間話 ヴォーへ
◆
ヴォーからの団体様が帰って一月経った。
黒死病騒ぎもすっかりおさまり、街の空気は普段と変わらぬものに戻っている。食品全てに過剰に火を通す手間をかけなくてよくなったことが、騒動沈静化の一番の恩恵だろうか。
一年の中でも最も暑い時期に突入したある日。
「暑ぃな〜」
「ジョエレうるさい。言うと余計暑くなるだろ」
「文句を言って気を紛らわせる方法もあるんだぜ?」
「聞かされる方は拷問だろ」
家のリビングで、ジョエレとテオフィロはソファに転がっていた。天井の扇風機が頑張って空気を掻き混ぜてくれているが、暑いものは暑い。
そこに、手紙の束を持ったルチアもやって来る。
「請求書と、ジョエレ宛のと……あたし達3人宛のが来てるんだけど、ヴァレリー・ワトーさんって誰だっけ?」
手紙を仕分けていた彼女が1通の封筒を見て首を傾げた。
「あれだ。一月前に来てた、ヴォーの団体様の取りまとめ」
「そういえばそんな名前だったかも。ジョエレよく覚えてたね」
ルチアは小物入れから鋏を取ると、それで封の片方を切る。中身を取り出し便箋に目を通しだした。その顔は段々笑顔になっていき、突然大声を上げてくる。
「これ、ヴォーへの旅行のお誘いよ! 信じられない。あんな騒ぎに巻き込まれたのに!」
彼女は手紙を机の上に放り投げ、上機嫌でそこら辺を行ったり来たりしだした。
テオフィロが手紙を手に取り、軽く眺めて、また戻す。
「あんなんでも楽しかったらしいよ。で、今度は是非あっちに遊びに来て欲しいってさ」
「変わり者もいたもんだな」
ジョエレも手紙を手に取り眺めてみた。
先日の礼から始まり、バカンスへの誘いと、あちらでの滞在場所と費用は負担するといった旨が書かれている。
ヴォーとの往復の交通費は自腹だが、それくらいなら安いものだ。
「これでちったぁ涼しい場所に逃げられるな。手土産くらいは必要だろうけど。お前何がいいと思う?」
「俺にそんなのわかるわけないじゃん。女の人へのプレゼント選びとか、ジョエレの得意分野じゃねーの?」
「ねぇ、やっぱりガイドブック買っておいた方がいいよね? 何用意していけばいいのかな。っていうか、本屋行ってくるね!」
興奮気味のルチアは勝手に自己完結して外へ出ていった。
扉が閉まる音が消えると、リビングにしばしの沈黙が落ちる。
「まぁ、うちのお嬢様が張り切ってどうにかしてくれるってことで」
「だね」
残された男2人、再び暑さにだれる時間に戻った。
◆
旧フランス領オート=サヴォワ。旧フランス領の中でも東部に位置し、旧スイス領に接している地である。
その中でも、両領を跨ぐレマン湖の南岸に建つ閑静な邸宅で、教皇庁でも高位の2人が夏季休暇をとっていた。
1人は国務省保険福祉局局長、ディアーナ・オルシーニ。
もう1人は、現教皇フランシスコ36世こと、メルキオッレ・ボルジア。
2人共、さすがにこんな時にまで司祭服は身に付けていない。一般人と同じ軽い服なので、彼らが要人だと分かるのは知り合いくらいなものだろう。
そのうちの1人、窓際に立っているメルキオッレが振り返る。
「そろそろ飽きてこない?」
「飽きて、ですか?」
椅子に座っていたディアーナは読んでいた本から顔を上げた。質問の主を見てみると、同意を求める眼差しをディアーナに向けてきている。
夏季休暇に入って2週間。
たまたまではあるけれど休暇旅行の予定地が被った2人は、教皇庁所有のこの邸宅で共に休みを過ごしている。
旅行先が被った場合、普通はどちらかが身を引く。
今回はディアーナが場所を譲ろうとした。けれど、メルキオッレから同行の提案があったのだ。
教皇庁内で気軽に話せる相手を持たない青年は、よくディアーナの処へ相談にくる。この機会に愚痴をきいて、ストレスを減らしてやるのもいいかもしれないと、半分仕事の延長のような提案を飲んだ。
権力闘争に彼が巻き込まれるのを静観した負い目がある。罪滅ぼしとまでは言わないが、青年の心が少しでも休まるよう労力を割くのも、妥当な役目だと思えたから。
「私は歳ですから気になりませんが、聖下のようなお若い方には退屈かもしれませんね」
「またまた。皆言ってるよ、ディアーナがもうすぐ60だなんて信じられないって」
メルキオッレが笑いながらこちらに来た。そしてソファに座る。
「折角だからさ、対岸のヴォーに行ってみるのもいいかなって思ってるんだけど、一緒にどう?」
「ヴォーですか」
「そ。僕さ、ル・ロゼを卒業してから行ったことないんだ。ディアーナもそんな行ってないだろうし、懐かしいんじゃないかなって」
「そう、ですね」
ディアーナは曖昧に微笑んだ。
ヴォーはもちろん懐かしい。ル・ロゼで過ごした学生時代の思い出があの地には詰まっている。けれど、それを思い出してしまうと、同時に失ったものの記憶まで浮上してしまう。
「あ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
何かを察したらしきメルキオッレが慌てた様子で手をふった。
そんな彼にディアーナは優しく微笑む。
「お気になさらないでください。あの事に聖下は関係ありませんし、もう30年ほど前のことですから」
ふっと目を伏せた。
再度視界を広げてみると、橙髪の青年がこちらを見ている。彼は何度か手を握ったり開いたりし、意を決したように口を開いた。
「ねぇ、ディアーナ。せっかくの機会だから聞きたい事がある。彼は、"ベリザリオ・ジョルジョ・デッラ・ローヴェレ"って、どんな人だったの?」
「突然ですね」
困り顔で彼は頷く。
「うん。でも、こんな時じゃないと聞けないと思って。彼と同級生で、共に稀代の三傑と呼ばれていたディアーナなら、誰よりも彼の事を知っているんじゃないかなと思って」
「また随分と懐かしい呼び名を」
ディアーナは肘掛に頬杖をついた。
教皇相手に相応しい態度ではないが、今は休暇中だ。多少の無礼は目を瞑ることにする。
「そのように呼ばれていた頃もありましたね。ですが、今の私はただの年寄りです。それに、彼についてなら、あなたのお兄様が相当詳しいでしょう?」
「確かに兄さんはベリザリオ卿に心酔してるから詳しいけど」
メルキオッレが苦笑した。
「直接ベリザリオ卿と面識があったわけじゃない。亡くなって30年経とうと人心を離さないベリザリオ卿がどういう人物だったのか。彼と同じ時を過ごした者の口から聞きたいんだよね」
「あなたはどの程度彼の事をご存知で?」
変わらず頬杖をついたままでディアーナは尋ねた。
少し上を向いたメルキオッレが指を折りつつ答えていく。
「選帝侯、デッラ・ローヴェレ家の若き当主。眉目秀麗、文武両道。国務省長官にして、歴代最年少の教皇候補……だった」
彼の言葉が止まった。少し考えるようなそぶりを見せていたけれど、言いにくそうに続きを言う。
「ディアーナと恋の噂もあった?」
顔を強張らせたメルキオッレがこちらを見つめてくる。
そんな彼にディアーナは優しく微笑んだ。けれど、何も言わずに席を立つ。
「あ、ちょっ!? ディアーナ待って!」
後ろでメルキオッレが慌てた気がした。
そのままにしておくわけにもいかないのでディアーナは振り返る。
「あなたのその認識が世間で言われている彼ですよ。さぁ、もういいでしょう? ヴォーに行くのなら、移動のために荷をまとめなければなりませんから」
それだけ言って自室へと引き上げた。
最後の最後で突き放したメルキオッレは少し傷付いた顔をしていた。
しかし、悪いとは思わない。
ベリザリオとの思い出を正しく持っているのも今ではディアーナ1人になってしまったが、それを公にするつもりはない。
あの喜びや楽しさや希望に溢れていた日々も、どん底まで突き落とされた絶望と悲しみも、全ては自分の胸の中にだけあればいいのだ。




