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灰色の丘

作者: 頤 長太郎
掲載日:2017/03/08

 このゲレンデに来るのは実に三年ぶりだ。久々に味わう雪の感触が嬉しくて、康太こうたはスキー板を二,三度前後させた。絶妙な雪加減に、胸が高鳴る。彼はこれから滑る丘を見上げてから、リフト乗り場の脇に視線を移した。真紀まきが、粗末なメンテナンス台の上でスノボのバインディングを調節している。

「まだかかりそう?」

「もうちょい!」

 スノボを弄りながら返事される。どうしてそういうことをスキー場に来る前に済ませておかないのやら。でもその準備の悪さがまた、彼女らしくもある。

 やがて真紀はOKサインをし、ボードのバインディングを片足だけはめた状態で歩み寄ってきた。

「お待たせ、じゃ、行こ」

 並んで乗り場に向かう。ゲートをくぐり、所定の位置まで進んで身構えた二人の足元に、ガツン、と勢いよく、無骨なチェアリフトが衝突した。

「……ってぇー!」真紀が呻く。

「変わんないな、このリフトも」

 リフトに押されるがまま、二人は硬いシートに腰を下ろす。無機質なマシーンがぎこちなく、等間隔で乗客を運ぶ、もはや自然の一部と化したゲレンデの営み。憎らしいくらいの晴天のせいで、真下からの照り返しが目に刺さる。康太はたまらず額にかけていたゴーグルを下ろした。視界がモノクロに切り替わる。隣を見ると真紀も同じことをしていた。

「眩しいねぇ」

「だね、絶好のスキー日和だ」

「そうとも言うかー」

 天気のおかげなのか何なのか、真紀はからからと笑う。まばらな会話の最中、ゲレンデは延々と広瀬香美の歌を垂れ流していた。相変わらず、ベタで古い選曲だ。

 十分ほどでリフトが登りきる。二人はリフトを降り、宙ぶらりんだった足を再度雪面に落ち着かせた。

「下まで競争ね」慣れた足つきでバインディングにもう片足を嵌めながら、真紀が言う。

「やめとく、勝てるわけないし」

「スキーのが速いじゃん! ――わかった、じゃああたし迂回コースの方行く、これでハンデね」

「まぁ、それなら」

「よっしゃー」

 と、真紀は斜面に身体を傾け、迂回コースを滑降し始めた。傾斜の緩やかなコースのはずなのにずいぶん早い。

 康太も負けじと傾斜の急な方へとこぎ出したが、すぐに彼女の挑戦を受けたことを後悔する。何しろ数年ぶりの滑降なのだ、ブランクがある状態で上級者向けコースを攻略するのは辛いものがある。こぶ等はなく横幅も広いが、とにかく全体的に急勾配で、パラレルターンができるかどうか、というレベルの康太にとっては体力的にも精神的にも疲れるコースだ。しかしスキー板を平行にさえしていればスピードそのものは出る。他のスキーヤーが作った天然のうねりに苦慮しつつ不器用に滑るうち、気づいたら麓まで来ていた。登る時間に対して、降りるのはあまりにも早い。

 ゴーグルを外し、辺りを窺う。真紀の姿は見えない。どうやら勝ったらしい。やった、ハンデ付きとはいえ、初めて彼女とのスピード対決を制した――と思ったのも束の間。何故かリフト傍のレストハウスから、迷彩柄でスリムなデザインの見慣れたスノーウェアが歩いてくるではないか。

「よっ、お疲れ、結構早かったじゃん」

 缶コーヒー片手に、真紀が誇らしげに笑う。白い歯と、目の周りの雪焼け跡が、日光を鮮やかに照り返していた。



 何周か往復したところで、二人はいったん休憩を取ることにした。次はゴンドラに乗って一気に山頂まで登り、別のコースまで降りる予定だ。

 レストハウス二階の食堂に上がり、康太はカレーを頼む。ゲレンデ付属のレストランにありがちなことだが、せいぜいカレーくらいしか食べるものがない。真紀のほうもカツカレーだった。二人して黙々とスプーンを進める。

「……スノボ、ずっと続けてたんだな」

「まぁねー。東京勤めてる康太と違って、スキー場も近いし」

「羨ましい限りで」康太はカレーを掬いながら、ノースリーブ姿の真紀をチラと見る。露になっている細腕は、目の周りを除いてこげ茶に焼けた顔とは反対に真っ白だった。「前から思うんだけど寒くないの、そのインナー」

「んー、ちょうどいい」腕をさすりながら、彼女が答える。「滑ってるうちにあったまってくるし、今日晴れてるしさ」

 確かに真紀の素肌には鳥肌ひとつない。こんな恰好でこれまで風邪ひとつひいた試しがないのだから、不思議である。

「仕事、大変なんだってね」

「それなりに、な。給料悪くないから頑張ってられるけど、日々に余裕があるとは言えない感じ」

 康太は少しだけ、見栄を張った。本当は仕事量に見合った給料とは言えない待遇で、どうにか暮らしていると表現する方が正しい。憧れを抱いて地元の大学から東京の製造会社に就職して三年、昇進の機会にも恵まれず、変わり映えのない業務に追われるばかり。都会への憧れはとっくに潰え、楽しみを見つけようと足掻く気にもならなくなってきている。

「大丈夫? なんか目が死んでるけど」

「東京戻ったらまたすぐ出張があるんだ」

「ふぅん、忙しそ」

 気楽な調子で聞き流す真紀に、そっちはどうなんだ、と返すのは躊躇われた。その雪焼け顔を見れば、しばしばスキーに行っていられるくらいの余裕があることは窺える。堅実に地元の零細企業にでも就職してれば、今頃は一緒になって雪焼けを作っていたりしたのだろうか。

「なんかごめん」

「え?」

「東京の話、したくなかったっぽいから。せっかく帰省したんだし息抜きしてけば? 愚痴なら訊くよ」

 つい、変な失笑が漏れた。僻みっぽく思ってしまったのが申し訳なくなるほど、彼女の反応は純朴だった。本当に、大学時代から変わらない。こっちがあてられそうになるほど。

 ふと見ると真紀はカレーをほとんど食べきり、皿をスプーンで丹念にこそぎ始めていた。すっかり手が止まっていたことに気づき、康太もスプーンを動かす手を速める。もしかするとそのせいで彼女を気遣わせてしまったのかも知れない。



「そういやさ、東京でカノジョとかできた?」

 ゴンドラに向かうリフトの上。

「えっと……そんな機会もない、です」突然問われ、一瞬、言葉に窮した。「そういう真紀はどうなんだよ」

「ぜんっぜんだよ。職場はおっさんしかいないし、たまーに合コンとか誘われてもつまんない人ばっかだし」

 ため息交じりに答えられる。だが大して危機感のある様子でもない。実際のところ、真紀にその気がないだけだろう。

「まぁ真紀は合コン行っても難しいかもな、日焼けすごいし」

「あっ何それセクハラ!」

「うわっやめろ落ちる落ちる!」

 肩をバシバシ叩かれ、康太はリフトの上でよろけてしまう。その拍子でリフトが傾き、緊急停止した。

「ほらー康太のせいで止まったー」

「いや、そっちが叩くから……」

「そっちがセクハラ言うからでしょー」

「気にしてんなら日焼け止め使えよ……」

 強い揺れが発生したため、リフトを一時停止する、とアナウンスが流れる。停まった宙吊り椅子の上で、真紀と二人、時間まで止まったような感覚がして、康太は早く動き出すのを願った。独りで空中に放り出される方がよほどマシだ。

 その中途半端に気まずい空白が、康太に大学時代の記憶を思い出させる。あの頃は、真紀がチェアリフトに座ってはしゃぐのを、ひとつ後ろのシートから眺めてばかりだった。彼女はずっと、もう一人のスキー仲間の隣にいて、康太にはその間に割って入る隙間はなかった。

 裕揮ゆうきというその男の影に、彼は社会人となった今となっても縛られ続けている。



 康太たちが三人でスキーに行くようになったのは、大学一年の春休みからである。最初のゼミの自己紹介で趣味にウィンタースポーツを掲げた同士が意気投合、そのままゼミでもお馴染みの三人組となった具合だ。ゼミで集まる日はことある毎に行動を共にしたし、休日には定期的に飲み会を開いたりもしたが、やはり三人の思い出の多くはゲレンデに詰まっていた。

 裕揮は、上背があって頭身の高い、スキーウェアの似合う色男だった。そしてなによりスキーが上手かった。しなやかな長い両脚でレーシング用の細めの板を操り、クロスカントリーじみた平地からこぶのあるコースまでを、器用に滑りきる。もちろん、真紀のスピードホリックにも互角に渡り合えるものだから、二人はよくゲレンデでレースを始めたりした。上級者どうし、お互いの血が騒いだのだろう。

 そんな二人にくらべれば、康太は冴えない、普通に趣味で滑っているというのが相応しいスキーヤーである。彼らが競争など始めるとあっという間に置いていかれ、先に着いた二人に並んで見守られながらようよう降りるのが常だった。そして康太が追いつくと、待ちかねたように二人が一緒のリフトに乗り、一つ二つ遅れて康太が独りで追随するのだ。彼はその瞬間だけは面白くなかった。別に、先に降りた二人でそのままリフトに乗るのは自然なことだし、彼らが康太を蔑ろにしたつもりなどなかったのだろうが、裕揮に対する敗北感はそれと関係なしに湧いてきた。

 それでも康太は三人で過ごすゲレンデが楽しかった。そもそも三人の間にその手の浮ついた感情はないものとされていたのだ。真紀も裕揮もゲレンデにいる間は純粋に滑りを楽しみに来ているだけで、だからこそ息が合った部分はあるのだろう。ただ康太だけが、本来あるまじき想いを時折ゲレンデに持ちこんでいたに過ぎない。



 ゲレンデは、降りるのに対して登る時間があまりにも長い。その、ほんの短い滑降の快感を得るために、スキーヤーやスノーボーダーは大半の時間をリフトに費やす。

 だから、リフトが停まるのは快感の対価となる時間が無為に引き伸ばされることを意味し、歓迎されるべきものではない。それを歓迎できるのはリフトに座る時間を和気藹々と潰せるような間柄の人たちだけ。

「あーもう! 早く動けっつーの!」真紀が露骨に苛立ち始め、足をバタバタさせる。「言うほど風吹いてないじゃんー」

「足やめろ、余計に運転すんの遅くなるだろ」

「だってー」

 彼女のこの態度は、隣に裕揮が座っていたときから変わっていない。二人とも滑りたがりだから、リフトが停まれば二人揃って機嫌が悪くなる。康太としても、その間は目の前の男女に対する嫉妬など消え、微笑ましさと不安が入り混じった気持ちになったものだ。

「大学の頃もそんなだったよな、リフトが停まると裕揮と一緒になって――」

「なんで今あいつの話が出んの」

 彼の名前を出すと、少し険のある声が返ってきた。

「まだ怒ってんのかよ」

「知らねーよ、あたしら置いてハネムーンしてる奴のことなんか」

 相変わらず足をぶらぶらさせて、拗ねたように真紀が言う。裕揮は去年結婚したばかりの妻との新婚旅行があると言って、久々のスキーを断った。相手はサークルの同期で、ウィンタースポーツはさっぱりだけど料理が上手い、そんな人らしい。大学二年のときに向こうから告白、四年付き合って彼からプロポーズ。絵に描いたような成功街道である。

「いっつも要領良いんだよね、裕揮って。就職も真っ先に決めたし――なんか置いてかれた感じがするな、あいつに」

 真紀が呟くと、それを合図にしたようにリフトが再稼働しだした。冷たいそよ風が頬に当たって、少し寒い。



 長く座ったリフトからようやっと降りると、二人は細長い連絡コースを通って、大きい箱型のゴンドラ駅に到着した。ここからロープウェイ式のゴンドラに乗れば、全長数百メートルのチェアリフトとさほど変わらない所要時間で、一気に山頂まで登ることが出来る。

「最後の年はなんだかんだ乗れなかったから、四年ぶりってことになるかな、このゴンドラ。ほんと、今日晴れてて良かった」

 なんだかんだで康太は気分が高揚していた。大学時代でさえそうしょっちゅうは乗らなかったゴンドラに、四年ぶりに、絶好のロケーションで乗れるのだ。お天道様の気まぐれにとことん感謝した。

 隣から、んっふっふ、と笑いをかみ殺した声がした。

「良かったねー、康太」真紀がしたり顔で康太の顔を覗き込む。「ニヤけてたよ、よっぽど楽しみだったんだね」

「……まぁ、ね」

 康太はさすがに恥ずかしくなった。

 入り口を全開にしたままゆっくりと乗り場を流れるゴンドラに、二人はそれぞれの相棒を抱えて飛び込んだ。そのあとに、家族連れや大学生くらいのグループが何人か乗り込み、十数人分の椅子があらかた埋まったところでドアが閉められる。ひと頃は多かった中国人のツアー客は、今はほとんど見当たらない。三年ぶりに訪れても変わり映えのしないこのスキー場でも、客層は少なからず変化しているらしかった。

「うわっ、キレー!」真紀が身体をひねって、一面の樹氷原に感嘆の声を上げた。

「そんなに? ――うわっ」倣って振り向いた康太も、言葉を失う。「大学のときも、こんなの無かったよな」

 二人とも、しばし変な姿勢で雪景色を見下ろしていた。雪で覆われて白く盛り上がった無数の針葉樹が、日光を直に浴びまるで揚げたての天ぷらのように光りながら、空の群青色と鮮やかなコントラストを造り出している。吹雪の中の逞しい樹氷の姿とはまた違った、芸術的な風景美がそこに広がっていた。つい、ここが人工的なレジャー施設の一部であることを忘れてしまうほどの説得力。康太も真紀も、雪山にこんな可能性があることを知らなかった。

 康太がふと振り返ると、他のスキー客も、それぞれのコミュニティ同士で思い思いの楽しみ方をしていた。大学生と思しき男が、ゴンドラの窓を開け、スマホを外に突き出して写真を撮り始めると、彼の仲間たちもそれを見てはしゃぎ出す。危なっかしいことをするな、などと思いつつ、そう言えば自分たちも大学のころは純粋に景色を楽しむことはなかったのではないか、とも感じていた。今はしゃいでいる大学生たちだって、本当に楽しんでいるのは景色よりも仲間といる空間の方だろう。彼らはゴンドラの窓を開けてスマホを突き出す男の行為に冒険心を感じ、そうやって撮った写真は「冒険の記録」として保存されるのだ。

 康太の隣でも、カシャリ、と控えめなシャッター音が鳴る。真紀は景色を写メに収めて満足したのか、それきり向き直って、また退屈そうに脚をぶらぶらさせた。

「いやーこんだけ晴れてたら滑り心地サイコーでしょ!」

 やはり真紀の最大の関心事となると、目の前の景色より足元のコンディションということになるらしい。社会人になってもその辺は一向にブレないようだった。

「そうだなー、これなら山頂コースで滑れるかも」

 今にも滑りたそうにしている真紀を横目に、康太は焼き付けるようにもう一度樹氷原を見渡した。



 ゴンドラを降りると、そこは山頂だった。正確にはスキー場の頂上というだけなのだが、ここより上には行けないということには変わりない。雲に限りなく近い標高だからか、さすがに身震いがするほど空気が冷たかった。

 さっさと滑降を始めてしまいそうな勢いの真紀を引き留めて、山頂の目印である看板を前に記念撮影をする。そこら辺の中年男性に頼んだところ、スマホのカメラを上手く扱えなかったようで、少し撮ってもらうのに苦労した。

「何かさー、天候悪くなってない? ちょっと靄がかかってきたんだけど」

「確かに。参ったなあ、山頂コースは厳しくなってきた」

 視界が突然曇ってきたのを感じ取り、二人はゴーグルをかけ直した。山のお天道様はコロコロ機嫌が変わるもので、標高が高くなるほどそれは顕著になってくる。つい五分前までくっきり晴れていたとしてもアテにならないものだ。

「じゃあ、ひとつ下のユートピアゲレンデはどうかな」

 康太は比較的易しいコースを提案したが、案の定真紀は首を横に振った。「退屈だから、メイフラワーゲレンデにしよ」

「あー……だよね、じゃあそっちで」

「よっしゃー!」

 行き先を決めた二人は、突然吹雪きだした山頂の細い街道を滑降した。さすがに麓のほうと違い、雪面がアイスバーンでガリガリに固まっており、あまり滑り心地が良いとは言えない。他のスキー客を掻い潜りながら、まったく手加減せずに飛ばす真紀にどうにか追い縋った。

 コース分岐の度に彼女に停まってもらいつつ、そのゲレンデに辿りついた。山の外れでひっそりと稼働している、このスキー場の穴場スポットだ。滑る人が少ない故の新雪に近い難儀な雪質、細長くて急勾配なコースの造り、そして全エリア屈指のコース全長。真紀や裕揮にとっての天国、すなわち康太にとって地獄にも等しいコースだ。無論リフトは二人乗り。裕揮がいた頃はいい思い出のなかったゲレンデである。

 二人並んでリフトの無慈悲な体当たりを受け、コースを遡っていく。突然頂上の方で荒れだした天候が山の中腹まで降りてきたらしく、細かい雪を運んだ強風がゲレンデ中を包んでいた。

「寒……」

 真紀が腕を抱えて寒がる。珍しいが、それをからかう元気は康太にもなかった。

「なあ……一回ここ滑ったら下に降りない?」

「一回だけで我慢しろって?」

「これ以上天候が悪くなったらさすがに危ないだろ」

「んー……分かった」

 ふてたようにそっぽを向きながらだが、一応真紀は了承した。康太はほっとして、雪風を避けるように真下に目を移した。積もった新雪の上に、つい最近作られたらしい二条の曲線。コースアウトしてリフトの真下を滑った人がいるらしい。本当はマナー違反だが、しばしばみかける光景だ。

「よくやるよな、ただでさえおっかないコースなのに」康太はスキーの跡を指さして話しかけた。「覚えてる? 裕揮がそれやったとき、真紀、えらい怒ってたじゃん。勝負から逃げやがってー! みたいな」

「わたし、コースアウトするようなスキーヤー嫌いだから」

 冷たい声で返事される。倫理的に軽蔑しているというよりは、私怨の籠ったような響きだった。

「でもあいつ、真紀と違う道滑ってるときはちょくちょくコースアウトしてたぞ。『あいつには内緒な?』とか言ってきて」

「はぁー!?」真紀は森の向こうのゲレンデにまで響き渡りそうな怒声をあげた。「なんなのあいつ、そんなんでもしれっと最初に結婚決めるし! あーもうまた腹立ってきた!」

 そうして彼女が当り散らすように足をバタバタと振り回したが、リフトは停まらなかった。ここのリフトは乱暴なほど客の運搬が速く、そしてとにかく停止しない。

 康太は失笑しながら、訊いた。「ぶっちゃけ、真紀ってあいつのこと好きだった?」

「まぁまぁ、って感じ。残念なトコあるけど顔は結構かっこよかったからねー。でも脈なしって態度出してたから、分かってたよ、そういうのじゃないって」

「そんなもんか……」

 そんなもんっぽいねー、と気のない返事をされ、康太は彼女がまだ隠し事を抱えているのを察した。そしてとある夏の日、裕揮によって縛られた時のことを思い出した。



 大学三年の夏休み、いつもの三人で裕揮の部屋に行って飲み会を開いていた夜のことだ。こういう時は決まって酒の弱い真紀が最初にダウンして、男二人で下衆な深夜トークが始まるのが恒例だったが、その日も真紀がすごい寝相で寝っ転がる横で缶ビールを傾けながら、クラスの誰それの身体つきがエロいだの、ゼミの同期の誰それが盛大な修羅場を迎えているだのとくだらない話をしたり、漠然と恋愛観について語り合っていたりしたのだが、話題が途切れたタイミングで突然裕揮が真紀を指さし、

「コイツ、今ならちょっかい出しても絶対起きないよな」

などと言い出した。

「いや、やめとけよ」

「何もしねーけどさ。でも起きないよな」

「まあ、かもね……」

 当の彼女は、やらしい話の対象にされていることなど気づいてもいない様子で両腕を投げ出して熟睡している。慣れた光景だったが、改めて言われると確かに無防備すぎである。

「俺が言いたいのはさ、真紀が残念なのはこういうところだよな、って話。幻滅ってわけじゃなくて、カップルらしい適度な距離感が喪われる感じで」

「っていうと?」

「天然にせよ計算にせよ、誰を前にしても寝るまで酔っ払いそうじゃん」

 相槌を打ちつつ、康太は真紀のあられもない寝相を見て生唾を呑み込んでいた。裕揮の言うことも分からないではないが、むしろわざとらしいほど隙を見せてくる異性に何だかんだ康太は弱かったのだ。

 そういうのを童貞臭いというのだろうか、などと考えていると、続いて裕揮がカミングアウトした。

「俺が今のカノジョと付き合ったのって、割と真紀を牽制するため、みたいなところがあってさ――別に自惚れで言ってるんじゃないからな、なんか一時期やたらサシの誘いかけられたりしてたから」

 申し訳なさそうに余裕を湛えて言う裕揮に、康太は顔を顰めてみせた。「別に信じるけどな。お前らゲレンデじゃ随分べったりだし」

「いや悪かったって。そりゃ俺は知ってたわ、お前が真紀のこと気になってんの。向こうはスノボに夢中でさっぱりだけどな。そんなんで俺が付き合うわけにいくかよ、あいつと」

「俺がいなかったら付き合ってたってか?」

「そうじゃねえよ、三人の関係崩したくないのは俺の都合だって。現にスキーはともかく、一緒に飲んでて楽しいのはお前の方なんだから」

 酔いの回った頭で康太が考えるに、それは『真紀とは友達のままでいたい』の言い換えのようだった。

「裕揮ってそういうところ、妙に硬派だよな」

「無駄にごちゃごちゃさせたくねーもん。あ、俺はお前と真紀がくっついても文句言わないから好きにやっていいよ、その方が平和だし」

「大きなお世話だって」康太は苦笑した。「余計にやりづらくなったじゃんか」

「まあおすすめはしない、実際。真紀は純情だけど、嫉妬させることに関しては天才的だ。お前に手綱引けるとは思えないね」

 何かあったら相談に乗るよ、などと締められて、康太は情けない気持ちになったのである。結局、康太には四年間、春が来ることは無かった。



「――また来ようよ、次のシーズンにでも。今度はちゃんと、三人で」

 真紀の物足りなそうな発言で、康太は回想からすっかり醒めた。

「一回しかメイフラワー滑れなくて不満だった? それとも、やっぱ裕揮と滑る方が楽しい?」

 だが、心のどこかで歪みが生じていたらしい。

「……康太?」

 恐ろしいものを見る眼で真紀に見つめられて、康太は失敗したことを悟った。

「悪い。でも裕揮が来てくれるかどうか実際分かんないだろ。もうあいつも所帯持ちだし、前みたいに自由な時間はないだろうから」

「そうだけど……」真紀は唇を尖らせてから、小声で続ける。「やっぱ三人のあの感じが良いんだよね」

「確かに……」

 二人して変なノスタルジーに罹ってしまい、リフトの上を沈黙の時間が過ぎていった。たかだか三、四年のブランクと一人の欠員が、こんなにも痛い。



「なあ、競争しない?」

 リフトを降りてから、康太は提案した。

真紀はスノーボードに足を嵌めながら言う。「別にいいけど、メイフラワーじゃどうせ勝負になんないよ」

「いいんだ別に。コースは真紀が選んで」

 真紀は気味悪そうに康太の顔を覗き込んでから、渋々頷いた。「じゃ、真ん中」

 康太が頷き返すもなく彼女はテイクオフする。柔らかい雪面の上で躊躇なく雪煙を上げる迷彩柄の背中を必死に追いかけるが、幾ばくもしないうちに背中が遠くなっていく。それでもどうにか追い縋ることで、どうにか康太の視界には、彼女がターンの度に上げる、特徴的な雪煙は映っていた。どうせ他に人がほとんどいないのだからそれを追い掛けていればいい。

 ところが、コースも中盤に差し掛かった辺りで突然その雪煙が消える。完全に突き放されたにしては、失せるのが急すぎた。怪訝に思いながら滑ると、吹き溜まりで柵が傾いた場所から森の方へ、一本の太い線ができているのが見えた。

 まさか、と康太は思いとどまったが、結局は森の中に入り込むことにした。コースアウトはご法度とか言っておきながら本当に彼女がやっているとしたら、その真意を訊いてやりたい。その一心で、せめて逃げ切られまいと線を辿っていく。

 もちろん、康太は非圧雪コースを滑るようなマナー違反をしたことなどなかったから、その手のスキルもない。下手をすると全身どっぷり雪に浸かることになりかねない雪のプールの上を、重心移動をせず、ストックも使わずに滑っていくのは容易ではなく、何度か足を持って行かれそうになったが、スピードが落ちると一巻の終わり、踵で踏ん張ったり横滑りをしたりも命取りになる、とコースアウト常習犯の裕揮が言っていたのを思い出し、段々と要領を摑んでいった。木々の間をぬって進む閉塞感と、本当に正規のコースに戻れるのか、という緊張感が、身震いするほどスリリングだ。リフトの真下を横断したときなど、見つかりやしないかという背徳感もそこに加わってしまう。

 そうやって禁断の興奮を味わううち、突然雪の線は途切れ、足跡に切り替わった。見ると足跡はリフトの柱から五メートルほど離れた銀色の大きなタンクの後ろに続いている。慎重にカーブし、そこを覗くと、真紀がスノーボードを投げ出して、ふかふかの雪の上に仰向けでダイブしていた。

「ま、真紀?」

「あ、来たんだ康太。ここなら撒けると思ったんだけど」

 彼女の投げやりな言い草に康太は腹が立った。「撒いてどうするつもりだよ、俺の車で来たんじゃんか」

「麓までバス乗って、そっから駅とか」

「馬鹿言うなよ」

 康太もスキーを外し、歩いて真紀のところへ歩み寄った。ちょうど非常用タンクの周りだけ雪を固めてあるらしく、埋もれることもなかった。どうも彼女は以前からこのスポットを知っていたらしい。

 真紀は早口でしゃべり出した。

「大二のときアイツと競争してたらさ、わたしの目の前でコース外に出やがったわけ。またズルしやがって、って思って追っかけたらアイツがここで待ち伏せしてて……『俺のことどう思ってんの?』っていきなり訊いてきたことがあったの。覚えてる? 一回だけ康太が一番乗りで降りたことがあったじゃん」

「……ああ、そんなこともあったかもな」

 康太はとぼけたが、はっきり覚えていた。後にも先にも、彼が一番早く麓まで降りたことはそれだけだったのだから。

「でさ、そんな風に訊かれるからさ、まぁ好きだよ、って答えたよ。そしたら『それは友達として、って受け取っとくよ』とか言いやがってさ」彼女は少し涙声になりながら捲し立てた。「なにあのナルシっぷり! そんでそのあと見計らったようにカノジョつくって、挙句その子と結婚してやがんの! 張っ倒したいんだけど!」

「……ご愁傷様」

 そして真紀はバカヤロー、と木霊の鳴り渡りそうな勢いで叫ぶ。

 康太は二人の関係の新事実を聞かされても、胸がむかついてはこなかった。彼女の方も康太と同じようにして縛られていたんだ、という事実を知れてむしろ安心した。

「未練たらたらじゃん、裕揮に」

「はぁー? 誰があんなクズ野郎なんか……」

 一通り喚いてすっきりしたのか、真紀は起き上がって身体についた雪を払い落とし、スノーボードを拾った。

「もういい帰ろ、次は裕揮も呼んでアイツを絞める会開くから!」

「どうせ新婚さんのノロケ話喰らって終わりだって……」

 そうしている間に空はすっかり曇り、天候も雪山らしいものになってきた。確かに、ここらが引き際だろう。

 康太はスキー板を再び足に嵌め、意味もなくゴーグルを額に押し上げる。灰色だった視界が目の錯覚でスカイブルーに転じた。彼が最もスキー場らしい景色だと思う瞬間である。

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