示する。
「人には向き不向きがある。あなたはあなたらしく育てばよろしいのですよ」
そうすると、彼は自信無さそうに、上目遣いにディアーナを見てきた。
「ディアーナは手伝ってくれる?」
今更そんな事を言われるのかと、ディアーナは苦笑気味に返す。
「私はあなたが即位してから、ずっとお側にいたつもりですが?」
「うん。うん、そうだね! ありがとうディアーナ。僕、もうちょっと頑張ってみるよ」
嬉しそうにメルキオッレは目を輝かせ拳を握った。やる気が出たのか、ちょっと勉強してくると言って退室する。
「……ベリザリオね」
1人になった部屋で、メルキオッレのカップを回収しながらディアーナは目を細めた。
(そういえば、もうすぐ彼らの命日だったわね)
流しに飲み残しを捨てる。
細く流れ行く液体と、胸中で蠢く憎悪と。どちらの闇色が濃いのだろうか。