下
絵馬を握って走る少女は、数年前に流行ったコートを着ていた。身につけているものや背格好から、年は中学生から高校生くらいだろう。運動部にでも入っているのか、軽快な足取りであっという間に境内の人込みの中へと入って行く。
その背中を、光成は必死に追った。すぐさま人込みの中に入り左右に視線を走らせると、本殿の方へと走り去る少女の後ろ姿を見つける。光成はすぐさま少女の後を追った。
人込みの中を、少女はするすると走り抜ける。光成も多少足には自身があるのだが、小柄な体格を活かして人込みを走る少女になかなか追いつけないでいた。人込みの隙間から時たま見えるその背中だけが、追っている方向が正しいことを知らせていた。
光成が先ほど感じていためまいや頭痛は、不思議となくなっていた。足は勝手に少女の背中を追い続けている。冷静に考えれば、まだ何も書いていない絵馬を一つ取られたくらいでここまで追う事もない。新しいのを買って、書き直せばいいだけの話しだ。しかし、光成は少女に吸い寄せられるように追う事をやめられなかった。ここで少女を行かせてしまってはいけない。逃がしてしまってはいけない。なぜだか、その思いが強くあった。
やがて、光成と少女の距離が徐々に縮まり始めた。疲れが出てきたのか、少女の走る速度が鈍り始めたのだ。もうすぐ捕まえられる。そんなことを考えていた時だった。
人込みの向こうに、ちらりと交差点が見えた。本殿へと続く道と、普段は一般車両が通行する道路の交差する場所。その道を見た瞬間、光成の思考が古い記憶を呼び起こす。飛び出す少女と、走ってくるバイク、その二つが、ぶつかる光景。
「おい! 止まれお前!」
思わず口をついて出たその言葉が少女に届くか届かないかのうちに、少女は道へと飛び出す。そこに、道の左側から走ってくるバイクがいた。
世界が、スローモーション映像を流したようにゆっくりになった。
このままいけば、少女とバイクはぶつかるだろう。まるで木でできた人形のように、少女の体が力なく舞うその光景を、光成はありありと思い浮かべることができた。大好きだった、大切だった彼女がちょうど、バイクにはねられた時と同じように。
(ふざけるな)
光成の心の中で、そんな言葉が響いた。もう二度と、あんな光景を見るのはごめんだった。自分の大切な人が、命を失う瞬間を目にするのは、もう耐えられなかった。光成は歯を食いしばり、強く一歩、前へと踏み出す。
走り込んでくるバイクと、それに気づいて立ち止まりかける少女。そして、その少女を助けるべく道へと飛び込んだ光成。
バイクが急ブレーキをかける音と、何かがぶつかる音が聞こえた。
少女の名前は、高槻叶と言った。中学校では陸上部に所属し、短距離走の選手として活躍していた。明るく誰にでも気さくに話しかけるタイプで、人を引っ張っていく性格ではなかったが、彼女の周りには自然と人が集まった。
そんな彼女と光成は、高校一年生の秋ごろから付き合い始めた。入学した高校がたまたま同じで、昔から意識していたこともあり、光成から告白したのだ。めでたく恋人同士となった二人は大みそかの夜、デートで初詣に行くことにしたのだ。
そうして、事件は起きた。
たこ焼きを食べ、絵馬を書き、本殿の裏にある昔の本殿へと走り出した時、叶はバイクにひかれた。道には無残な姿になった叶と、粉々になった絵馬の破片だけが残っていた。光成はその光景を、ただ茫然と見ている事しかできなかった。
光成はゆっくりと目を開けた。自分の体に、ゆっくりと意識を傾ける。飛び込んだ勢いで、そのまま地面に転がってしまったらしい。足は、動く。手も大丈夫そうだ。ぶった衝撃で上半身が少し痛むが、骨折をしているような強い痛みは感じない。しばらくそうして自分の体を確かめてから、こんどは自分の腕の中に意識を向けた。
腕の中には、先ほどの少女がすっぽりと収まっていた。胸に抱きかかえているような形になっているため、その顔をうかがう事はできない。光成はゆっくりと、少女に問いかけた。
「おい、大丈夫か?」
そんな光成の問いかけに、少女の体がもぞもぞと動く。どうやら、生きてはいるようだ。
光成はゆっくりと腕を解き、少女を解放する。少女は強いショックからかこちらを見ようとせず、顔を伏せたままゆっくりと光成から体を離した。
その少女が誰なのか、光成はなんとなくわかった気がした。セミロングの髪の毛に、一昔前のコート。白色は彼女のお気に入りの色だったはずだ。
「なあ、お前って……」
光成がそう問いかけようとした時、少女がいきなり立ち上がって、本殿の方へ再び走り出した。事故の騒ぎで集まりかけていた人込みの中に、少女の姿が消える。光成は急いで体を起こすと、少女の背中を追った。
「おい、待てよ!」
たった今バイクにひかれそうになった二人がいきなり立ち上がり走り出したため、人混みが驚きでざわつく。しかし、光成はそんなことにかまっていられなかった。人込みをかき分け、少女の背中を再び追い始める。少女は参拝のために並んでいる列には並ばず、本殿への道を少し外れたところから林の中へと入って行ってしまった。その後を光成も追う。分け入った林の中は、しばらく来ていなかったにもかかわらずしっかりと記憶に残っていた。
けもの道が続く林。その奥に、昔の本殿があった。
けもの道を三十秒ほど走ると、少し開けた場所に出た。境内の方から祭りの光が差し込んでくるその場所は、うっすらとした闇が広がっていた。光成は足を止めて、ゆっくりと正面を見据える。そこには、すでに朽ちかけている、それでも立派な神社があった。
社の両脇には狛犬がおり、こちらを睨んでいた。その先には本殿へと続く石段と、本殿がうっそうとそびえていた。すでに蔦やカビで覆われてしまっているその木造づくりの建物は、それでも威厳をもってそこにあった。
だんだん目が暗闇に慣れてきたところで、光成は周りを見回す。先ほど追いかけていた少女の姿はどこにもなく、林の中を歩く足音も聞こえない。すこし落胆しかけた時、光成の目が石段の上でとまった。
そこには、二つの絵馬と、今買って来たばかりのようなたこ焼きが一パック、湯気を立てておかれていた。たこ焼きは誰かが食べかけたかのように、半分ほどがなくなっている。そのパックの両脇に、こちらを向いた絵馬が並んでいた。
光成は思わず石段に駆け寄って、絵馬を手に取った。二つのうち、一つには自分の名前と願い事が書かれている。まぎれもない、高校生の頃の自分の字だ。
「叶と、ずっと一緒にいれますように
池田 光成」
その夢がかなわなかったことの悲しさが胸に込み上げてくる。これを書いた時の自分は、その後すぐに、彼女を失う事を知らない。口の中に苦いものが広がるのを感じながら、光成はもう一枚の絵馬に視線を移した。
「光成が、幸せでいられますように
高槻 叶」
まぎれもない、高校生の頃の彼女の字で、彼女の願い事が書かれていた。あの時見ることができなかった、彼女の願い。どこまでもお人好しで、自分のことそっちのけで、相手のことを優先させる。そんな彼女が、自分は好きだったのだ。
しかし光成の目は、その先に書かれた言葉に吸い寄せられていた。
絵馬の端に書かれた、後から書きたしたような小さな文字。急いで書いたような走り書きのそれを見た瞬間、光成の息がひきつった。
「助けてくれてありがとう、光成」
一気に、目頭が熱くなった。
先ほど自分が追いかけていたあの少女。彼女が着ていたのは、まぎれもない、昔叶が来ていたお気に入りのコートだった。あの後ろ姿は、心の中に封印していた、昔の彼女そのものだった。
光成は、その場にうずくまって泣いた。声を上げ、絵馬を胸に抱きかかえながら、大粒の涙をこぼした。彼女を救えなかったときから封印していた、固い心の氷が、ゆっくり、ゆっくりと溶かされていく。死んですら尚、光成の幸せを願い続けてくれた彼女に、霊となって再び自分の前にあらわれてくれた彼女に、ただただ、感謝した。
それからしばらく、光成は一人で泣き続けた。
初詣を終えた翌日の、朝七時。光成は、ホテルの廊下に一人立っていた。
光成が落ち着いてから境内に戻ると、事故があったことを聞きつけた警察がおり、光成は当事者としてさまざまな質問を受けることになった。ただ質問だけで終わればその場はすぐに立ち去れたかも知れないが、事故を目撃した人の証言が曖昧で、警察は事実確認にかなり難航した。ある人は道に飛び出す少女を見たと言うし、ある人はそんな少女は見ていないと言う。ただ光成とバイクの運転手の二人は、確かに道に飛び出した少女を目撃していた。
最終的に、事故の当事者二人が少女を目撃していたことと、接触があったわけではなく事故として認めなくてもいいということが合わさって、光成は何事もなく解放された。それでも長引いた事実確認のせいで、大学のメンバーともどもホテルに帰りついたのが午前四時。眠りに就いたのが午前四時三十分だった。
おかげで今の光成はかなり眠い。しかし光成には、今ここにいなければいけない理由があった。旅行は今日までで、地元に残る光成以外のメンバーは今日の昼のバスで大学へと帰ってしまうことになっている。この機会を逃せば、次に会うのは冬休みが明けてからだ。それよりも先に、光成はしておきたいことがあった。
やがて扉を開け、廊下に出てくる人影があった。眠そうに眼をこすりながらも出てきたのは、昨日自分の身を一番案じてくれていたであろう辻村である。光成は辻村に手を挙げて軽く挨拶をした。
「おはよう。ごめん、眠いのにこんな時間に起こしちゃって」
「ううん、平気」
いつもよりテンションは低めだが、それでも辻村はしっかりと返事をする。どうやら意識はしっかりしているようだ。それを確かめてから、光成は目を閉じて一度深呼吸した。
(叶、やっと俺も、少しだけ前に進める気がするよ)
なぜかもう、自分の幸せを願ってくれていた彼女の笑顔は思い出せなかった。しかし、胸には確かに彼女のぬくもりが残っている。それを確かめてから、光成はゆっくりと口を開いた。
「辻村さん、俺と付き合ってください」
高校生のころ絵馬に書いた、自分と彼女の願い。その二つがやっと、叶った気がした。