3-5 湖畔の町 3日目
「ブラザー。使徒バルトロメオ。大丈夫ですか?」
頬を叩く感触にバルトロメオは瞼を上げた。
目の前では心配そうなアンドレイナがこちらを覗き込んできている。
「アンドレイ……ぐっ」
身を起こそうとして、腹に響いた痛みに顔をしかめた。
そんな彼にアンドレイナがハンカチを出してくる。
「血はもう乾いているので大丈夫だとは思いますが、一応これで押さえておいてください」
「すまぬ。しかし、これはどういう状態なんだ?」
服の上からハンカチで傷を押さえつつ、バルトロメオは周囲に目を向けた。
場所は昨夜争っていた湖畔で、薄っすらと夜が明けようとしている。自分達の状態はといえば、怪我を含め、昨夜気を失った時のままだ。
「捨て置かれたようですね。追跡途中で、我々との衝突は避けるように言われていると言っていたので、そのお陰かもしれません」
アンドレイナが立ち上がり手を差し出してきた。
バルトロメオはそれには掴まらず自力で立つ。
「情をかけられたということか。それでも、生き残れて何よりであったな」
「そうですね。それに、今のうちに撤収すれば、今夜の騒ぎを知られずに済むかもしれません」
「ふむ」
落ちている太刀を拾い鞘にしまった。
「思う所は多いが一先ず戻るとしよう。オルシーニ卿の警護がいるとはいえ、いつまでも聖下のお側を離れているわけにもいかんしな」
「ええ」
夜明けを待つ湖畔から、2つの影は足早に去った。
◆
人知れぬ攻防から数時間後。
テオフィロとルチアが湖をのぞむ丘に行くと、すでにメルキオッレは来ていた。前日と同じ木のベンチに座り、同じ姿勢で本を読んでいる。
2人も昨日と同じように近付き、ルチアがメルキオッレを覗き込んだ。
「こんにちはメルク。早いね」
「やぁ」
顔を上げた彼は今日は驚かず、ふわりと笑顔を返してきた。
空けられているスペースにルチアが座る。
「テオも座らない?」
立ったままのテオフィロに彼女は声をかけてくれたけれど、
「ここでいい」
昨日と同じように断った。
座れなくはないが、小さなベンチなので3人はきつい。それなら立ったままの方が気楽だ。ついでに、座っている2人の前か後ろにいる方が話も聞き取りやすいし、会話に入りやすい。
「メルク、今日もニーチェ読んでたんだ?」
メルキオッレの膝の上の本にルチアが視線を落とした。
「うん。この休暇中に読み切ろうと思ってて」
「そうなんだ。でも、なんでニーチェ?」
彼女は人差し指を顎に当て首を傾げる。
メルキオッレが顔を湖に向け、ゆっくりと口を開いた。
「僕の職場には先代デッラ・ローヴェレ卿を崇拝する人がいてさ。どんな人だったらそんなに拝まれるのか興味があって。彼、これ読んでたらしいんだよね」
「ああ、その人知ってる。ええっと、ベ、ベ、何だったっけ?」
名前が出てこないようでルチアが難しい顔になる。
メルキオッレは小さく笑った。
「ベリザリオだよ。ベリザリオ・ジョルジョ・デッラ・ローヴェレ。30年くらい前に亡くなった人なんだけどね」
「そうそう、その人」
「ルチアも知ってるって、そんなに有名人だったんだ?」
少し興味を惹かれたので、話題にテオフィロも加わってみる。
「うん? んー。名前くらいなら?」
「実際凄い人ではあったらしいんだけどね。若くで枢機卿になったりさ。ただ、彼の場合は死に方がね」
メルキオッレが視線を落とした。
「殺されたらしいんだ。近しい人達も一緒に。その中にまた、将来を有望視されていた人がいてさ。そんなこんなで騒ぎになったらしいよ」
「偉い人でも、それはそれで大変なんだ?」
「本当だね。優秀な人は、それだけ周囲からのやっかみも強いだろうから」
彼は少し遠い目で湖を見、
「まぁ、僕みたいな凡人には関係のない話だけど」
笑いながら頭を掻いた。
「優秀だったっていうのはいいんだけどさ、いつまでも人の記憶に居座られると嫌だよね。新人はさ、ずっと彼と比べ続けられるわけだよ。で、あいつならって、勝手に落胆されるんだ」
「なんか嫌だな、それ」
「あたしも嫌」
「でしょ? こんな置き土産ならいらないよね」
メルキオッレの意見にテオフィロとルチアは頷く。
「けどまぁ、そんな事ばっかりも言ってられないからさ」
言いながらメルキオッレが立ち上がった。そのまま振り返る。
「先輩達から少しでも後ろ指さされないように、鋭意努力中って感じ? ね、小腹空かない? ちょっと行った所の喫茶店でお茶でもどうかな?」
問いかけておきながらメルキオッレは既に歩き始めている。
「行く行く。何頼もうかな? 普段行かないお店だと何頼むか悩むのよね」
ルチアが笑って立ち上がり彼に続いた。テオフィロも2人に続こうとした。
(ん?)
この場には不釣り合いな音がして、テオフィロは振り返った。
男をスーツ2人が追いかけている。その3人の進路は、このままだとテオフィロ達のいる場所とぶつかりそうだ。
彼らが避けてくれそうな気配は無い。それどころか、スーツの1人は鞭を振り回し始めた。
「2人とも頭下げて」
「え?」
時間が無かったので、テオフィロはメルキオッレの頭を強引に押し下げ、ルチアは自分の腕の中に庇う。
そんな3人の横を男と鞭が通り過ぎ、すぐにスーツの2人も通過した。
鞭は男に絡まり、それに合わせて追手の足も止まる。
スーツの1人、銀髪の男はテオフィロ達の方を振り向き眉をつりあげた。
「聖……! メルキオッレ様、何故にお1人でこのような所にいらっしゃるのですか!?」
そのまま大音量で一喝してくる。
迫力と大声に、テオフィロ達3人の首が竦んだ。
「知り合い?」
銀髪がメルキオッレの名を出してきたので、テオフィロは呼ばれた本人に尋ねた。
「残念ながら」
耳を押さえていた手をどけながらメルキオッレが嘆息する。
怒鳴られると同時に耳を押さえるだなんて、銀髪の声がうるさいと知らなければ出来ない。となると、申告通り関係者なのだろう。
そのメルキオッレがテオフィロに顔を寄せて言ってくる。
「あのスーツのふたり僕の護衛なんだよね。でも、一緒にいると自由に動けないから、部屋にいるふりして抜け出して来たんだけど」
「運悪く見つかった?」
「みたいだね」
メルキオッレが肩を竦めた。しかし、すぐに真面目な表情になり言葉を続けてくる。
「まだ捕まりたくないから逃げようと思うんだけど、君達はどうする?」
問われたところでこの状況で即答はしかねる。けれど、銀髪が悠長に待ってくれそうには見えないので、
「ルチアのしたいようにすればいい。俺もそれに合わせる」
テオフィロはさっさと決定権を投げた。
「じゃ、どうにかして逃げましょ。それで、もうちょっとだけ一緒に遊んで、帰ってメルクが怒られれば万事解決ね」
悪い笑みを浮かべたルチアがテオフィロの腕の中から抜け出た。
一瞬茫然としたメルキオッレだったけれど、すぐに苦笑する。
「分かった。夜には大人しく説教されるとするよ。じゃ、頑張って走ろ――」
喋っている途中のメルキオッレの肩をテオフィロは押した。そうして、メルキオッレと銀髪の間に立つ。
「テオ?」
メルキオッレが不思議そうに呼ぶものだから、テオフィロは振り向いた。
「俺があの銀髪抑えとくから、その間に行けよ。あっちのオネーサンは荷物があるみたいだから、すぐには動けないだろうし」
「え? でも」
動揺するメルキオッレの腕をルチアが引く。
「じゃぁ、あたし達逃げるから。よろしくねテオ」
「りょーかい」
軽く片手を上げてテオフィロは銀髪の男に向き直った。
「集合場所はさっき言ってた場所で!」
最後にメルキオッレが叫んで足音が遠ざかっていく。
それを追おうと銀髪が動いたけれど、邪魔するようにテオフィロも立ち位置をずらした。
「小僧、誰を逃したのか分かっているのか?」
腰に差していた棒状の包みに銀髪が手をやった。
「昨日知り合ったばかりのメルクって奴だと思うけど?」
テオフィロも拳を握り銀髪へ構える。ついでにスーツの女も視界の端に捉えたけれど、彼女が銀髪の手伝いにくる気配は見られない。
それどころか、
「ブラザー、ここと、あの方を任せていいですか?」
そんな事を言いだす始末だ。
完全に舐められてはいるが、足止めをするには都合がいい。
上手い具合に銀髪も頷いてくれた。
「では」
テオフィロなど見もせず、女は男を縛り上げ連れて行った。
銀髪も彼女に目を向けない。腰の包みを足元に落とし拳を握る。
「やっている事は許されんが、自らを捨てて時間を稼ごうという意気込みや良し! それに免じて某も素手で相手しよう」
「おっさんいいの? 俺、こう見えて喧嘩は得意なんだけど?」
「某は愚か者を制裁するのが得意だが? 謝って許されるのはここまでだぞ」
2人揃って腰を落とした。
久しぶりの感覚に、久しく忘れていた暴力がテオフィロの中で疼く。
「俺、ここ最近大人しくはなったけど、聞き分けがよくなったつもりはないんだよね」




