間話 一室にて
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「ねぇ、エアハルト。今報道されてる家って、君がつい最近まで実験場所にしてた所じゃないっけ?」
名を呼ばれ、上半分だけの銀縁眼鏡を掛けた男は振り返った。
テレビ画面では、燃え盛る家屋の前でリポーターが騒がしく何かを訴えている。家自体はほとんど燃え落ちていて判別が付かないが、門構えなどはジーナ・ベアルツォット宅に見えなくもない。
「そうかもしれんな」
短く返事をし、データをまとめる作業に戻った。
「かもしれんな。って、冷たくない? つい数日前まで、あんなにご執心だったのにさ」
椅子のキャスターを転がして青年が近寄ってきた。ほっといてくれればいいのに、長い黒髪と黒眼の彼はエアハルトの顔を覗き込んでくる。
それが煩わしく、エアハルトは手を止めた。
これが他の誰かであれば完全無視を決め込むところだが、生憎と、青年はこちらが反応を示すまでしつこく絡んでくるのだ。どうせ被害を被るのであれば、最小で抑えた方がいい。
「もうデータは取れた。今すべきなのは、データから傾向を導き出すことだ。使い終わった実験場と試験体に用は無い。むしろ、わざわざ処分を手配する手間が省けて助かったくらいだ」
続いて聞かれるであろうことまで予想し、先回りして答えた。これでもう邪魔をされないはずなので、再度キーボードに手を置く。
けれど、青年の顔が邪魔な位置のまま動かない。
「顔が邪魔なんだが?」
「これさー。今度は何の実験してたの?」
無駄に整った顔に好奇心を滲ませ青年は疑問を浮かべる。すでに20代半ばだというのに、彼の行動は落ち着きがない。
エアハルトは仕事に戻るのを諦め、机に頬杖をついた。
「遺伝子改変剤の効果と発現までの時間を見ていた。実験用の被験体を探していた時に彼女を見つけて、ついでに資金稼ぎも出来そうだったから、話に乗ってやったんだ」
「具体的にどういうこと?」
「彼女は可愛がっていた猫を死なせたくないと望んでいた。私は薬の効果を正確に調べるために、同じ条件の実験動物が欲しかった」
「あ、そこまで聞いたら分かったよ! それで猫のクローンなんて作ってたんだ」
「そういうことだ。遺伝子型まで揃っていれば、発現した形質の差異は、ほぼ薬由来のものだと仮定できるからな」
「結果はどうだったのさ?」
「それを調べようとしてるのに、お前が邪魔してるんだろう?」
げんなりと視線を向ける。
質問の答えが得られて多少は満足したのか、青年が身体を引いた。
今度こそ仕事を再開させようとして、エアハルトはふと手を止める。
「ジーナ・ベアルツォットといえば、面白い男と会ったな」
仕事をする興が削がれ、眼鏡を外した。
「珍しいね。君が他人に興味を示すなんてさ」
「私が欲しいものに限りなく近いものを持っている男だった。そのうえ眼鏡の良さを分かっていてな。眼鏡談議ができるだなんて、素晴らしいと思わないか?」
言った途端、青年の上半身がこけた。そうして呆れ顔で見てくる。
「デッラ・ローヴェレを好きな人って変人が多いよね。君をはじめさ」
「デッラ・ローヴェレ家などどうでもいい。私が崇拝するのはベリザリオ卿ただお1人だ」
エアハルトは眼鏡を拭きながら答えた。
「その彼が好きだったから君も眼鏡なんでしょ? もう死んでる人が好きだった事を真似て、何が楽しいんだい?」
「彼のお方に近付ける気がするのだよ」
「本気で分からないんだけど、その気持ち。もうさ、ベリザリオ教とか作っちゃえばいいと思うよ。で、スカウトでもしたの? その眼鏡好きさん」
「いや」
拭き終わった眼鏡をかけ直し首を横に振った。その時の様子を思い出し、今更ながら気付く。
「小娘の邪魔が入ったんだが。思い出してみれば、多少見た目が変わっていたが、あれはマラテスタの令嬢だったな」
「そりゃ、女の子なら、コロコロ見た目も変わるだろうさ。そのくせに、変化に気付かないと怒るんだ。髪を1センチ切ったのに気付かないなんて、私のことそれくらいにしか思っていないのねって。面倒臭いったらありゃしないよね」
「お前が誰彼構わずいい顔をしようとするからだろう」
「ベリザリオ以外に興味を示さない君よりはマシだと思うけど?」
青年が疲れた様子で椅子に身体を預ける。次の瞬間には、何かを思いついたのか、小さく声を上げた。
「なんだ?」
エアハルトに興味は無かったが、とりあえず先を促す。
「ヴァチカンにちょっと遊びに行こうと思ってたし、その、マラテスタの娘にも会ってこようかな」
急に元気になった青年が椅子から立ち上がった。
「構わないが、あれは貴重な観察対象だ。壊すなよ?」
「数年前に見失ってからは放置してたんじゃなかったっけ?」
「見失ってたからな。だが、見つけたからは、経過観察を続けるに決まってるだろう」
「はいはい。それじゃ、怒られないように挨拶だけしてくるよ」
青年は纏った青い法衣を椅子に脱ぎ捨て、その際乱れた黒髪に手櫛を通した。衣装棚から上着を取り出し袖を通す。
「僕さ。あっちでちょっとした人形劇をやってこようと思ってるんだ。テレビに出るかもしれないから楽しみにしててよ」
エアハルトは返事をしていないのだが、青年は構わず話を続けている。
「彼女に手土産くらいあった方がいいかな? 無難に花とか」
壁際の花瓶から白百合を1輪取り、青年は美しい笑みを浮かべた。
エアハルトは知っている。
危険な棘を持つ花ほど美しいのだと。
◆
ジーナの件のあった翌日、ジョエレは喫茶店横のアパートを訪れていた。いつもの部屋のいつもの席で、いつもの青年にメモリースティックを渡す。
「ジーナ・ベアルツォットの件の詳細報告だ。隠蔽、上手くいきそうか?」
「なんとかなりそうよ。目撃者がいなかったのと、ヤバい部分は徹底的に燃え尽きてくれてたお陰ね」
青年がメモリースティックを受け取り、小振りなジュラルミンケースに入れた。
「薬品使ったんじゃない? 補充は?」
「硫酸、硝酸、グリセリン。小さいサイズで頼む」
「3つね。了解」
彼はサラサラと紙にペンを走らせ、それもケースに入れる。
「そういえばね、この前回収してきてくれた物の解析が終わったのよ」
「へぇ。で、どうだったんだ?」
ジョエレは片手で頬杖をつきつつ先を促したが、
「アンプルの中身はペスト菌」
予想の斜め上を行く言葉に頬杖も外れた。
「穏やかじゃねぇな、おい」
「瓶の中身はエタノールだったわ。消毒用かしらね?」
「メモリーカードのデータは?」
「そうそう。それがよく分からなくてね、解析班も判断がつきかねるらしいの」
青年は立てた人差し指を顎に添え、僅かに上へと視線をやる。
「26日、祭り。それだけ入力されていたらしいわよ」
「何だよそれ。大切なデータが消されてるんじゃね?」
「そう思うでしょ? でもね、本当にそれだけだったらしいわよ。26日が何月26日を指しているのか分からないけど、とりあえず気を付けておいてって」
お手上げ、とばかりに彼は肩を竦めた。
ジョエレも顔をしかめる。
それだけの情報でどうにかしろと言われても、何に気を付ければいいのか全く分からない。"熊"としても、注意を促すために情報を流してきただけなのだろう。
「相変わらず無茶振りしてくれるぜ。とりあえず気は付けとくよ」
そう言ってジョエレは席を立った。