上
上、中、下の三部構成になります。残り二部は早めに更新します。
目の前を、一人の少女が走っていた。
動きやすそうなコートを着て、左手には先ほど書いた絵馬を持ち、少女は人込みの中をすり抜けていく。その少女を、自分は追いかけていた。どんなに急いで走っても、少女の背中はとらえられない。
やがて少女が、一本の道に差し掛かかった。その道を、少女はなんのためらいもなく走りぬけようとする。当然だ。普段は車が走っている道だが、今はお祭り。その道は車両通行禁止になっていた。しかし、その段になって自分はあわてて叫んだ。これから何が起こるのか、どうなってしまうのか知っていたから。
「待って!」
叫んだ瞬間、道路に飛び出した少女の体が、一台のバイクにはねられ宙を舞った。
池田光成は、ベッドの上で勢いよく起き上がった。体は汗びっしょりで、たった今走ってきた後のように心臓は早鐘を売っている。光成は荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと周りを見て自分の状況を確認した。1DKの、一人暮らしをしている自室の中である。時刻は七時三十分。カーテンの隙間から日光が差し込み、すでに朝になっている事を告げていた。
(夢か……)
光成は額に手を当てて汗をぬぐいながら考える。あまりにも生々しい夢だった。目を閉じれば先ほどの光景が鮮明に浮かんでくる。お祭りの屋台と、たくさんの人。そして、自分の前を走る少女の姿。
光成はその記憶を振り払うように頭を激しく振った。ベッドから降り、スウェットを脱いで汗を拭く。もう一度時間を確認してから、急いで朝食の用意に取り掛かった。
今日から三日間、大学の友人と旅行に行くことになっていた。
目的地へと向かうバスの中、光成はぼんやりと窓の外を眺めていた。頭の中では、今朝見た夢が何度も繰り返されていた。追いつくことができなかった、少女。ひきとめることができなかった背中。
「おーい、池田。そんなボーっとしてどうしたぁ?」
そう隣から声をかけられ、光成は車内に視線を戻す。隣の席に座っている榊原公平が、笑顔でこちらの顔をうかがっていた。
「どしたどした? 故郷に帰れるからセンチメンタルにでもなってるのか?」
「せっかくの旅行が俺の地元ってことで落ち込んでるんだよ」
光成は苦笑いを浮かべながら答える。そんな光成に、ほれ、と榊原がポッキーの包みを渡してきた。
「そんな落ち込んでいる時はこれ。甘いもの食べると元気が出るぞぉ」
「女子か、お前は」
そういいつつも光成はポッキーを一本とって口にくわえる。チョコレートの甘みと香りが口の中に広がって、少しだけ、元気が出た気がした。
「なになに? 池田君元気ないの?」
そう榊原の向こうから声をかけてきたのは大高麻美。通路を挟んだ向こうの席から身を乗り出してこちらに話しかけてきた。
「せっかく地元に帰れるんだから、元気だしなよ。それとも、地元で会いたくない人でもいるの?」
少し下世話な笑み浮かべて大高が尋ねる。すると、光成の前の席から顔を出して会話に加わってきたものがいた。
「まさか、昔フラれた相手がいるとか?」
「そんなんじゃねえよ。つか、行儀悪いから辻村は前向いて座れよ」
「じゃあ、ポッキー一本頂戴」
ニコッと笑って、辻村菜摘が手を差し出してくる。光成はほいほいと返事をしながら、ポッキーを二本、辻村に手渡した。
「え? まさか二本もくれるの?」
「一本は隣の山本さんのぶん」
「え? なになにポッキー?」
そう言って座席の隙間越しに尋ねてきたのは山本祥子。こちらは辻村と違い、後ろを向いて席から乗り出してくるようなことはなかった。
「ありがとー。私ポッキー大好きなんだよね」
「お礼は俺じゃなくて榊原に言って。榊原のやつだから」
「おいおい、わかってるなら勝手にあげるなよー」
榊原がおどけて言う。いいじゃん別に、と光成は言って、榊原にポッキーの袋を返す。
「んじゃあ、配らないのも悪いから大高たちにも分けてやるか」
「サンキュー。待ってました。康孝の分ももらっていい?」
「いいけど、恋人同士、二人でポッキーゲームとかするなよ」
「せんわ!」
それまで黙っていた加納康孝が、大高の向こうの席から声をあげる。そのリアクションに、その場にいた全員が笑った。
光成たちは現在、光成の地元に向かう高速バスに乗っていた。大学二年生で同じ学部の光成たちは仲が良く、長期休暇のたびにどこかへ旅行に行くようになっていた。その目的地が今回、上京してきている光成の地元になったのである。
季節は年末。なんで旅行に行くのにわざわざ地元に戻らなければいけないのかと光成は反対したが、他のメンバーは全員一致で光成の地元に行きたがった。もともと観光名所もいくつかある光成の地元には有名な神社があり、年末の初詣に旅行するにはちょうどいい場所だったのである。どうせ年末年始には里帰りするのだから、旅行ついでに里帰りも済ませることができ一石二鳥だと押し切られた光成は、しぶしぶながら目的地に同意した。
しかし、光成にとってはもう一つ懸念することがあった。年末の初詣である。旅行の計画を立てる段階の話し合いでは、光成の実家の近くにある有名な神社にお参りに行くことになっていた。その場所に、当然光成も行く必要が出てくるのだが……。
(あの夢を見たのも、変に意識してる証拠なのかな)
瞼を閉じれば自然と今朝見た少女の姿が浮かんでくる。高校一年生になったばかりの大みそかの夜。二人で出掛けた神社のお祭り。二人で秘密の場所に行こうとし、かけだしたあの時。
そこまで思い出した時、光成は頭を振って思考を止めた。今はそんなことを考えている場合ではない。せっかくの旅行なのだから、楽しまなくては。
「おお! どうした池田。頭ぶんぶん体操か?」
「どんな体操だよ!」
榊原の冗談に、光成が突っ込む。車内にあふれる笑い声を乗せて、バスは光成の地元へと走った。