3-1 湖畔の町 1日目 ◇
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駅舎に列車が停まる。
わらわらと車両から出る人々と共に、ジョエレ、ルチア、テオフィロの3人もホームに降りた。
窮屈な環境からようやく解放されジョエレは背伸びする。
「やっぱ遠いなー。身体がガチガチだぜ」
「ここがロール?」
駅舎を眺めながらルチアが尋ねてきた。ジョエレは軽く肩を回しながら答える。
「そ。旧スイス領ヴォー州ロール。そん中のロール駅だな」
「そっかぁ。旧イタリア領出たの初めてだから、ちょっと緊張しちゃう」
ルチアは忙しなく周囲を見回している。
「落ち着けって。テオを見てみろよ。全く動じてないぞ」
ジョエレはテオフィロを指した。
テオフィロは線路の向こうを見つめていて、ルチアと違い落ち着いたものだ。それでも話は聞いていたようで、こちらを向く。
「知らない世界過ぎて、反応のしようがないだけ」
「すまん。お前より重症だった」
「みたいね」
そうこう騒いでいると見知った婦人が近付いてくる。
「お久しぶりガイドさん達。相変わらず仲がいいみたいで見つけやすかったわ」
面長の顔に笑みを浮かべヴァレリーが手を振った。
「あ、ヴァレリーさんお久しぶりです! ご招待頂いてありがとうございました」
ルチアはトランクケースをジョエレに押し付け、身軽にヴァレリーの方に駆けていく。女2人は笑顔で抱擁し合った。
そんな感動の再会を果たすために渡されたトランクケースは非常に重い。ジョエレの荷より確実に重くて、彼は口をへの字にした。
「あいつ、こんなに何持ってきたんだ?」
「さぁ? テディベア持って行くか悩んでたのは見たけど」
「テディベアって、寝る時にいつも抱いてるあれか」
「ルチアって、あれで結構乙女だよね」
「ガキの間違いだろ」
悪態をつきつつ女性陣の元に向かう。けれど、2人の側までたどり着く前に笑顔を浮かべ、
「お久しぶりですマダム。相変わらずお美しいですね」
愛想よく挨拶した。ヴァレリーは笑いながら口元を手で隠す。
「あなた達もお久しぶりね。旧イタリア領の殿方はお世辞が上手いんだから。いつまでも荷物を持っているのも邪魔でしょうから、さっさとうちに案内するわね」
そう言うと彼女は歩き出す。横にルチアが並んだ。
ジョエレとテオフィロは後ろに続く。
「うわぁ、凄い!」
駅舎から出た途端にルチアが叫んだ。彼女は興奮冷めやらぬ様子で周囲を見回し、胸一杯に空気を吸い込んでいる。
「ロールって本当に素敵な所ですね。町並みは綺麗だし、緑が多くて空気が澄んでるし。それに、電車の中から見えていたレマン湖も凄く大きくて、感動しちゃいました」
「そんなに褒めても何も出せないわよ」
ほほほとヴァレリーが笑った。謙遜したようだが、まんざらでもない顔をしている。町並みは彼女にとっても自慢なのだろう。
そんな話題が出るのも当然なほどロールはヴァチカンと違う。
レマン湖畔にありながら周囲に高山が多いこの地は、どちらを見ても稜線が見え、町自体もなだらかな坂道が続いている。下部を白く化粧した木造の建物が並ぶ様もここならではのものだ。
アスファルトと石畳、石やコンクリートで作られた建物といった人工物で覆われたヴァチカンとは、正反対と言っていい。
「あそこに見えるお城みたいなのって何ですか?」
丘の上に立つ建物を指しながらルチアが首を傾げた。
「ああ、あれね。あそこは学校なの。ル・ロゼっていって、選帝侯や旧貴族とか、裕福なお宅のお子さんが通う所ね。昔のお城を校舎にしてるらしいから、ぱっと見ると学校だなんて分からないわよね」
くすくすとヴァレリーは笑う。その途中で、「あ、でも」と、顎に人差し指を立てた。
「ルチアさんの姓ってマラテスタじゃない? 選帝侯であるマラテスタ家出身なら、ここに来てたんじゃないの?」
「ないない」
ルチアが苦笑しながら手を横に振る。
「選帝侯の人間がガイドとかしてませんって。先祖の誰かが勝手に名乗り出しただけなんじゃないですかね? あたしもちょっと迷惑してるんです」
「言われてみればそうね。ふふ、良かった。あなたが一般人って分かって、今までよりずっとお喋りしやすくなったわ」
それからも女性2人の会話は途切れず続く。
反対に、テオフィロは一言も発さず周囲を見ながら歩いている。
「おいテオ。お前もなんか感想ないのか?」
ジョエレもちょっと喋りたくなって、隣を歩く青年に話しかけてみた。
「ん」
テオフィロはあらぬ方向を向いたまま、ぼやっとした返事をしてくる。
「道に迷ったとき困りそうだなって。ヴァレリーさんはイタリア語で話してくれてるけど、すれ違う人達の話してる言葉、俺わかんないし」
「なんだぁ? んなこと心配してたのか」
ジョエレはテオフィロの尻を叩いた。
「確かにここはフランス語圏だが、イタリア語も通じるから気にすんな。てかまぁ、イタリア語は大体どこでも通じる。なんてったって、天下の教皇聖下のお膝元で話されてる言葉だからな」
「そうなんだ? てか、ジョエレよく知ってたな」
「ま、年の功ってやつよ」
少しばかりの哀愁を込めて、ジョエレは昔から変わらぬ町並みを眺めた。
この町にいる間はヴァレリー宅に滞在することになり、ジョエレとテオフィロには一室が与えられた。ルチアはヴァレリーの部屋で厄介になるらしい。
今晩は庭でバーベキューらしいのでジョエレ達も用意を手伝う。
そうしていよいよ食材を焼き始めた時、網に乗った物にジョエレは歓声を上げた。
「魚じゃねーか、マジか!」
「お客さんが来るって言ったら主人が張り切っちゃって、昼間に釣ってきてくれたの。でも、釣りに行くなんて、私には教えてくれてなかったのよ」
魚に塩をかけながらヴァレリーが唇を尖らせる。
「何も釣れなかった時が恥ずかしくて、言えなかったんですよ」
旦那さんが困ったように笑った。男のちっぽけなプライドというやつだが、ジョエレとしては分からなくもない。
用意されていたビールを2瓶取り、片方を旦那さんに渡す。
「分かりますその気持ち。女性にはいい姿だけ見せたいもんですからね。こういう時は飲みましょう」
「君は分かってくれるのかね? そうなんだよ。良かれと思って頑張っても、妻には叱られるばかりでね」
旦那さんが瓶を開けジョエレの瓶とぶつけた。2人で酒を一気にあおり、かーっと息を吐き出す。
「それにしても、レマン湖で釣りも出来たんですね。ヨット遊びと泳ぐことにしか目がいっていませんでした」
「観光客の方はそうでしょうな。住民だからこその楽しみってやつですよ」
「いいですね、それ。俺も出来たりします?」
「お、興味がありますか? 明日も休みなんで、なんなら一緒に行きますか?」
旦那さんが棒を握るように手を握り、縦に振った。釣竿を振りかぶる動きだろう。
「是非」
ジョエレは笑顔で手を差し出した。それを旦那さんが握り返してくれる。そこからは男2人で肩を抱き合い、酒を飲み、焼けた物を適当につまんだ。
「ごめんなさいね、うちの主人に付き合わせちゃって」
ヴァレリーが申し訳なさそうに謝る。
「気にしないでください。むしろ、こちらこそすいません。うちのロクデナシが絡んじゃって」
ルチアも頭を下げた。
「おいルチア、酷いこと言うなよ。明日はたっぷり釣ってきてやるからよ」
「ヴァレリー。明日はフィッシュアンドチップスだな」
心の通じ合った男2人で不服を訴えてみるが、彼女達の冷たい視線は変わらない。
「はいはい。期待して待ってるわ」
欠片も期待されていない口調でヴァレリーにあしらわれた。
傍で、いつぞやのバーベキューの時のように、ルチアはジョエレとテオフィロの皿に野菜を放り込んでいく。
「ね、テオ。あたし達明日どうしよっか?」
「俺達も釣りじゃないの?」
テオフィロは顔をしかめたが、文句は言わず、野菜から片付けだした。
ジョエレの隣で旦那さんが困ったように頭を掻く。
「申し訳ない。船が定員2人なんだ」
「ですって」
心なし嬉しそうにルチアがテオフィロに振り向いた。あれは、釣りに興味が無かったに違いない。
「まぁさ、お前達はここ来たの初めてなんだから、レマン湖周辺でもぶらついてみたらどうよ? ル・ロゼの学生達も、入校したら真っ先に湖に行くもんだし」
きょとんとルチアが目を瞬く。
「そうなの? じゃ、明日は湖に行ってみよっか」
「りょーかい」
テオフィロは短く返事し、よく焼けた魚に手を伸ばした。
ルチアも魚を取り、一口かじった後でジョエレに顔を向けてくる。
「ジョエレ、なんか詳しいよね」
「そういえば、ジョエレさんはフランス語もとても堪能よね。以前こちらにいたことでも?」
ヴァレリーまで話に加わってきた。
「昔、少しだけ」
ぽつりとジョエレは呟く。
その後で飲んだビールがいつもより苦く感じた。
◆
夜のロールを4つの影が走り抜ける。
後方を走るスーツ姿の人物から銀線が放たれた。前を走る1人が捕まり地に伏せる。
もう1人のスーツの人物は腕を振るった。黒い影がしなり、前方の人物の首に巻きつく。
首を絞められた男は呻きながらのたうち、すぐに動かなくなった。物言わぬ骸が先に地に伏せていた人物の横に捨てられる。
「仕留められたのは雑魚だけか」
スーツの1人、顎の長さで銀髪を切り揃えた男が、手にしている獲物を振るい血をはらった。
「ええ。ですが、これ以上聖下から離れているわけにはいきません。戻りましょう」
もう1人のスーツ。パーマのかかった長い黒髪の女は細い紐を丸く束ね、ジャケットの中に収納する。
2人はそれ以上言葉を交わさず闇の中に消えた。
後に残されたのは、裏地の青い司祭服を着た2つの死体のみ。