3-12 在りし日の1ページ 前編
ル・ロゼは選帝侯や旧貴族、富裕層の子女が通う伝統校だ。
当然のようにディアーナも8歳になると入学させられた。この年入学した他の選帝侯の子供は彼女の他に2人。
1人はデッラ・ローヴェレ家のベリザリオ。
もう1人はスフォルツァ家のエルメーテ。
家格が同じだと気楽なのも手伝って、気がつけば3人はいつもつるんでいた。授業もそうだが、遊び歩く時まで。
といっても、レマン湖くらいしか遊び場所のないロールだ。
遊びたければジュネーブまで行かねばならないのだが、金銭感覚を養うためと毎月学校から支給される小遣いは初等教育課程では極わずかで、電車代すらきつい。
学外での溜まり場は喫茶【木漏れ日】であるのが常だった。
喫茶店のテラス席の一角で、明るい茶色の髪をした少年が机に突っ伏す。
「校規とはいえよー、小遣い渋すぎると思わねぇ? ジュネーブにすらおちおち遊びに行けねえとか」
それからも彼は同じような愚痴をつらつらと並べ続ける。
いい加減呆れたのか、同じ席に座っている金髪碧眼の少年が本から顔を上げた。
「エルメーテ。それはもう聞き飽きたから、何か他の面白い話題を提供してくれ」
「話題を提供してくれって。お前、どうせ本読んでる片手間でしか聞かないだろうがよ、ベリザリオ」
「本気で面白い時はお前の話に集中してるだろ?」
「面白い話がほとんど無いっていうのが致命的よね」
ディアーナも、くせ毛気味な自らの髪を指でいじりながら言ってやった。
「そうだな。それが1番の原因だ。そんな調子では将来立派な芸人にはなれないぞ、エルメーテ」
「誰がなるかっ!」
勢いよくエルメーテが立ち上がった。鼻息荒く彼は言葉を続ける。
「いつも言ってるだろ! 俺が将来なるのは」
「教皇だろ?」
「教皇でしょ?」
先回りして答えを言ってやると、彼は言葉を失い、口だけをぱくぱくさせる。
「よく分かってるじゃねーか」
そのくせ偉そうに椅子に座り直した。
そんな彼を見ながらディアーナは笑う。
「まぁ、本気で教皇になりたいなら、軽く学年主席くらい取ってもらいたいものよね」
「主席って。俺の上にいるの、お前とベリザリオだけじゃねーか」
「主席すら取れずに人々の頂点に立とうとしてるの? そんなんじゃ、私とベリザリオの方が教皇の椅子に近いんじゃない?」
「それは許さん!」
エルメーテが両拳を机に叩きつけた。
机の上の珈琲カップが浮かび上がり音を立てる。中身がこぼれなかったのは幸いだ。
彼は勢いのままベリザリオの本を奪い、それを叩いた。
「そもそも、こんな時にまで勉強してるから、ベリザリオとの差が埋まらねーんだよ」
「馬鹿じゃない? 本、見てみなさいよ」
呆れまなこでディアーナは本を指した。
不思議顔のエルメーテが下を向く。
「こいつが何だって……。ツァラトゥストラはかく語りき? お前、何だってこんなの読んでんの?」
「私が何を読もうと勝手だろう?」
むすっとしたベリザリオが本を奪い返す。
「枢機卿になるには神職に就かないとならないから、教会批判系の本は読み難くなるかと思って」
「だから今の内に読んどくってか?」
無言でベリザリオが頷いた。
エルメーテは両手で髪を掻き乱す。
「さき見過ぎだろ! 11の身空でニーチェって何!? しかも今から枢機卿になる準備って、どういう事!?」
「お前の方が夢は大きいだろう? 教皇は枢機卿の上なんだから。私のは趣味の読書だが、お前は本気で勉強した方がいいと思う」
「こんな奴にすら勝てない、俺の貧相なおつむが恨めしい」
再び机に突っ伏しながらエルメーテはベリザリオへと顔を向けた。
「なー、ベリザリオ。なんでお前眼鏡なんてしてんの? 昨日までしてなかったよな?」
「ん? ああ。最近字がぼやける時があるから作ってみたんだ。中々いいもんだよ、眼鏡」
ベリザリオが微笑みながら上半分にだけフレームのある銀縁眼鏡に手を添えた。彼が眼鏡を着けたのは先程本を読み始めてからだが、中々どうして様になっている。
エルメーテは突っ伏したまま首を回し、今度はディアーナを見上げてきた。
「なぁディアーナ。眼鏡の良さって分かる?」
「分かるわけないじゃない」
素っ気なく答えを返す。
もっとも、眼鏡が悪いとも思わなかった。つまるところ、どうでも良いというやつだろう。
◇
ル・ロゼの生徒はほぼ全員が寄宿舎に入る。
基本は2人部屋で、高等教育課程まで進めば1人部屋に移る。そういうシステムになっている。
ベリザリオとエルメーテは入学時から同部屋。
ディアーナもルームメイトがいた。けれど、12歳の新学期を迎える前にルームメイトは退学し、1人になった。
退学は珍しくない。
ル・ロゼは高度な教育を保証してくれるが、その分学費が高い。身の丈に合わせて、教育課程の一時期だけをこの学校で過ごすというのはよくあることだ。
いなくなる者がいれば入ってくる者もいる。
ディアーナの部屋にも新学期には新たなルームメイトが割り振られた。
「アウローラ・ディ・メディチといいます。よろしくお願いします」
部屋に入ってきて早々、新入生の彼女は頭を下げた。
柔らかそうな細い金髪がさらりと流れる。上げた顔の中では、おっとりとした緑の瞳が揺れていた。
「よろしくアウローラ。私はディアーナ・オルシーニ。ディアーナでいいわよ。それに、これから毎日顔を合わすんだもの。もっと気楽にしてちょうだい」
「うん。じゃぁ、そうするね」
アウローラはそう言って無邪気に微笑む。
3つ年下の新しいルームメイトは不思議と気があった。その上、中途入学というのもあり、彼女は同級生よりディアーナに懐いた。
授業以外では彼女も共にいるようになり、今まで3人だった集まりは4人になった。
喫茶【木漏れ日】のテラス席にも4つの頭が並ぶ。
「マジ小遣い増えねえかなぁ」
人数が増えようともエルメーテの愚痴は変わらず机に突っ伏している。ベリザリオは反応するのが面倒になったのか、エルメーテのぼやきに乗ってやる頻度が落ちた。
「本当に。もう少しくらいくれてもいいのにね」
代わりにアウローラが答えてはくれるのだが、当の彼女は教科書を広げている。どうせなら同じクラスになりたいらしく、飛び級を目指しているらしい。
わからない所があると読書の手を休めてベリザリオが教えてやっているのだから、なんやかんやで彼も面倒見がいい。
「あなたも勉強でもしたらいいんじゃないの? 万年3位のエルメーテ」
「その言葉、そっくり返すぜ。万年2位のディアーナ」
「あら。私はいいのよ。枢機卿にさえなれればいいんだから。あなたが目指してるのはその上でしょ?」
「大丈夫だ。教皇選出に必要なのは総合力だから。勉強で負けても、その他で俺が勝つ」
「私達の成績だって総合で出てるじゃない」
「……」
今更の事を指摘してやるとエルメーテが顔を両手で覆った。しかも、うざったく、「しくしく」と声に出している。
(この男、絶対教皇より芸人が向いてるわ)
彼の言動を見ると常々思ってしまう。
放置しておくのも邪魔だったので、無防備なエルメーテの頭にディアーナは手刀を落としてやった。
「ってーな! 何すんだ!?」
頭を押さえながらエルメーテが文句を申し立ててくる。
「何よ? 煩いから黙れって合図しただけよ」
面倒ながらも返事をした。
するとエルメーテが立ち上がり、店の外の広場を指している。
「ディアーナ。お前にはいつか、俺の方が上だと思い知らせてやらないといけないと思っていた」
「何? 言葉で勝てないからって暴力に頼るつもり?」
ディアーナも立ち上がる。
「アホ言え。暴力じゃない。きっちりと武術で勝負だ」
「何が違うってのよ。それに、護身術の成績、私の方が上だって忘れてるんじゃない?」
「大丈夫だ。本番には俺の方が強い……はずだ」
「はずって何よ? はずって」
広場に着くと、2人して構え腰を落とす。
「あなたの我儘に付き合ってあげるんだから、私が勝ったら今日の珈琲代払いなさいよね」
「んげぇっ!? 万年金欠の俺にたかるとか、お前鬼か!!」
「私達はディアーナが勝つ方に賭けるぞ。エルメーテ、負けたら支払い2人分追加な」
垣根の向こうからベリザリオとアウローラが呑気に顔を出した。
完全に見世物にされているが、まぁ、鬱憤は目の前の馬鹿にぶつければいいだろう。
「私くらいエルメーテを応援してあげる方がいいかな?」
「あいつは尻に火がつかないと本気にならないから、これくらいで丁度いいだろ」
観客2人の会話は平和なものだ。しかし、珈琲代ごときで出る本気がどれ程のものなのだと、軽く突っ込んでやりたい。
「くそう。お前ら、俺が勝ったら向こう1ヶ月俺の分払えよ!」
喚きながらエルメーテが突っこんできた。
突き出された腕にディアーナは手を添えて受け流す。
「先に言っておくわよ。珈琲ご馳走様」
言いながら、彼の顔目がけて振りかぶる……ふりをして、下半身を蹴飛ばした。
上半身を守ろうとしていたエルメーテにもろに蹴りが入る。
「あーあ。相変わらずフェイントに弱いな、あいつ」
冷静なベリザリオの声が聞こえた。
全くもって同意する。そのくせに勝負を挑んでくるのだから、どうしようもない馬鹿だ。
全員の予想通り、勝負は程なくしてディアーナの勝利で終わった。