司教様の聖女様への執着が重すぎます〜物置部屋でうっかり秘密を聞いてしまった従者より〜
聖女ノエリア様と司教セレスタン様は、大変高潔な方である。
この一ヶ月、聖女様ご退位の巡礼にお供をして、しがない従者の僕が確信したことの一つだ。
……いや、確信していた、と言うべきだろうか。
何しろ今、僕はお二人が徹底して隠していた裏の顔を、祭服箪笥の陰で膝を抱えながら目撃してしまったのだから。
◇◇◇
事の起こりは、半刻ほど前までさかのぼる。
僕は聖堂の奥にある物置部屋で、その日使用した聖杯や燭台を磨くよう言い付けられていた。
しかし、正直なところ、色々ともう限界だった。
なぜなら、今日一日で、僕の世界のすべてがひっくり返ってしまったのだから。
——巡礼の締めくくりとなるミサの最中に、聖女様が大司教様を告発なさった。
この衝撃の知らせは、今頃国中を駆け巡っていることだろう。
大司教様は顔を赤くしたり青くしたりしたあと、衛兵たちに両腕を取られて退場していった。
そしてその時の僕はというと、阿呆みたいに口を開けたまま、手にしていた香炉を落とさないようにするだけで精一杯だった。
いまだに、どこかふわふわとしていて、状況を飲み込みきれない。
緩慢な手つきで聖杯を磨きながら、頭ではぐるぐると取り留めのないことを考えていた。
そうしているうちに、すっかり疲れ果ててしまった僕は、いつの間にか眠り込んでいたらしい。
ガタリと、建て付けの悪いドアが開く音で、一気に意識が浮上した。
居眠りがバレないよう、慌てて箪笥の陰に隠れた僕の目に入ってきたのは、白い法衣と、黒い法衣。
教会内で純白をまとえるのは聖女様だけで、金の縁取りがある黒い法衣は司教様のものだ。
どちらも、下っ端の僕なんかが声をかけることも恐れ多い方。
とてもじゃないが出るに出られなくなってしまい、全身からぶわっと汗が噴き出した。
「……終わりましたね」
聖女様がそう言って、長く息を吐いた。
祈りを捧げるときの、あの凛とした声とは少し違う。
どこか肩の力が抜けた声だった。
「ええ。大司教は明朝、教皇庁へ移送されます。あれだけ証拠が揃っていれば、言い逃れは不可能でしょう」
「ふふ、あなたに頼んで本当に良かった」
頼んだ?
僕は必死に体を小さくしながら、首を傾げた。
彼らは一体なんの話をしているんだ。
「最初にお話を持ちかけた時、本当は少し不安だったんです。大司教様を告発する手伝いなんて、断られてしまうのではないかと」
「私には断る理由がありませんよ」
「あなたらしい。誠実で、公平で……神への愛がとても深いのですね」
聖女様の声には、心からの敬意がこもっているように聞こえた。
しかし、“愛がとても深い”という言葉に、どこか引っ掛かりを覚える。
そしてすぐに、セレスタン様が巡礼中に見せた行動を思い出し、僕はその恐ろしさに体の芯から震え上がってしまった。
◇◇◇
聖女様の任期は、十年と決まっている。
新たな聖女が誕生すると、先代の聖女は最後の奉仕として各地を巡礼し、務めを終えるのだ。
ここまでは、この国の者なら誰でも知っている話である。
しかし、この巡礼にはもう一つ、隠された目的があった。
聖女を妻に迎えることは、何よりの誉れと言われている。
十年もの間神に仕え続けた乙女を迎えた家は、神の祝福を受けた家とみなされるからだ。
そして、ご退位の巡礼は、聖女様を娶りたい家門にとって、またとない求婚の機会でもあるわけで。
行く先々の街では、聖女様との謁見を願う名家の子息たちが、それこそ列をなして待ち構えていた。
もちろん、全員がお目通りを許されるわけではない。
一つの街に滞在できるのはほんの数日で、聖女様の体もお一つきりだ。
そのため、巡礼を取り仕切る大司教様が、聖女様に引き合わせるに相応しい方をお見極めになる。
そうして選ばれた方々の中から、聖女様ご自身が、生涯の伴侶をお選びになるのが通例だ。
——なんて、先輩たちからは、まるで吟遊詩人の恋物語のように聞かされていた。
けれども、実際にお供をしてみると、恋物語というよりかは、市場の競りか何かを見ているような気分だった。
一人目の求婚者は、港町を治める伯爵家の嫡男だった。
日に焼けた陽気な好青年で、海の向こうから取り寄せたという真珠の首飾りを聖女様に贈った。
聖女様はそれをたいそう喜んで、その場で首にかけていたのをよく覚えている。
あの聖女様が、あんなふうに頬を染めて笑うのを、僕はあのとき初めて見たからだ。
翌朝、首飾りは聖水入れの底に沈められていたが。
祝別だと、セレスタン様はおっしゃった。
海を渡ってきた品には何が憑いているか分からない、と。
しかし僕は、聖水入れに直接ものをぶち込むという祝別の仕方は、生まれて初めて見た。
そして、あれだけ聖女様に夢中だった伯爵令息は、出立の朝、見送りにも来なかった。
一体なぜ——
「港町では、随分早く自供を引き出してくださいましたね」
聖女様の言葉に、僕は一瞬、頭の中を読まれたのではないかと戦慄した。
しかし聖女様が語りかけた相手はもちろん僕ではなく、セレスタン様だ。
セレスタン様はため息まじりに答えた。
「あの男は首飾りを受け取ってもらえて、すっかり舞い上がっていましたから」
「そういえば、あの首飾り。今どこにあるのでしょうか?」
「処分させました。祝別をしたところ白濁してしまったので、おそらく良くない念がこもっていたのでしょう」
しれっと答えるセレスタン様に、思わず異議を唱えそうになるのを、すんでのところで堪える。
なんだ、良くない念って。
聖水漬けにする前に、現地の司祭様から言われていたじゃないか。
真珠は水につけると艶が消えて曇ってしまうから、思い直してくれって。
「まあ、残念。売れば今後の生活費の足しにでもなったでしょうに」
そんなセレスタン様の蛮行など知る由もない聖女様は、たいして残念そうでもなく、そう呟いた。
……生活費の足し?
きっと僕の聞き間違いだ。何しろ僕は、寝ぼけているのだから。
◇◇◇
二人目の求婚者は、国境の砦を守る辺境伯家嫡男だった。
彼は聖女様と、二人きりで遠乗りに出かける約束を取り付けていた。
しかし、約束の前日。
セレスタン様が国境を守る家門の者として苦悩も多かろうと、彼に懺悔を勧めたことで風向きが変わった。
懺悔のために人払いをされたのが昼前で、二人が部屋を出てきたのは日が随分と傾いてからだった。
出てきた男は、懺悔の前よりも十は老けて見えた。
僕とすれ違いざま、誰に言うでもなく「神は全てを見ておられる」と呟き、その足で遠乗りの取り止めを伝えに行ったらしい。
「それにしても、謁見の枠に金貨百枚だなんて! 払う方の気が知れません」
「聖女様の貴重なお時間を頂戴するのですから、そのくらい端金ですよ」
金貨百枚が端金か……さすが公爵家嫡男。セレスタン様は下っ端の僕とは住んでいる世界が違うようだ。
それにしても、大司教様はそれを全て懐に入れていたというのだから、きっと途方もない金額だったに違いない。
「そうですか? 二人目のあの男は、随分無理をしたそうですね」
「ええ……まさか国境の防衛予算を着服するだなんて、実に嘆かわしい」
セレスタン様は、敬虔な聖職者然とした口調だった。
しかし、チラリと覗き見た表情からは、男に対する関心など到底感じられなかった。
底冷えするような冷たさの中に、得体の知れぬ激情が潜んでいるような、なんともおぞましい瞳。
そんなセレスタン様の瞳を見つめながら、ぼんやりと懺悔を終えたあの男の顔を思い出す。
あれは、罪の許しを得た人間の顔つきではなかった。
もっと、何かこう。深淵に触れてしまったかのような——
「いろんな方がおりましたが、とりわけ大司教様の甥御様には悪いことをしましたわ」
聖女様の声に、ハッと現実に引き戻される。
「あれも神がお与えになった試練です」
「だといいのですが……お相手のご好意を利用するだなんて、なんだか悪女にでもなった気分で」
聖女様はそう言って悩ましげにため息をついたが、不思議なことに少しも悪びれた感じはしない。
確かに、甥御様は聖女様に夢中だった。
最初の謁見でこそ、叔父である大司教様の後ろでオドオドと視線を泳がせていたが。
聖女様が、甥御様を見つめながら頬を染めて笑った途端、目に見えて顔つきが変わったのだ。
——今にして思えば、あれは伯爵令息が首飾りを贈った時の笑みと、寸分違わぬものだった。
翌日、甥御様は抱えきれないほど大きな花束を持ってきて、さらに次の日には聖女様に捧げる詩を詠み始める始末。
お世辞にも上手いとは言えない出来だったけれども、聖女様への思いは痛いほど伝わってきた。
そして、巡礼最終日の前夜。
下っ端らしく雑用に勤しんでいた僕は、甥御様がペンを手に机に向かっているのを見た。
その隣で、聖女様は甥御様の手にそっと真っ白で華奢な手を重ね、こう囁いていた。
「隠し事はなしにしましょうね。私たちは明日、夫婦になるのですから」
「ふ、夫婦に……!」
「ええ。だから、大司教様とどんなお約束をなさったのかも、残らずここに書く必要があるのです」
甘い声でそう告げる聖女様に、甥御様は耳まで真っ赤にして、何度も頷いていた。
僕はてっきり、婚約に関する書類でも書いているのだと思っていたが——
まさに今日行われた聖女様還俗のミサで、彼女が掲げた数枚の書類の中の一枚。
甥御様があの時お書きになった書類が、大司教様を失脚させる決定打となった。
幸福な未来のために書いたはずの文字が、叔父を追い詰めるために読み上げられている間、甥御様は、ぽっかりと口を開けて聖女様だけを見つめていた。
そんな彼の様子に気づいた聖女様は、やはり頬を染めたあの笑みを甥御様に向けられて——その直後、甥御様は卒倒してしまったのだ。
「聖女様を利用し、不正に多額の献金を着服していた叔父を悔い改めさせる手伝いができたのです。彼もきっと本望ですよ」
「それもそうですね。甥御様も、大司教様の陰で随分と甘い汁を啜っていらしたようですし」
聖女様は、至極あっさりと頷いた。
「セレスタン様から聞いた時は、とても驚きました。まさか、賭け事の借金まで全部肩代わりしてもらっていただなんて……贖罪の良い機会になりましたね」
その口ぶりは、今日は晴れて良かった、程度の軽さだ。
甥御様に対する関心など、微塵も感じられない。
僕は箪笥の陰で、こっそり自分の頬をつねってみた。が、痛い。どうやら夢ではないらしい。
それきり、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
「……長かったわ」
ポツリと、聖女様が呟いた。
先ほどまでの軽さが嘘のように、ずしりと重たい声だった。
不安になった僕がそっと覗き込むと、聖女様が首元に手をやるのが見えた。
そこにかかっているのは、聖女の証である銀の十字架だ。
聖女就任の日に教皇様から直々に授けられ、どんな時も肌身離さず身につけていなければならないとされる、聖女様の象徴。
聖女様はその鎖を指に絡めると——躊躇いもなく引きちぎった。
そして、ポイ、と。
よりにもよって、僕が隠れている箪笥の上に放り投げたのだ!
頭上で小さく何かが跳ねる音がする。
僕は悲鳴を飲み込むために、慌てて両手で口を塞いだ。
「これでもう、誰も私を縛れない」
聖女様の声は、晴れやかだった。
「セレスタン様。私が大司教様を告発したのは、信仰のためでも、正義のためでもないのです」
「……伺っても?」
「大司教様が選んだ方と結婚したら、還俗したところで一生教会に縛られてしまうでしょう」
聖女様は反吐が出る、とでも言いたげに、ふん、と鼻を鳴らした。
……鼻を鳴らした? 聖女様が?
「冗談じゃないわ。だって十年よ!? 十年間、毎日夜明け前に起きて祈って、笑いたくもないのに微笑んで、清貧だとかで食べたいものも我慢して。それがやっと終わるっていうのに、この先もずっと先代のように“元聖女様”であることを求められるだなんて、死んでもごめんだわ」
僕がこの教会にやってきてから今まで見てきた、慈愛に満ちた聖女様は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
いや、そもそもそんなもの、最初から存在しなかったのかもしれない。
「だから、神の名のもとに、大司教様を潰すことにしたんです。そうすれば癒着相手もまとめて道連れ。私を縛る結婚相手もいなくなるでしょう?」
そう言って、聖女様は楽しそうに笑った。
それは、いつもの全てを包容する微笑みでも、あの頬を染めた笑みでもない。
まるで、悪戯が成功した子どものような顔だった。
「……そうでしたか」
セレスタン様の声は、ゾッとするほど平坦だった。
それなのに、なぜか僕には、込み上げる笑いを堪えているように聞こえた。
「では、私も貴女に告白しましょう」
「告白?」
「私がなぜ貴女に協力をしたのか。……私は、誠実でも公平でも、ましてや神への愛が深いわけでもありません」
静かにそう語るセレスタン様の姿に、今すぐこの場から逃げ出したくなる。
これ以上聞きたくない。
これ以上聞いたら、きっと生涯忘れることの叶わない悪夢になってしまう……!
そんな僕の気持ちなど知る由もないセレスタン様は、容赦なく続けた。
「貴女を他の男に娶らせないためです」
「私を……?」
セレスタン様の言葉に、聖女様の顔がこわばる。
もちろん、僕の顔もこわばった。
聖女様は思わず、といった様子で一歩下がるが、セレスタン様は離れた分だけ距離をつめた。
「金で貴女を手に入れようとした者たちは、もう誰も聖女を娶る資格を持っていません」
「……ええ。不正献金に関わった以上、何より教皇庁が許さないでしょう」
この国で、教皇庁の意向は絶対だ。
国王ですら逆らうことが難しいのだから、高位貴族だろうと教皇庁が否と言えばそれに従うしかない。
僕はそこでふと、思い出した。
——行く先々の街では、聖女様との謁見を願う名家の子息たちが、それこそ列をなして待ち構えていた。
「この国で聖女を娶ることができる家柄のうち、枠を買わなかった家はたった一つです」
部屋が、しんと静まりかえった。
暴れる心臓の音が聞こえないのが、奇跡としか思えない。
僕は胸元をぎゅっと握りしめ、必死に呼吸を抑えた。
枠を買わなかったたった一つの家。
公爵家嫡男であるセレスタン様。
お願いです神様。
今すぐ僕を眠らせてください!
「……セレスタン様のご生家は、代々十五になる年から三年間、教会で奉仕をする慣わしがあるんでしたね」
「ええ。我が公爵家では、家督を継ぐ男子にそのような義務がございます」
「それで、セレスタン様は聖職につかれて今年で——」
「八年です」
「それはなぜか……伺っても?」
どうしてこの人たちはこんなにも回りくどい会話をするんだ!
眠りたいという必死の祈りも聞き入れられず、恐怖心をじわじわと煽ってくる二人の会話を聞かされ、僕の繊細な心は限界寸前だった。
まさかこれは、仕事をサボって居眠りをしていた罰なのだろうか……?
「ノエリア様。本当は、とっくにご存知なんでしょう?」
だから! 意味深な言い回しはやめてください、セレスタン様!
セレスタン様の浮かべる笑みは、そのお顔がいっそ神々しいほど整っている分余計に恐ろしい。
あんな顔を真正面から見なければいけない聖女様に、正直同情してしまうほどだ。
「あなたが私に想いを寄せてくださっていることを、ですか? でしたら、さぞ失望されたでしょうね。私の本心をお聞きになって」
「失望?」
聖女様は、セレスタン様のお気持ちをご存知だった?
まさかの答えに驚く僕とは対照的に、セレスタン様は極めて冷静なまま、こてりと首を傾げている。
「ふ、」
セレスタン様が小さく、吐息を漏らした。
そして——
「ふふ……っ、はは、ははは!」
笑った。
肩を震わせ、口元を手で覆い、それでも堪えきれないとでもいうかのように、声をあげて。
僕はこの教会に来てから、セレスタン様が声をあげて笑うところなど、一度たりとも見たことがない。
それは、聖女様も同じだったのだろう。
先ほどまでの余裕はどこへやら、大きな目をさらに見開いて固まっている。
「失礼。……失望など、するはずがありません」
ひとしきり笑った後、セレスタン様は目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「覚えておいでですか、ノエリア様。貴女が聖女になられて、三年目の春のことです」
「……なんのお話でしょう」
「シスター長に、祈りの姿勢がなっていないと叱られた日の夕刻。聖堂裏の井戸のそばで」
何か思い当たることがあったのか。
聖女様の肩が、びくりと跳ねた。
「貴女は首から十字架を外すと、思い切り腕を振りかぶって地面に叩きつけていらした」
「……記憶にございませんね」
「あの時、私は思ったのです。なんて素敵な方なのだろう、と」
いや、どこが!?
思わず口に出しかけて、僕は慌てて自分の拳を口に突っ込んだ。
神聖な聖女の証を地面に叩きつける方の、一体どこに素敵さを見出す余地があったというのか。
「それまで私の周りにいたのは、腹黒い本音を神の名で覆い隠す者ばかりでした。誰も彼もが、敬虔な顔をしながら利権を追い求め、金勘定をして」
セレスタン様は険しい顔をしている聖女様を見つめ、柔らかく目を細めた。
「そんな中で、貴女は人目を忍んでいたとはいえ、荒々しいほどに怒りを露わにしていた……」
「それで? 私の無様な本性など、すでに知っているとおっしゃりたいのですか?」
「まさか! あれ以来、私は貴女から目が離せなくなりました。そして、貴女の隠された素顔を垣間見る度に、ますます強く惹かれていったのです」
聖女様はセレスタン様から目をそらさぬまま何歩か下がり、ついにその背中が壁に当たった。
……僕の隠れている箪笥の、すぐ近くの壁に。
なんでこっちに来るんですか!?
「とはいえ、貴女は十年の任期を課せられた聖女様。ですから、待ったのです。貴女が還俗して——あの日見せた素顔を、私に向けてくださるのを」
セレスタン様はゆったりとした足取りで距離を詰めると、聖女様の顔のすぐ横の壁に、そっと手をついた。
乱暴さは一切ない。
けれども、まるで逃さないとでも言っているかのようなその姿に、なぜか僕が涙目になってくる。
「先ほどの貴女は、あの日と同じ顔をしていらした。……失望するどころか、私が今、どれほど高揚しているか。お分かりになりますか?」
普段の禁欲的なあの方はどこへ行ってしまわれたのか。
セレスタン様は熱に浮かされたような顔で、聖女様だけを見つめている。
「……つまり」
少しの沈黙の後、聖女様が口を開いた。
「私は、教会という檻から抜け出したつもりで、あなたという檻に自ら入っていた、ということでしょうか」
「檻になるつもりはございません」
「でも、逃すつもりもない」
セレスタン様は答えなかった。
そこは否定してくださいよ、怖いから!
「出ていかれるのでしたら、止めません。……追いかけますが」
もう勘弁してください……
僕は漏れそうになる悲鳴を必死に堪えながら、心の底からそう願った。
お可哀想に……流石の聖女様も、これには震え上がっているだろう。
そんな僕の予想は、しかし、あっさりと覆された。
「ふ、ふふっ……あははは!」
聖女様はさも可笑しげに、腹を抱えて笑い出した。
あまりの恐怖におかしくなってしまったのだろうか?
分かります。
「あなた、本当に私のことが好きなのね」
「いえ、愛しています」
食い気味に答えるセレスタン様に、やはり聖女様はクスクスと小さな笑い声をあげている。
「公爵家嫡男で、教皇庁にも顔がきいて、私のために慣例を破って八年も教会に残るほど執念深い。そして何より、聖女ではない私の素顔を愛する変わった方」
「……ええ」
「私が欲しかったのは、“元聖女様”という肩書きに縛られない人生です。セレスタン様、あなたの隣なら、それが手に入る」
セレスタン様が息を呑んだのが分かった。
聖女様——いや、ノエリア様は、その眩しいほど白い手を伸ばしたかと思うと、セレスタン様の黒い法衣の胸元を掴んだ。
「いいでしょう。それならば、あなたに私を娶る権利を差し上げます。代わりに私は、清貧・従順の誓いを破る権利をいただきましょう」
「喜んで。八年待ったのです。今更貴女に差し出せないものなど、何一つありません」
嘘だ。
逃げる自由だけは、絶対に差し出す気がないくせに。
僕は耳を塞ぎながら二人から目を背け、そんなことを考えていた。
……最初からこうしておけば良かった。
◇◇◇
それから二人が何を話していたのかは、分からない。
ひたすら自分の存在を消すことだけに意識を集中させていたら、やがて部屋に明かりが差し込み、再び暗くなった。
どうやら、二人はついに扉を開けて出て行ってくれたらしい。
「つ、辛かった……! もう二度と居眠りなんてしないぞ!」
カチカチに凝り固まった体をほぐすため、立ち上がってぐっと伸びをする。
そして、すっかり油断した、その時。
「ルカ」
心臓が、口から飛び出すかと思った。
「聖杯の手入れは、明日でいい。今夜はもう休みなさい」
振り返れない。
振り返ったら、多分僕は死ぬ。
やがてセレスタン様が出ていく音が聞こえても、足音が聞こえなくなるほど遠くへ行っても。
僕はその場から動くことができず、箪笥の上に置き去りにされた銀の十字架を、ただじっと見つめていた。
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