3-2 湖畔の青年
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翌朝。
ルチアが起きてダイニングに降りると、ジョエレと旦那さんは既にいなかった。
「あの2人、もう出掛けたんですか?」
信じられない、と、ルチアは付け足す。
起きた時間は朝の8時。出掛けるにはまだ早い時間だ。
「そうなのよ。早い方がよく釣れるやつがいるんだ! って、起こされて、朝ご飯作らされたのよ? 早起きするなら先に言っておいて欲しいわよね。昨夜のうちに作ってもおけたんだから。あ、テオフィロ君も起きてくるかしら? それなら一緒に朝の用意しちゃうけど」
ヴァレリーが薬缶を火にかけながらぼやいた。
「起こしてきますね」
そう言って、ルチアはテオフィロ達の借りている部屋に行く。
未だに寝ていた彼を起こし、共に朝食を頂いた。それから少しのんびりして出掛ける用意を整える。
「ヴァレリーさん、夕方に買い物に行くって言ってましたよね? それまでには帰ってきますね」
出かけ際にルチアは振り返った。
「あら、そんないいのよ。せっかく遊びに来たんだから、好きに楽しんでくれれば」
ヴァレリーが笑って手をひらひらさせる。そんな彼女にルチアは小さく首を横に振った。
「少しはお手伝いしたいんです。それに、この地方の料理も教えて貰えたらなって」
「そういうことね。それじゃ一緒に行きましょう。待ってるわね」
「はい。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ヴァレリーに見送られ、ルチアとテオフィロは町に繰り出した。
とりあえず湖へと向かう。レマン湖は対岸が見えない程大きいので、幸い、行き先が分からなくなることはない。
だが。
途中で、ルチアはなんとなく胃のあたりをさすった。
「朝から野菜とかお肉まで出てくるとか信じられない。テオ何ともない?」
「俺は元から食える時にあるものを食べる生活だったから、別に。気持ち悪いの?」
「そこまではないけど。明日からもあんな感じよね」
少し困って肩を落とす。
実家や周囲の人間、ジョエレだって、朝は珈琲と甘い物だけだった。ずっとそんな生活だったから、朝から重いものは辛い。
けれど、せっかくヴァレリーが用意してくれて、その上美味しいせいで、断るのは微妙だ。
「明日は珈琲とパンだけでいいって頼んでみる?」
テオフィロが小首を傾げた。
そんな彼にルチアは笑いかける。
「ううん、いい。何日かしたら慣れるだろうし。ヴァチカンを飛び出てきたんだから、違う文化も体験してみたいし。ちょっと愚痴っただけ、ごめんね」
それで朝食に関する話題はすっぱり終えて、湖畔の散策に戻った。
ロールは自然が多くて、流れる時間もゆっくりで、いい町だと思う。
けれど、小耳に挟んでいた通り何もない。
目立つのはレマン湖とル・ロゼくらいで、娯楽施設といわれるものがほとんど見受けられない。学生達を学業に集中させるために、わざと作っていないのではないかと思えるほどだ。
途中で見つけた喫茶店で昼食をとり散策を続ける。
少し気分を変えて湖を臨める丘に行ってみた。今まで目の前を埋め尽くしていた水色が小さくなり、それに代わり、大地の緑と空の色が空いた領域を埋める。
そんな場所に設えられた木のベンチに1人の青年が腰掛け本を読んでいた。橙色の髪をした彼は、こんな見晴らしのいい場所にも関わらず一切顔を上げない。
その様が珍しくてルチアは彼の側へ向かった。そうして本を覗き込む。
「うわぁ! ビックリした」
青年が驚いて仰け反った。その拍子に手から本が落ちる。
ルチアはそれを拾い、表紙に目を走らせた。
「作者が……ええと、ニーチェ? ってことは、ドイツ語? あるぞ、しゅぷらっは、つぁらとぅすとら?」
「ルチア、ドイツ語分かんの?」
テオフィロが横から覗き込んできた。ルチアは首を横に振る。
「読むくらいは出来なくもないけど、意味は全然」
「Also sprach Zarathustra。イタリア語だと、ツァラトゥストラはかく語りきって訳されてるかな」
青年が笑いながら言った。そして、ルチアが持ったままの本を指す。
「それ、返してもらってもいいかな?」
「あ! ごめんなさい」
ルチアは本を軽く払い青年に渡した。
「ありがとう」
笑顔のまま彼は本を受け取ってくれた。それから座る場所を少し避け、椅子を空けてくれる。
「君達は観光に来た人達? 座るならどうぞ」
「ありがとう」
空けてくれた場所にルチアは座った。テオフィロも近くへは寄ったけれど、立ったままでいいようだ。
「確かにあたし達は観光客だけど、どうして分かったの?」
「どうして? って」
口元に手を当て、青年が綺麗に笑う。
「君達、終始イタリア語だったから。この町の人ならフランス語で喋ってるからね」
「あ」
ルチアは、ぽん、と、手を打った。
イタリア語も通じていたので忘れていたが、確かに周囲はフランス語を喋っている。意味が分からないので雑音と同化していたけれど、確かにそうだ。
「そういうあなたは……学生さん?」
なんとなくそう思った。
青年の見た目は若いし、何より、ニーチェなんて哲学者の本を読むのは、学生か物好きくらいなものだろう。
ルチアとしては真面目に考えて尋ねたつもりだった。
けれど、目の前の青年は本当に楽しそうに笑う。
「ル・ロゼの高等部って、概ね18までなんだけど。僕ってそんなに童顔? 一応24なんだけどね」
「24!?」
ルチアは目を見開いた。そうして呟く。
「あたしより年上だったんだ。てっきり、テオと同じくらいかと」
「君達はいくつなの? 歳を聞くなんて失礼! なんて、怒るような歳じゃないよね」
「あたしが21。こっちの彼が19」
「そうなんだ。結構近いね」
「えっと」
話を切り返そうとして、彼の名が分からず、ルチアは1度口をつぐんだ。
「あたしはルチア。こっちはテオ。あなたは?」
礼儀として、ひとまず自らの名を明かす。
「僕はメルキオッレ。メルクでいいよ」
和かに青年も名乗ってくれた。
彼の名が分かったので、ルチアは先程止めた質問を投げかける。
「学生さんじゃないなら、メルクはこの町の人?」
「外れ。僕はね、休暇に来たんだ。ここ、緑が多いから、たまには外で読書もいいかなって出てきたら、君達が来た感じ」
「そうなの? それじゃあ邪魔しちゃったね」
「いいよ。本はいつでも読めるし、ちょうど暇してたからね。こうやって喋ってる方が楽しいし」
メルキオッレが膝の上の本を叩いた。
それを眺めルチアは首を傾げる。
「ニーチェって哲学書でしょ? 面白いの?」
「どうかな。でも、これは、結構物語としての性格が強いんだよね」
「そうなの?」
「「神は死んだ!」って文から始まるんだから、中々に衝撃的だよね」
衝撃的な言葉にルチアは最初驚き、次に呆れる。
「教会の人が見たら怒りそう」
「そうだね。まぁ、内容も、神になんて頼らず、超人が人々を導くべきだ。みたいな事を書いてるから、やっぱり怒られるだろうね」
メルキオッレも苦笑した。
そうこう話していると、腕時計に目を落としたテオフィロがルチアの肩を叩く。
「ルチア。そろそろ帰り始めないと、ヴァレリーさんを待たせると思う」
「え? もうそんな時間!? 教えてくれてありがとうテオ」
慌ててルチアは立ち上がった。
くるりと振り返り、メルキオッレに笑いかける。
「用があるから帰るね。お喋り楽しかった。ありがとうメルク」
「待って」
メルキオッレがルチアの袖を掴んだ。けれど、彼はすぐに、はっと手を離し、はにかむ。
「明日もまた会えるかな?」
彼が一瞬見せた切実そうな表情が気になり、ルチアはテオフィロを振り向いた。
「いいんじゃない?」
何を言ったわけでもなかったのに、彼はそう返してくれた。
なので、ルチアはメルキオッレに微笑む。
「いいよ」
「そう。じゃぁ、明日もここで待ってる。今日は楽しかった。ありがとう、ルチア、テオ。また明日」
嬉しそうに、メルキオッレが優しく手を振った。




