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堕ちた枢機卿は復讐の夢をみる  作者: 夕立
Ⅲ.アルカナを冠する者達
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3-2 湖畔の青年

 ◆


 翌朝。

 ルチアが起きてダイニングに降りると、ジョエレと旦那さんは既にいなかった。


「あの2人、もう出掛けたんですか?」


 信じられない、と、ルチアは付け足す。

 起きた時間は朝の8時。出掛けるにはまだ早い時間だ。


「そうなのよ。早い方がよく釣れるやつがいるんだ! って、起こされて、朝ご飯作らされたのよ? 早起きするなら先に言っておいて欲しいわよね。昨夜のうちに作ってもおけたんだから。あ、テオフィロ君も起きてくるかしら? それなら一緒に朝の用意しちゃうけど」


 ヴァレリーが薬缶を火にかけながらぼやいた。


「起こしてきますね」


 そう言って、ルチアはテオフィロ達の借りている部屋に行く。

 未だに寝ていた彼を起こし、共に朝食を頂いた。それから少しのんびりして出掛ける用意を整える。


「ヴァレリーさん、夕方に買い物に行くって言ってましたよね? それまでには帰ってきますね」


 出かけ際にルチアは振り返った。


「あら、そんないいのよ。せっかく遊びに来たんだから、好きに楽しんでくれれば」


 ヴァレリーが笑って手をひらひらさせる。そんな彼女にルチアは小さく首を横に振った。


「少しはお手伝いしたいんです。それに、この地方の料理も教えて貰えたらなって」

「そういうことね。それじゃ一緒に行きましょう。待ってるわね」

「はい。行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 ヴァレリーに見送られ、ルチアとテオフィロは町に繰り出した。

 とりあえず湖へと向かう。レマン湖は対岸が見えない程大きいので、幸い、行き先が分からなくなることはない。


 だが。

 途中で、ルチアはなんとなく胃のあたりをさすった。


「朝から野菜とかお肉まで出てくるとか信じられない。テオ何ともない?」

「俺は元から食える時にあるものを食べる生活だったから、別に。気持ち悪いの?」

「そこまではないけど。明日からもあんな感じよね」


 少し困って肩を落とす。

 実家や周囲の人間、ジョエレだって、朝は珈琲カフェラテと甘い物だけだった。ずっとそんな生活だったから、朝から重いものは辛い。

 けれど、せっかくヴァレリーが用意してくれて、その上美味しいせいで、断るのは微妙だ。


「明日は珈琲とパンだけでいいって頼んでみる?」


 テオフィロが小首を傾げた。

 そんな彼にルチアは笑いかける。


「ううん、いい。何日かしたら慣れるだろうし。ヴァチカンを飛び出てきたんだから、違う文化も体験してみたいし。ちょっと愚痴っただけ、ごめんね」


 それで朝食に関する話題はすっぱり終えて、湖畔の散策に戻った。


 ロールは自然が多くて、流れる時間もゆっくりで、いい町だと思う。

 けれど、小耳に挟んでいた通り何もない。

 目立つのはレマン湖とル・ロゼくらいで、娯楽施設といわれるものがほとんど見受けられない。学生達を学業に集中させるために、わざと作っていないのではないかと思えるほどだ。


 途中で見つけた喫茶店で昼食をとり散策を続ける。

 少し気分を変えて湖を臨める丘に行ってみた。今まで目の前を埋め尽くしていた水色が小さくなり、それに代わり、大地の緑と空の色が空いた領域を埋める。


 そんな場所に設えられた木のベンチに1人の青年が腰掛け本を読んでいた。橙色の髪をした彼は、こんな見晴らしのいい場所にも関わらず一切顔を上げない。


 その様が珍しくてルチアは彼の側へ向かった。そうして本を覗き込む。


「うわぁ! ビックリした」


 青年が驚いて仰け反った。その拍子に手から本が落ちる。

 ルチアはそれを拾い、表紙に目を走らせた。


「作者が……ええと、ニーチェ? ってことは、ドイツ語? あるぞ、しゅぷらっは、つぁらとぅすとら?」

「ルチア、ドイツ語分かんの?」


 テオフィロが横から覗き込んできた。ルチアは首を横に振る。


「読むくらいは出来なくもないけど、意味は全然」

「Also sprach Zarathustra。イタリア語だと、ツァラトゥストラはかく語りきって訳されてるかな」


 青年が笑いながら言った。そして、ルチアが持ったままの本を指す。


「それ、返してもらってもいいかな?」

「あ! ごめんなさい」


 ルチアは本を軽く払い青年に渡した。


「ありがとう」


 笑顔のまま彼は本を受け取ってくれた。それから座る場所を少し避け、椅子を空けてくれる。


「君達は観光に来た人達? 座るならどうぞ」

「ありがとう」


 空けてくれた場所にルチアは座った。テオフィロも近くへは寄ったけれど、立ったままでいいようだ。


「確かにあたし達は観光客だけど、どうして分かったの?」

「どうして? って」


 口元に手を当て、青年が綺麗に笑う。


「君達、終始イタリア語だったから。この町の人ならフランス語で喋ってるからね」

「あ」


 ルチアは、ぽん、と、手を打った。

 イタリア語も通じていたので忘れていたが、確かに周囲はフランス語を喋っている。意味が分からないので雑音と同化していたけれど、確かにそうだ。


「そういうあなたは……学生さん?」


 なんとなくそう思った。

 青年の見た目は若いし、何より、ニーチェなんて哲学者の本を読むのは、学生か物好きくらいなものだろう。


 ルチアとしては真面目に考えて尋ねたつもりだった。

 けれど、目の前の青年は本当に楽しそうに笑う。


「ル・ロゼの高等部って、概ね18までなんだけど。僕ってそんなに童顔? 一応24なんだけどね」

「24!?」


 ルチアは目を見開いた。そうして呟く。


「あたしより年上だったんだ。てっきり、テオと同じくらいかと」

「君達はいくつなの? 歳を聞くなんて失礼! なんて、怒るような歳じゃないよね」

「あたしが21。こっちの彼が19」

「そうなんだ。結構近いね」

「えっと」


 話を切り返そうとして、彼の名が分からず、ルチアは1度口をつぐんだ。


「あたしはルチア。こっちはテオ。あなたは?」


 礼儀として、ひとまず自らの名を明かす。


「僕はメルキオッレ。メルクでいいよ」


 和かに青年も名乗ってくれた。

 彼の名が分かったので、ルチアは先程止めた質問を投げかける。


「学生さんじゃないなら、メルクはこの町の人?」

「外れ。僕はね、休暇に来たんだ。ここ、緑が多いから、たまには外で読書もいいかなって出てきたら、君達が来た感じ」

「そうなの? それじゃあ邪魔しちゃったね」

「いいよ。本はいつでも読めるし、ちょうど暇してたからね。こうやって喋ってる方が楽しいし」


 メルキオッレが膝の上の本を叩いた。

 それを眺めルチアは首を傾げる。


「ニーチェって哲学書でしょ? 面白いの?」

「どうかな。でも、これは、結構物語としての性格が強いんだよね」

「そうなの?」

「「神は死んだ!」って文から始まるんだから、中々に衝撃的だよね」


 衝撃的な言葉にルチアは最初驚き、次に呆れる。


「教会の人が見たら怒りそう」

「そうだね。まぁ、内容も、神になんて頼らず、超人ツァラトゥストラが人々を導くべきだ。みたいな事を書いてるから、やっぱり怒られるだろうね」


 メルキオッレも苦笑した。

 そうこう話していると、腕時計に目を落としたテオフィロがルチアの肩を叩く。


「ルチア。そろそろ帰り始めないと、ヴァレリーさんを待たせると思う」

「え? もうそんな時間!? 教えてくれてありがとうテオ」


 慌ててルチアは立ち上がった。

 くるりと振り返り、メルキオッレに笑いかける。


「用があるから帰るね。お喋り楽しかった。ありがとうメルク」

「待って」


 メルキオッレがルチアの袖を掴んだ。けれど、彼はすぐに、はっと手を離し、はにかむ。


「明日もまた会えるかな?」


 彼が一瞬見せた切実そうな表情が気になり、ルチアはテオフィロを振り向いた。


「いいんじゃない?」


 何を言ったわけでもなかったのに、彼はそう返してくれた。

 なので、ルチアはメルキオッレに微笑む。


「いいよ」

「そう。じゃぁ、明日もここで待ってる。今日は楽しかった。ありがとう、ルチア、テオ。また明日」


 嬉しそうに、メルキオッレが優しく手を振った。

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