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LIVE

作者: pinoco

雨だったら、もしかしたら相合傘とか、できたのかもしれない。

五月の太陽は、もう暑い。じりじりと奈子の肩や頬を焼く。

これが温暖化ってやつかな、と適当に思った。地球温暖化。よく聞くけど、実感したことなんてない。-っていうのも、よく聞くけど。

下ろした髪が、首の後ろにぴたりと張り付いて気持ちが悪い。右手でふわっ纏めて上げると、生温い空気がすうっと首元を通っていった。自分の後ろを駆けていくような、撫でていくようなそれは、気持ちいいとは言えなかった。くすぐったい、と思った。髪を掴んだ右手を下ろすと、するり、と糸が解けるように声が出た。

「とりあえず物販並ぼうよ」

言い終わったところで深く息を吐いたことで、自分がひどく緊張していたことに気付く。

おー、と直也の気の抜けた返事で歩き出す。赤いディッキが風を含んでぱたぱたとはためく音が、二人分。

同じ色のディッキを履いた人なんて、山ほどいる。だけど、その中の一人が彼だと思うだけで嬉しかった。

知らず握り締めていた拳の力を抜き、もう一度深呼吸をした。


高校生には、地球温暖化なんて遠くて大きなものに気を配っている暇などないのだ。例えば、今だって、もうじきに中間試験期間がやってくる。長い目で見れば、三年生である奈子たちには、受験や就職活動が待っている。今週の週末課題もまだ終わっていないし、それから。

ちら、と目だけで直也を見上げる。

奈子の視線に気付いた直也は、こちらを見下ろし、にや、と笑った。

憎たらしい表情に、思わず苦笑する。

少なくとも、今の奈子には、地球の危機より大事なことがある。

何度も、何度も、見つめてきた背中。不思議なほど、飽きない背中を、今日も明日も、追いかけること。


足元のコンクリートを蹴る。

地面と靴の裏が擦れて、ざっ、と音がした。少し弱めにゆっくり蹴ると、ざざざ、と鳴る。

五回ほど繰り返した辺りで、ふと顔を上げてみる。白い太陽の光が眩しくて、奈子は目を眇めた。

細く開けた視線の先に、シルエットになった彼が見える。

列はまだまだ長い。

ふわあ、と大きなあくびにびくっと肩が跳ねる。

何か話さなきゃな、と思うのに、何も出てこない。

なにかはなさなきゃな。頭の中で反芻する。結局、何も浮かばない。思わず小さく溜息をつく。

吐いた空気に少しでも暗い気持ちを連れて行ってもらいたかった。

日差しはいよいよ強い。腕や額の汗がじっとりと絡み、気分は一層重くなる。

ふと閃いた。自分でもいきなりすぎる思いつきに、思わず「あ、」と声を漏らす。

ん?と、直也が振り向いて奈子を見下ろす。自分でもまとまっていないうちに進んでしまいそうな思考を慌ててストップさせた。

「ああ、いや、ちょっと」

「なんだよ、気になるだろ」

苛ついた、それでいてからかうような声。ふっ、と記憶が蘇る。告白したのか、されたのか、よくわからないあの日。あの時も、彼はこんな声で話した。

もっと聞いていたい、と思った。

暗い逡巡をしている余裕なんてない。この声をもっと聞くために、話がしたい。

「グッズ、何買う?」

思いついた問いかけは、思った以上にすんなり言えた。

「とりあえずTシャツとタオルかな。色、迷うけど」

「私もTシャツ買うよ、黒にしようと思ってる」

直也は、ふうん、と興味なさそうに相槌を打つと、目線を逸らした。少し間を置いて、呟くように言う。

「じゃあ、俺も、黒にしようかな」

ぴく、と体が反応する。

思わずそっぽを向いた横顔を見つめると、直也は顔を隠すように頬に手を当てている。

予定では、もう少し話が弾むはずだった。だけど、今ではこれで十分な気がする。むしろ、こんな気分のまま、いつの間にか激しく打つ鼓動を隠したまま話すのは、奈子の方が無理かもしれない、と思った。

列が動いたタイミングで、奈子は直也から目を逸らし、火照った顔をどうにか冷まそうと、同じように頬に手のひらを当てた。


今、自分が歩いている音に擬音語をつけるとしたら、ふらふら、とか、そんな言葉になるだろう。やっぱり、ライブは疲れる。

目にも耳にも優しくない音たちが、まだ奈子の体の中を駆け回っている。

もうすっかり暗い。わずかな街灯に照らされて、鮮やかな赤がひらひら揺れる。自分と同じデザインでワンサイズ上の真っ黒なTシャツは、夜の闇に溶け込んで、直也の背中と周りの世界との境目をぼんやりぼやけさせる。

また後ろ姿か。

いつも、奈子は直也の後ろを歩く。誰かにそうしろと言われたなんてこともない。だけど、勝手に足が遅くなる。大きくて骨張った肩や背中をぼんやり見つめながら歩く。理由なんて、わからない。

強いていうなら、好きだから。

少女漫画じゃあるまいし、そんな曖昧な。一人で苦笑する。

お酒を飲んだわけではないが、酔っているような感覚だ。体の中で弾ける音に、生温い風に、闇に溶け込む揺れる黒に。

相変わらず背中を見つめる。切ないような、熱いような気持ちが込み上げる。こんなところでいきなり泣いたりなんかしたら、確実に引かれる。わかっているのに、胸が苦しくて、涙がこぼれそうになる。

街灯の明かりが奈子たちを包む。

気持ちを確かめる、なんて大層なことではない。ただ少し、たまには、甘えてみてもいいんじゃないかな。

今は疲れているのだ。少しくらい思考回路が回らなくても、仕方がない。少しくらい驚かれるようなことを、思わずしてしまっても仕方がない。そう言い聞かせて、そっと右手を伸ばす。

ゆっくり、でも真っ直ぐ直也に向かって伸びた指先が、彼のTシャツの裾を掴んだ。

引っ張られる感触に驚いたのか、一瞬固まってから彼が後ろを振り向く。

「………何」

短い言葉に、はっと我に返る。

うわ、私、何してるんだろう。離さなきゃ。ごめん、冗談、なんでもないよって笑わなきゃ。ああ、歩くの早い、とか言ってごまかせばいいかな。

頭では色々考えているのに、どうしてもはっきり言葉にならない。離さなきゃ、と思った右手も、奈子の意思に反して、どうしても離れてくれない。

どうにもできなかった。

奈子が何か言うべきだ。それはわかっているのに。

と、直也が体ごと奈子の方を向き、ふっと力が抜けたように頭をもたげた。とん、と肩に暖かさが触れる。突然襲った衝撃に、飛び跳ねそうになった肩を必死で抑えた。

一体、何が、起きたのか。

全身が心臓みたいだ。真冬の体育の授業みたいに、指先の神経が麻痺して、ぴりぴりとした刺激がある。中指と親指をこっそり擦り合わせると、ぴりぴりが少し和らいだ。

昼間から、度々どくどくとうるさかった心臓は、今度は、とくん、と静かに鳴る。

どうしたの、と発した声は掠れた。

返事はない。両手で奈子の腕を掴み、奈子の肩に体重を預けるように額を乗せた姿勢のまま、何も言わない。

「どうしたの」

もう一度、今度は声が掠れないように力を込めて声を出す。

言い終わるか終わらないかのところで、なみ、と名前を呼ばれた。

息を呑んでから、思う。

今日一日、この人に振り回されてばかりだ。

本人は、振り回してるつもりなんかないのかもしれないけれど。

また少しの間、静寂が流れる。

ゆっくりと、するり、と腕が離れ、頭が上げられた。

見つめ合う形にはなるが、街灯を背に立つ直也の表情は、こちらからはわからない。

ふわっと風が肌を撫でていった。なんだか久しぶりの感覚だ。

もたれかかられている間、まるで時が止まっているようだった。車道を走る車の音が聞こえなかった、風も感じなかった。街灯の明るさも目に入らなかった。

声を掛けようか。かず、と呼び掛けてみようか。話しかけていいのだろうか。何しろ、こんな彼は初めて見た。動揺、という言葉が一番しっくりくる。

「なんでも、ない」

突然そう言ってくるりと体の向きを変え、直也は歩き出した。さっきまでの弱々しさが嘘のように、すたすたと勝手に進んでいく。

まってよ、と思わず詰るように声を上げた。途端、前を歩く彼がぴたりと立ち止まり、「ほら」と言う。

「ほら、そんな感じでいいよ」

直也はこちらを見ない。

「さっきのお前、何?急に人のTシャツ掴むとか。伸びる」

この声には、覚えがある。

「そんなことしなくても言いたいことわかるから別にいいよ」

早口で言い切ると、直也はまたすたすたと歩き出す。

自分の頬が緩むのがわかった。

同時に、ぽろぽろと涙がこぼれる。子どもの頃、ショッピングセンターで迷子になってやっと家族と会えたときも、こんなふうな泣き方をした気がする。

いつの間にか、直也が戻ってきていた。相変わらず、目付きが悪い。

「また泣いてんのかよ」

吐き捨てるように言うと、帰る、と言って奈子の手を掴んだ。

直也の手は熱い。自分の手も相当熱いはずだ。

彼は変わらない。不器用に思いを伝えたあの日からずっと。自分が勝手に不安になっていただけだ。

ねえ、と声を掛ける。返事はない。ただ、ほんの少し歩調が緩むだけ。

さっきよりもゆっくり流れる景色を見つめる。

「さっき、言ってくれるかと思ったのに」

笑い出したくなる気持ちを抑えて、できるだけ澄まして言う。

それだけで彼には伝わったらしい。「うるせえ」と声を荒らげて歩く速度を早めた。

こっそり横顔を覗く。柔らかい街灯に照らされた彼の横顔はやっぱり格好よくて、やっぱり少し赤かった。

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