2-2 貧民街の青年 後編
青年が逃走を計画しながら歩いていると、中流街に入り、一軒の家の扉を彼女が開けた。
「ここがうちね。さ、入って」
促された青年は中に入る。
室内は小ざっぱりと片付いていて、入ってすぐの部屋のソファに男が転がっていた。
彼はだるそうに首を回し、青年の方を見ると目を丸くして身を起こす。
「おいおいおいおい。どちらさん?」
「ペットに拾ってきたの」
「ペットって、おま。そいつ明らかに貧民街の奴だろ。誘拐だなんて犯罪紛いなことは、さすがに見逃せないぜ?」
「違うわよ! きちんと本人に了承得てきたもの。ね?」
上目遣いで、女が青年に同意を求めてきた。脅されはしたが、了承したのも確かなので、青年は頷く。
「ほらね。ってことで、今日から一緒に住むから、ジョエレもそのつもりでね」
どうだとばかりに彼女は胸を張る。ジョエレと呼ばれた男は頭を手で押さえ、疲れたようにソファに沈んだ。そうして、力無く手をひらひらさせる。
「わーった。わーった。その代わり、きちんと面倒みろよ、ルチア」
それっきり彼は何も言わなくなった。
ルチアは青年の手を引き、脱衣所らしき場所に連れて行く。
「さて、と。じゃ、シャワー浴びてきて。着替えはその間に用意しとくから。あ、シャンプーとか、中にあるの好きに使ってね」
そう言って彼女は去っていった。
風呂に入れと言われれば、ペットな青年は従うしかない。さっさと服を脱ぎ浴室に入った。蛇口を回し、頭からシャワーを浴びる。
まともに湯を浴びたのは久々で、純粋に気持ち良かった。
しばらくぼーっとしていると外が騒がしくなる。
「おい、そのパンツ、ここぞという時に履こうと取っておいた奴じゃねーか!」
「そんな時なんて来ないわよ! 使ってないのがこれしか無かったんだから仕方ないじゃない。また買えばいいでしょ?」
「おぉぉぉ。さようなら、俺のアルマーニ」
どうやら青年の着替えで揉めているようだ。普通に考えて、それを提供するのはジョエレのわけで、気に入ってる物を奪われれば怒りもするだろう。
(ま、当人同士で仲直りしてくれればいいけど。俺、ペットだし)
責任など考えずに浴室を出た。タオルと着替え一式が置かれていたので、身体を拭き、用意された服に着替える。
「……」
丈が余った。ジョエレの身長は180センチを超えて見えたので、170センチそこそこしかない青年には大きくて当然なのだが。そのままだと動き辛いので折り曲げた。
リビングに戻った青年を見てジョエレが口笛を吹く。
「シャワー浴びて、服を変えただけで随分変わったな」
「そういう子を選んできたのよ」
「何お前、面食いだったの?」
「うるさいわね。不細工より整ってる方がいいじゃない。ジョエレの巨乳好きと一緒よ」
「違うぞルチア。手からちょっとこぼれるくらいの大きさが好きなんだ」
暴露しなくてもいいことを真面目顏で言いながら、ジョエレは青年の方にやってきた。目の前で止まるとこちらに手を伸ばす。そうして、青年の伸びた前髪を掴んだ。
「あとは散髪だな。俺みたいにオールバックでもいいが、それでも1度整えてやった方がいい」
「やめてよ、おじさん臭い」
「ダンディって言えよ。こいつだって、そのうち腹が出てきて加齢臭させるんだぜ? むしろ、そのどちらも当てはまらない俺、頑張ってるだろ」
「はいはい。そうね」
冷たくルチアが流した。
ジョエレもジョエレで、彼女の相手などせず青年の方を向く。
「お前、いくつなわけ?」
「18」
「猶予はあと15年くらいだな」
青年も、何の、とは言わない。話の流れから、腹が出たり加齢臭を漂わせ始めるまでの期間だろう。
「んで、名前は?」
「ない」
短く言い捨てた。不思議そうにジョエレが見下ろしてくる。
「さすがに無いってことはねぇだろ。今までなんて呼ばれてきたんだ?」
「俺は孤児だから。仮の呼び名はあるけど、親から貰った名前はない。あんたらが飼い主になるんだし、好きに付ければいい」
貧民街の連中から呼ばれる名はある。けれど、特に愛着はないし、どうせペットとして扱われるのなら、飼い主の好きにすればいいと思えた。名付けだって、きっと、ペットを飼う楽しみの1つだろう。
「孤児院育ちかよ。親から貰った名前が無いってことは、戸籍も無い組か?」
青年は頷く。
ジョエレは頭に手をやり、面倒そうに首を振った。
「ルチアのやつ、また面倒な拾い物を……。まぁ、それは置いといて名前だな」
嘆息した彼はルチアに声をかける。
「こいつの名前どうすんだ? 飼い主」
考え込むように首を傾げた彼女はぼんやりと上を向く。
「ちょっと考えておくから、とりあえずペット君(仮)で」
「安直な名前だな、おい!」
ジョエレが突っ込んだ。ルチアは唇を尖らせながらやってきて、青年の腕を掴む。
「きちんと考えて付けるんだからいいじゃない。じゃ、2階に行きましょ? 物置にしてる部屋を片付けて、あんたの部屋にするから」
彼女はずんずんと階段を登る。
「で、片付けたもんはどこに置くんだ?」
背後からジョエレが言ってきた。
「ジョエレの部屋に決まってるじゃない」
「おま……。なんでもない。好きにしてくれ」
疲れた声で彼は言い、視界の外に消える。
(変な2人だな)
片付けをしながら青年は思った。
ジョエレとルチアのやり取りは決して穏やかではないが、悪意は感じない。同じ屋根の下で暮らしているし、家族なのだろうか。似ていない家族など、いくらでもいるものだし。
部屋の掃除だけでその日は終わる。
翌日には朝から散髪と服の買い物に連れ回され、夕方頃にようやく家に帰れた。
帰り着いた早々、疲れた青年に、ジョエレが1枚の紙を押し付けてくる。
「ほれ、お前の新しい名前と戸籍だ。文句言っても取り替えきかねーから、我儘言うなよ?」
「え?」
「ぼさっとしてんじゃねぇ。さっさと受け取れ」
ジョエレが急かすので、青年は押し付けられた紙を掴んだ。文字が書かれた面に視線を落とすが、まともな教育を受けていない青年では何が書かれているのか読めない。
そこに、横からルチアが覗き込んでくる。
「テオフィロ・バンキエーリ、18歳。履歴まであるんだ。どうしたの、これ?」
「貧民街で買い取ってきた。ったく、年が同じ奴見つけるのに苦労したぜ」
やれやれと、ジョエレはソファに歩いていった。
ルチアは後ろで手を組み、腰を屈めた姿勢で青年を覗き込んでくる。
「ジョエレのくせにいい仕事してきたわよね。じゃぁ、あんたは今日からテオフィロね。長いし、テオでいいよね。よろしく、テオ」
彼女は背筋を伸ばすと手を差し出してきた。テオフィロの名を与えられた青年は、おずおずと握手を返す。
(指、白くて細いな)
なんとなく、そんなことを思った。
◇
そんな拾われ方をして1年。
奇妙な共同生活は未だに続いている。折を見て逃げようと思っていたのもほんの最初だけで、そんな気持ちはあっという間に消え去ってしまった。
人間性に問題有りの飼い主達だが、彼らとの生活は刺激も得るものも多い。
2人の喧嘩に巻き込まれてとばっちりを食らうこともままあるが、それでも、観察している分には面白くもある。
「テオー。今晩屋上でバーベキューするから、色々運ぶの手伝って〜」
階下からルチアの声が聞こえたかと思うと、階段を登る気配がして、屋上に出る扉を開いた音がした。自分の部屋から出たテオフィロが上に行くか下に行くか悩んでいると、屋上から声が聞こえてくる。
「ジョエレ、今晩バーベキューするから、用意手伝ってよ」
「おー。いいぜ〜。現場監督しとけばいいんだろ?」
「バーベキューコンロ運んでもらうに決まってるじゃない! そのまま火の当番だからね!」
ジョエレは出掛けていたはずだが、帰ってきたのだろうか。そして、2人揃った途端にこれだ。
(俺もコンロ運ぶの手伝った方がいいだろうし、上かな)
そんな気がして屋上へ向かう。
飼い主達の言い合いはまだ続いているが、そのうち自然鎮火するだろう。自分は気にせず2人の間にいればよい。
――緩衝材。
それが、ルチアがテオフィロを拾った理由だろうから。
1年共にいて、そう思った。
緩衝材:
主に、衝撃を吸収して梱包物の中身を保護するためのもの。
プチプチ(気泡緩衝材)や、果物を覆っている発砲スチロールのネットなどもその一種。