2-5 旧スイス領からの客人達 後編
数日前までは規制線の貼られていたベアルツォット邸だが、それももう無くなっていた。今はただ、焼け落ちた邸宅の無残な姿だけが残っている。
そこに1台の車が停まっていた。
今の時勢で車を持っているのは、選帝侯かよほど裕福な家、企業、公的機関に限られる。いずれにせよ庶民には関係のない話だ。
「申し訳ありませんご婦人方。先客がいらしているようなので、少しお待ち頂けますか?」
ジョエレは足を止め、花束を手にした団体に待機を促した。
集団の前で、真紅の司祭服を纏った婦人が車から降りてくる。彼女は門の前で止まると十字を切り、静かに頭を下げた。
「あの方テレビで見たことがあるわ。確か、ディアーナ・オルシーニ様じゃなかったかしら?」
「枢機卿の?」
「そうそう、その方よ! こんな所でお姿を見れるなんて、私達ついてるわね!」
ひそひそと、けれど、鼻息は荒く婦人達が喋っている。
「なんでみんな、あの人見れただけで騒いでるわけ?」
テオフィロがルチアをつついた。
「ああ。そういえば、まだ教えてなかったわね」
ルチアが振り向く。彼女はテオフィロに寄り、小声で話しはじめた。
「今の政治っていうのは、教皇を頂点とする聖府が行っているの。それでね、教皇の補佐をするのが枢機卿。教皇も、代変わりする時には枢機卿の中から選ばれるのよ。で、その枢機卿になれる家を選帝侯って言うんだけど、これはまた今夜にでもね」
「何々? お勉強?」
婦人の1人が興味深そうに会話に加わる。テオフィロは小さく笑って頭を掻いた。
「はぁ。俺、学が無いんで、少しずつ彼女に教えてもらってるんです」
「なぁに、2人は恋人?」
「いや、ただの同居人で――」
「そういう小さな触れ合いから始まる恋もあるものよね」
「あの、あたし達、そんなんじゃ――」
「私達も30年前にはときめいていたものだったのだけどね」
狼狽気味のテオフィロとルチアを置き去りにして、婦人達のお喋りは止まらない。話が進むにつれ話題もがらりと変わってきた。
「オルシーニ卿といえば、ベリザリオ様とお付き合いなさっているっていう話もあったわよね。あれって、実際のところどうだったのかしら?」
「随分と古い話ね。それこそ30年くらい前の話じゃない?」
「ええ。でも、私、あの方に憧れていたから、亡くなられたと聞いたときはもうショックで。あの方と噂のあった彼女を見たら、その時のことを思い出しちゃったのよ」
「分かるわ。あれは凄い騒ぎだったわよね」
あーだった、こうだったと、婦人達の話は終わりが見えない。それどころか話に夢中になってきたのか、声量が上がってきている始末だ。
喋り声が気になったのか、ディアーナが婦人達の方を振り向いた。
それに気付いた婦人が隣で喋り続ける婦人の袖を引っ張る。袖を引っ張られた婦人が隣の婦人の袖を引っ張り……を繰り返し、一行はすっかり静かになった。
そんな集団の方にディアーナが優雅に移動する。
「フランス語ということは、あなた方は観光の方達かしら?」
「あ、はい。そうです。旧スイス領ヴォーから」
緊張した面持ちでヴァレリーが返した。対照的に、ディアーナは柔らかい笑みを浮かべる。
「まぁ。ヴォーから? 懐かしいわ。私も学生時代はあそこで暮らしていたから。レマン湖は変わらず綺麗なのでしょうね」
「ええ、はい。猊下のいらした頃と何も変わっていないと思います」
「また訪れたいものね。ところで、あなた方の手にしている花は、この家の故人に持ってきてくれたのかしら?」
ディアーナが婦人達の手にする花束を指さした。ヴァレリーは何度も首を縦に振る。
「左様でございます! 本当は猫ちゃんにも会いたかったのですが、火事にあったと聞いたので」
「こんなに多くの方から花を供えてもらえて、彼女と猫達は安らかに主の御許へ行けるでしょうね」
ディアーナが切なそうに焼け落ちた邸宅を見遣った。数瞬そうしていたけれど、すぐに柔らかい表情に戻る。
「特に何がある街ではないけれど、どうぞゆっくりしていらして。あなた方のご旅行に幸あらんことを」
優しい言葉を投げかけて彼女は身を翻した。そうして、婦人達の集団から少しだけ離れた場所に移動していたジョエレの前を自然に通っていく。
「26日、何か分かったことは?」
「まだ何も」
「そう。とりあえず気を付けて」
「お前もな」
本人達すらぎりぎりでしか聞こえない言葉を交わしている時も、彼女の歩調は一切緩まない。そのまま車に乗り込んで、何事も無かったように去って行った。
車影が見えなくなるまで見送り、ジョエレはさり気なく婦人達の近くへ戻った。
ディアーナに会え、声をかけられたのがそんなに嬉しかったのか、彼女達は興奮した様子で顔を赤らめている。
「あれがオルシーニ卿。テレビで見るよりずっと美人でお優しい方だったわね」
「本当。あれで60前でしょう? 私達と同じくらいの歳だなんて思えないわよね」
「それに、さっきの様子だと、この家の火事を悼みに来られてたように見えない? 尊い方なのに一市民の死にまで気を配ってくださるだなんて、感動しちゃうわ」
しばらく様子を観察してみたが、彼女達のお喋りは終わりが見えない。
このままだと観光も糞もなくなってしまいそうだったので、仕方なくジョエレは彼女達の会話に割り込む決意を固めた。実に嫌な役回りだが、これも仕事だ。
「お話中大変申し訳ないのですが、ご婦人方。花を供えて昼食にしたいのですが、どうですかね?」
水を差された婦人達がジョエレの方を見た。しかし怒りはせず、苦笑しながら手をひらひらさせる。
「あらごめんなさい。そうよね、お喋りは夜ホテルででも出来るものね。皆さんお花を供えましょう。それに、朝からよく歩いているから、私、お腹が空いちゃって」
「止めてくれてありがとうガイドさん。私達いつも話し込んじゃって、夫達にもよく注意されるの」
特に気分を害した様子もなく、婦人達は花と祈りを捧げていく。
全員の献花が済むと昼食をとりに食堂に入った。そこで、ジョエレは全員に一言忠告しておく。
「昼からはサン・ピエトロ大聖堂に案内します。ドーム状天井を登るのは少しきつい運動になるので、食事は軽めにしておいてください」
本当に、親切心から言っておいたのだが、誰も彼も笑うだけで聞きやしない。もちろんルチアとテオフィロもだ。
(まぁ、身体が重いとか気持ちが悪いって泣くのは自分達だからいいけど)
心の中で嘆息し、ジョエレは1人食事の量を減らした。