2-10 ディアーナの憂鬱
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「黒死病と認定されたのは亡くなったお1人だけです。体調不良で病院を訪れる方が増えているのは事実ですが、関係は立証されていません」
ディアーナは1度言葉を切り会見場に目を向けた。記者がヤジを飛ばして煽ってきてくれているが、無視して言葉を続ける。
「鼠に関しては、殺鼠剤と捕獲用の罠を手配済みです。現在の段階では、患者には無闇に近付かない、うがい手洗いの励行が当局からの行動指針となります。今回の会見は以上です」
それで言葉を終え、会見台を降りた。
「局長、もっと突っ込んだ発表はないのですか!?」
記者の1人がメモを手にしながらディアーナの進路を遮った。すぐに参事官が彼をどかせたが、批判の声だけは一際大きい。
(くだらない。馬鹿の相手をしている時間も惜しいというのに)
詳細が分かるまで黙ってろと一喝したい気分だけれど、飲み込んで神妙な表情を保つ。
長年掛けて作り上げた温厚な枢機卿の印象は大切だ。考えるだけ無為と切り捨てる。
そもそもがだ。
どこからか情報を嗅ぎつけた報道局が黒死病の恐怖を民衆に焚付けたりしなければ、会見を開く必要は無かった。
黒死病の調査に当たらせている者達と会合を持つ方が、ずっと有意義だ。
それでも動くしかなかった。
恐怖を煽られた人間は何をするか分からなくなる。民衆の混乱による街機能の停止を回避するには必要な処置だ。
つらつらと考え事をしながら歩いていると、自室の前に白い司祭服の青年が立っていた。
「聖下」
ディアーナが呼びかけると青年が振り向く。
「お帰りディアーナ。早かったね」
「ええ。早々に切り上げてきましたから。何か御用ですなら、中でお話を伺いますが」
言いながらディアーナは自室の扉を開いた。けれど、青年はその場に留まったまま動かない。
「ここでいいよ。あのさ、こんな大変そうな時に夏季休暇の予定の確認で悪いんだけど、いいかな? 僕、教皇なのに、何も役に立ってないよね」
落ち込んだ様子で彼が俯いた。
周囲の都合により若くして教皇の座に祭り上げられてしまった青年は、入庁してからの期間の短さも手伝って発言力が弱い。その上、決して有能というわけでもない。だから重要な仕事は彼へ回されない。
本人もそれを分かっていて、半分はもどかしい気持ちを吐き出しに来たのだろう。
そんな彼にディアーナは優しく微笑む。
「元から予定が組まれていたことですし、聖下がお気に病むことではございません。それに、聖下にそちらの予定を詰めて頂けるのでしたら、私はこちらの仕事に専念できて助かります」
「そうかな?」
「ええ」
「なんか長引きそうだけど、事態が収束したらディアーナも来るよね?」
教皇の青年は茶色の瞳に不安を浮かべてこちらを見てくる。ディアーナは頷いた。
「もちろんですよ。オート=サヴォワの旅行は私も楽しみにしておりましたし。対応が休暇に被ってしまっても、なるべく早く片付けて追い付きます」
そう言うと、青年は、ようやくほっとした表情を浮かべてくれた。
「うん。じゃぁ、そのつもりで予定立てておくね。忙しいところ邪魔してごめん」
そうして去って行く。
彼を見送りディアーナは部屋へ入った。執務机に着くと同時に参事官から声がかかる。
「報告をしても?」
「ええ」
「では、まず、今朝方死亡した男性の件ですが」
参事官が懐からファイルを取り出し、めくる。
「彼と接触の多かった人間を集め、検査しておりますが、明らかな罹患者は現在見つかっておりません」
「菌の保有は?」
「検査中です。今日中に結果が出るかと」
「そう。でも、陰性と出ても、潜伏期間が経過するまで彼らは隔離しておいてちょうだい」
「承知しました。そうなるだろうと思って、必要な書類は用意してあります」
数枚の紙を参事官が出してきたので、ディアーナはそれを受け取る。
「次は?」
「体調不良を訴える患者と鼠の件になります」
「殺鼠剤とかの手配なら頼んでおいたわよね?」
「はい。そちらは滞りなく。じき、散布も始められると思います」
「では何かしら?」
受け取ったばかりの書類に目を通し、署名をしながら尋ねた。
「両方共に、被害が増えているのはヴァチカンだけのようです」
「ヴァチカンだけ? おかしいわね。この地に流入する前に、どこかで前兆があってよさそうだけど。その報告はないの?」
「今の所は。その件は続報待ちですね。とりあえずはヴァチカンの鼠を放置しておけませんので、駆除がてら、各地域から数個体ずつ選抜して簡易検査に回しておいたのですが」
「結果が出てきたのかしら?」
「はい」
参事官はファイルをめくる。
「黒死病菌保有個体は今の所発見されておりません。ですが、ほぼ全ての個体からサルモネラ菌が検出されてきています」
参事官がファイルから1枚の紙を取り渡してくる。
ディアーナはそれを受け取り、資料に目を走らせた。
「随分と高レベルで菌を保持しているのね。これだと、動く菌ばらまき装置と変わらないわ」
紙を机の上に置き、革張りの背もたれに体重を預けた。足を組みつつ目を閉じる。
「被害がヴァチカンだけに集中しているというのなら、対処もし易いわね。消毒薬の増産を通達しておいてちょうだい。それをうちで買い上げて、市井に配りましょう」
「消毒薬をですか?」
参事官が不思議そうに問い返してきた。
ディアーナは瞳を開け姿勢を正す。そして、机の上の書類を軽く指で叩いた。
「上がってきているデータによると、患者の訴えている症状は、発熱、腹痛、下痢、嘔吐。暑い季節になってきたし、鼠の保有菌のデータと合わせると、食中毒を起こしているとしか思えないわ。病院でもそう診断しているんじゃないの?」
「そう聞いています。ただ、今朝方黒死病のニュースが流れてからというもの、診断を信じない患者が増えているらしいですね」
「それじゃぁ、今の騒ぎは、完全に報道局の作り出した人災ね」
あまりの馬鹿馬鹿しさにディアーナはこめかみを押さえた。
ため息しか出ないが、嘆いていても仕方がない。
メモ紙にペンを走らせ、必要と思われることを書き留めていく。
「もう1度会見を開きましょう。そこで調理器具の消毒の徹底を呼び掛けて、食材の加熱処理も強化してもらおうかしら。黒死病に関してはまだなんとも言えないから、貧民街への立ち入りを自粛してもらうしかないわね。こちらは教理省に規制を頼みましょう」
書き終わったそれを参事官に渡す。
「そういう方向で動くから、手配してちょうだい」
「かしこまりました。では」
メモに視線を落とした参事官は一礼して去って行った。
ディアーナは廊下に顔を出し、付近に誰もいないか伺う。無人であると確認して扉に鍵を掛けた。そして受話器に手を伸ばす。
番号を押し、しばらく待つと相手が出た。
受話器口の相手が目的の"彼"だったので話しかける。
「もしもし、"熊"だけど」
『直接連絡してくるなんて珍しいな』
「時間が取れたから。あとは、ちょっとした忠告かしら」
軽く挨拶を交わしながら話す事柄を整理していく。
たまたま1人の時間が取れたものの、決して長時間ではないはずだ。
「最近の騒ぎだけど、原因は恐らくサルモネラ由来の食中毒よ。鼠達が大量の菌をばら撒いてたわ。あなた達もその対策はした方がいいでしょうね」
『食中毒を黒死病と騒ぎ立てたのは、報道局のポカか?』
「迷惑な事にね」
『ふーん。あいつらやっちまったな』
「まぁ、それは今はいいわ。周辺事情はどうであれ、貧民街で黒死病患者が出たのは確かなのよ。そのことについて、あなたはどう思う?」
受話器の向こうが静かになった。
少しして、
『鼠でも何でも、媒介生物からの黒死病菌の検出は?』
彼から問いが返ってくる。
「今の所無いわね」
『だとすると、まえ回収したアンプルのを直接打ち込まれたのかもしれねぇな。潜伏期間も考えるとあり得ない話じゃない。死んだ奴の周囲の連中はどうだったんだ?』
「隔離して検査中。まぁ、今症状がでていないのなら大丈夫でしょうけど」
『あいつら何がしたいんだ? 毎度の事ながら全く分かんねえな』
彼が疲れたように嘆息した。それも束の間、声のトーンも声量も下げて言ってくる。
『そういえば、ルチアが白百合を貰ってきやがった』
受話器を持つディアーナの手に力が入る。
「どういうこと?」
『俺にも分からん。ただ、あいつにそれを渡したのは、サン・ピエトロ広場にいたド派手な格好をしたピエロだったらしい。可能なようなら足跡を辿ってくれ』
「彼女に被害は?」
『今のところ無い。けど、もしもが怖えからな』
「調べるだけは調べてみましょう。でも、期待しないでおいて」
それで話を終え受話器を置く。そうして扉の鍵を開けた。
再び席に着くと椅子を回し、窓の外を眺める。
抜けるような青空が広がり、緑も鮮やかで、休暇にもってこいの気候だ。なのに、与えられるのは面倒な仕事ばかりで――
うんざりした。
イタリア語で熊はOrso。
オルシーニ家は、昔はオルソと名乗っていたそうです。




