2-8 黒死病の影 前編
◆
翌朝。
「テオー、ジョエレー。ご飯よー」
呼び声が聞こえ、ジョエレはダイニングに行った。
机の上には生クリームをたっぷり挟んだパンとクッキー、蜂蜜とジャムが置かれている。
ジョエレが席に着くと、すぐにルチアが珈琲を出してくれた。
けれど、動きがいつもと比べてぎこちない。
「手ぇ震えてんぞ」
「うるさいわね。全身筋肉痛なんだから仕方ないでしょ」
ルチアが頬を膨らませる。
若い上に普段から動いている彼女でこのざまでは、婦人達の中にも筋肉痛発症者が続出しているだろう。登る量を半分に抑えはしたが、きっと効果は無い。
(ま、ドーム状天井に登りたいって案を出してきたのは向こうだし、頑張ってもらうってことで)
それにたかだか筋肉痛だ。動いていればじき治る。
特に気にせずジョエレはテレビを付けた。
「テオ遅いわね。まだ寝てるのかしら?」
テオフィロのマグカップ片手にルチアが階上を見上げる。
そうしていると、だるそうな足音をさせながらテオフィロが降りてきた。
「おはようテオ」
「よっ」
「おはよ」
挨拶をしながらテオフィロは席に座った。起きてきたばかりだというのに彼は下を向いたままで、疲れた空気を放っている。
「なんだぁ? お前も筋肉痛か?」
「筋肉痛は無いんだけど、疲れが抜けてないのかな」
億劫そうに青年が顔を上げた。その目は今にも寝てしまいそうに半開きで、肌は全体的に赤味がかっている。
「ちょっとテオ。熱あるんじゃない?」
マグカップを置いたルチアがテオフィロの額に手を置いた。目を大きくして、すぐに手を離す。
「熱っ。熱出てるって自分でわかってないの?」
「そうなんだ? なんか寒いし気持ちが悪いなとは思ってたんだけど」
「鈍すぎ! とりあえず熱を測って」
そう言うと、彼女は薬箱から取ってきた体温計をテオフィロに渡した。熱を測らせている間に自分の分の珈琲も淹れてきて席に着く。
ピピピと音が鳴ると、テオフィロから体温計を受け取りつつ、クッキーの皿を彼に押しやった。
「風邪の時ほどきちんと食べないとね、って、38度って高熱じゃない!」
「そんな出てたんだ」
クッキーをかじるテオフィロはまるで他人事のように呟く。
「お前、それで気付かないって、鈍いってもんじゃねーだろ」
やや呆れながらジョエレは珈琲をすすった。
「あんまり風邪引いたことないから、よくわかんないんだよね」
「そういうもんかねぇ」
「テオ。今日は仕事なんていいからきちんと寝てるのよ。あ、お昼作っておかないとね」
ルチアが腰を浮かした。
「いいよ。そのパンとか残しといてくれれば。後は適当にクッキー食うし」
「それでいいの? うーん。でも、材料もあんまりないし、ごめんだけど、お昼はそれで許して。夜はきちんと作るから」
「うん」
「じゃ、汗かいた時用のタオルとか着替えとか部屋に置いとくね」
彼女はそのまま席を立ち脱衣所へと消えていった。
「お母さんは大変だな」
「自分で出来るからいいんだけど」
「ま、そう言ってやるなって。あいつなりにお前の世話が楽しいんだろうしよ」
ジョエレは残り少なかった珈琲を飲み干す。
その時、テレビに緊急ニュースが割り込んできた。カメラの向こうで、アナウンサーが真面目な表情をしている。
『本日未明。ヴァチカン貧民街で死者が出ました。死因は黒死病で、実に10年以上ぶりの発病者に、医療関係者の間では動揺が広がっております』
そんな内容を彼女は繰り返す。
「黒死病って何?」
「罹ったら致死率の高い厄介な病気だな。中世ではヨーロッパの人口を3分の2削ったっていう話まである。ま、最近はほとんど見掛けなくなってたんだけどよ」
「おっかな」
テレビを見るためにかテオフィロが横を向く。そんな彼の耳の後ろにジョエレは目を凝らした。
朝食を終え、ジョエレとルチアの2人で婦人達の宿泊しているホテルへ行く。
ロビーで待っていると、集合時間の少し前になってヴァレリーが降りてきた。ジョエレ達を認めて小走りしようとしたようだが、動きがぎこちない。間違いなく筋肉痛だ。
「おはようガイドさん達。もう身体が痛くて痛くて。あなた達はそんなことない?」
身体をさすりながら尋ねてきた。
「あたしもですよ。なので今日は動くのが辛くて」
同意とばかりにルチアが苦笑する。仲間がいて嬉しそうにヴァレリーはルチアの手を握った。
「やっぱりそうよね? 私達がおばさんだからこんなに身体が痛いのかしらって、みんなで悩んでたの。あなたも筋肉痛なら痛くなって当然なのね」
「ええ、多分」
ルチアの表情が曖昧なものになる。しかし、ヴァレリーはすっかり満足したようで、笑顔でルチアから手を離した。
そうして、今度は眉尻を下げながらジョエレを見てくる。
「あのね、ガイドさん。また勝手なお願いなんだけど、今日の観光はお休みに出来ないかしら?」
「構いませんが、またどうして?」
筋肉痛で死んでるからかなと、予想しながらもジョエレは尋ねた。
「それがね。筋肉痛で動けないっていう人と、調子が良くないっていう人が合わせて半分超えちゃって。それならいっそ、みんなでお休みしましょうって話になったの。駄目かしら?」
「構いませんよ。俺としても、皆さんには元気に街を回ってもらいたいですから。じゃ、また、明日の同じ時間に顔を出しますね」
笑顔で承諾した。するとヴァレリーが胸をなでおろす。
「ええ、ありがとう。ガイドを引き受けてくれたのがあなた達で、本当に良かったわ」
「お大事に」
ジョエレは身を翻した。
ルチアは残って近くの店の場所を教えてやっている。あれでけっこう面倒見がいい。
「ね、ジョエレ。帰りがけに青空市場に寄って行こうよ。それならテオにまともなお昼作ってあげられるし、夜の材料も買わないといけないから」
後ろから走って追いかけてきながらルチアが言ってきた。
「おー、いいぜ〜。死ぬ程の肉とサラミ買わねえとな」
「野菜もね。テオ、食欲あるかな」
彼女は腕を組んで難しい顔になる。
今日の献立は身体に良さそうなものになりそうだ。