第1話 最愛のお兄様が婚約? そんなこと絶対ありえませんわ!
公爵令嬢エミリア=ド=ブランティーヌは、完璧な笑顔を浮かべていた。
その手の中で、扇子がみしりと鳴った。
「お兄様、イザベラ様。本当に、とってもお似合いのお二人ですわ」
パキリ。
扇子の骨が一本、折れた。
バスティアン伯爵邸の大広間。シャンデリアの光の下、壇上には最愛のお兄様――ジュリアスが立っていた。純白の礼服に身を包み、いつにも増して神々しい。背後には薔薇と光の粒まで見える。
その隣には、銀色の髪の令嬢がいた。淡い金の刺繍が施されたドレスをまとい、しとやかに微笑むイザベラ=フォン=バスティアン伯爵令嬢だ。
誰が見てもお似合いの二人だった。
招待客たちも、うっとりとため息をもらしている。
(お似合い? どこがですの。どこがですの!!)
パキリ。
と、二本目。
隣では父フィリップが、胃のあたりを押さえながら、青い顔でこちらをうかがっていた。エミリアはそれには気づかないふりをして、ひたすら愛しの兄に視線を送る。
(お兄様、どうかご安心くださいませ)
エミリアは心の中で、兄に優しく語りかけた。
(このふざけた婚約――今宵、わたくしがぶち壊して差し上げますわ)
また、パキリ。
三本目の骨が、音を立てて折れた。
――話は、一週間前にさかのぼる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「え、えええ――!? お、お、お兄様が――こ、こ、婚約ぅぅぅ!?」
放課後の教室に、素っ頓狂な声が響き渡った。ついでに椅子が一脚、けたたましい音を立てて床に転がった。
アストラ大陸の中央に位置する聖リディア王国。その随一の名門校である王立ウィンベル学院。
高級貴族の子弟ばかりが通うこの学院の中でもひときわ目立つ超お嬢様、ブランティーヌ公爵家の令嬢エミリア=ド=ブランティーヌは、同級生かつ親友のマリア嬢の話を聞いて、思わず席から飛び上がった。
「す、すみません、マリア。あなた今、確かにそうおっしゃいましたわよね?」
つんざく叫び声に、マリアが片手でそっと耳を押さえる。窓の外では校舎の屋根から鳥が一斉に飛び立っていった。
いつものエミリアとはまるで違う。お嬢様に到底ふさわしいとはいえないその所作に、マリアはただ戸惑い、目を丸くするしかない。
「え、ええ。確かにそう申し上げましたわ。でもエミリー、少々お声が大きいかと……」
「あ、あら、ごめんあそばせ、マリア」
エミリアは、自分の不作法に気づき、はっとして顔を赤らめた。教室をきょろきょろと見回す。二人の他は誰もいない。
それを確かめてから、何事もなかったように椅子を持ち上げ、席に座り直した。一拍置き、優雅に髪を整えてから軽く咳ばらいをし、口を開いた。
「あまりに突然のお話で、少しばかり取り乱してしまいましたわ」
「突然のお話……?」
マリアが小首をかしげる。
「ということはエミリー。本当に何もご存じなかったのですね?」
「今の今までまったくの初耳ですわ。ま、まさかジュリアスお兄様が婚約だなんて……」
「まあ、学院は朝からそのお話でもちきりですのに」
実際、今朝から教室や廊下は騒がしかったような気がした。
「ねえ聞いた。ジュリアス様が――」
「うそ、わたくし今日から喪に服しますわ――」
本当は、そんな会話があちこちで交わされていた。だが、みんな恐れをなし、エミリアに面と向かって、その件を尋ねることはしなかったのだ。
「お話だけが独り歩きしている状態でしたから、これはいけないと思いまして、妹君であるあなたに確かめた次第なのですが……エミリーがご存じないということは、やはりまったく根も葉もない噂ということなのかしら」
「そ、そうだと思いますわ。多分――」
エミリアはずいと身を乗り出した。
「いいえ、もちろん! 絶対に! 100パーセント!」
一五歳のエミリアにとって、二歳年上の兄ジュリアスは憧れであり、自慢の存在だった。
眉目秀麗。文武両道。常に学年トップ。名門ブランティーヌ公爵家の跡取り息子であり、学院じゅうの女子の視線を集める、将来を約束された非の打ちどころのない貴公子。
つまるところ、世界でいちばん素晴らしいお兄様。いずれは、国内外の有力者から、娘や孫を娶ってほしいという申し込みが殺到するに違いない。
それは名門貴族の家に生まれた者の、運命である。エミリアも公爵家の令嬢として、一応そのことは理解していた。
……一応。
しかし、それはまだ遠い未来の話。なにしろジュリアスはまだ未成年。今はウィンベル学院の一男子生徒にすぎないのだ。なのに、最愛の妹たるこのわたくしの知らないところで婚約の話が進むなど――
(ありえない。絶対にありえませんわ!)
頭をぶるぶる振って否定するエミリア。それでも、一番肝心の質問をせずにはいられなかった。
「で、その、あくまで噂だという前提でうかがっておきますが、お兄様の――こ、婚約のお相手というのはいったいどなたですの?」
「それが……エミリーは余計に驚かれるかもしれませんけれど」
マリアが目を伏せた。教室に短い沈黙が落ちた。
「――イザベラ様です。あの白薔薇クラスの。イザベラ=フォン=バスティアン伯爵令嬢」
その名を聞いた瞬間、エミリアの体内に強い衝撃が走った。
イザベラ!! ――あのイザベラが!?
エミリアがショックを受けるのも当然だった。ブランティーヌ家とバスティアン家はリディア王国の名門貴族の中でも最大のライバル。古くから争っている仇敵の間柄だ。
エミリアとイザベラ――
廊下ですれ違えば互いに笑顔で挨拶を交わす。「あら、ごきげんよう」「ごきげんよう」
だが、その度に、二人の視線の間には激しい火花が飛び散っているのだった。もちろん、それだけでは収まらない。成績、スポーツ、交友関係――両家の令嬢である二人は、学院内で、何かにつけて競い合っていた。
「よりによって、ですわ……」
そのイザベラが最愛の兄ジュリアスの婚約相手だというのだから、もう青天の霹靂という他はない。
「あの、エミリー。どこかお加減が悪いのではないですか? さっきから急にお顔の色が悪くなったような気がします」
ますます顔面蒼白になったエミリアを見て、マリアが心配そうに声をかける。エミリアは消え入りそうな声で答えた。
「だ、大丈夫。突然のお話に少々驚いてしまっただけですわ……あのマリア。申し訳ないですが、わたくしは先に失礼してお家に帰らせていただこうかと思います」
「それがよろしいですわ。是非そうなさってください」
「ありがとうマリア。……そ、それで、兄の婚約の件は、わたくしが事実を確認したのち改めてご報告いたしますね」
「ええ、でも、どうぞお気になさらないでください。あなたがご存じないのならきっとただの噂に違いありませんもの。――そうですわ。ご学友のみなさんにも、わたくしからそう言っておきますわね」
「そうして下さると非常に助かりますわ。――では、そろそろ。表に馬車と御者を待たせておりますので、これで失礼いたします……」
エミリアはそう言い残すと、逃げるように教室を出た。
そして扉を閉めた次の瞬間、栗色の美しく長い髪を振り乱しながら、廊下を一目散に走るエミリア。
すれ違った生徒たちが風圧でよろけ、手に持った本をどさっと廊下に落とす。
「い、いまの……エミリア様?」
「まさか。あの方が廊下を走るなんてありえませんわ」
エミリア=ド=ブランティーヌ、一五歳。生まれて初めての校則違反であった。
――天使の令嬢。
それがウィンベル学院の生徒たちの間で囁かれる、エミリア=ド=ブランティーヌ公爵令嬢の二つ名だ。
最上級の名門貴族の家に生まれたエミリアは容姿端麗にして心も優しく、いつでもみんなの中心にいる人気者。けれど本人はいたって控えめで、どんな身分の者に対しても分け隔てなく接し、決して驕らない。
気心の知れた相手には多少お転婆な振る舞いをすることもあるが、けがれを知らない天真爛漫なその姿は、まさに地上に降り立った天使のよう。
しかし――そんな完全無比なお嬢様エミリアにもたった一つ、それだけで何もかもあらゆるすべてをぶち壊しかねない、大きな欠点があった。
それは、二歳年上の兄ジュリアスを好きで好きで好きすぎること。
しかもただの“好き”ではない。兄妹愛の範疇を超えた、時として危険な領域に達するくらいの愛情と熱情を、エミリアは兄ジュリアスに対して抱いているのだった。
彼女の私室には、ジュリアスの肖像画が堂々と飾られている。
その前には、兄が摘んできてくれた花で作った押し花の栞。兄が使っていたお古の万年筆。三年前の茶会で兄が使ったティーカップ――などなど、ジュリアスにまつわる小物が、祭壇のように並べられているのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
駆け足で学院の校舎を飛び出したエミリアは、そのままのスピードで正門に続く広い石畳の道を走り、迎えの馬車が待つ正面広場へ向かった。
(嘘。嘘。絶対ウソ!! お兄様が婚約だなんて――!!)
最愛の兄の婚約という、出どころ不明の(と信じたい)噂に、エミリアの心はひどくかき乱され頭はぐちゃぐちゃだった。
とにかく、一刻も早く屋敷に戻って、真実を確かめなくては――
エミリアは広場に着くと、ブランティーヌ公爵家の紋章が描かれた二頭立ての馬車のドアを勢いよく開け、座席に飛び乗った。
だがそこには、エミリアの世話係のメイドであるリズが、怖い顔をして待っていた。
「エミリア様っっ!!」
「あら、リズ……今日はいましたのね」
リズはエミリアの帰りが遅くなる日には、必ず屋敷から馬車で迎えに来る。それは単なる付き添いというよりも、年頃のエミリアに変な虫が寄りつかないように見張る監視役としてだった。
「エミリア様。そんなに乱暴に扉をお開けになるなんて、はしたないにも程があります。お母様がお知りになったらさぞやお嘆きになるでしょう」
リズの正確な年齢をエミリアは知らないが、たぶんアラサー。
素顔はかなりの美人なのに、いつも化粧っ気はないし、愛想もない。お堅いお局様タイプだ。
リズったらわたくしのことを心配してくれているのは、分かるのだけれど……。
屋敷に仕えるメイドたちとは仲の良いエミリアも、この自分の母親の忠実なしもべでもあるリズのことだけは苦手だった。
しかし、今は非は自分にあると思い直し、エミリアは姿勢を正して頭を下げた。
「ごめんなさい。今度から気をつけますわ。ですがどうしても気になることがあって。あのね、リズ、ジュリアスお兄様の――」
と、そこでエミリアは言葉を止めた。
目の前のリズの顔が、鉄仮面のように見える。
……だめだわ。この超堅物に確かめたところで本当のことを話すはずがない。
「ジュリアス様がいかがなされましたか?」
「……いえ。なんでもありませんわ」
エミリアは小さくため息をついた。
と、その時、御者台のほうから聞き慣れない少年の声がした。
「えーと、お二人さん。そろそろ出発していいですかね」
「――え? あなたは……?」
「どーも。俺、アルトって言います。よろしくぅ!」
御者台に座ったまま振り返ってそう挨拶したのは、見慣れない、しかし驚くほどの美少年だった。
帽子からはみ出るウェーブのかかったブロンドの髪が細面の顔を半分近く隠し、その間から覗く澄んだ青い瞳はまるで宝石のように輝いている。
身なりは質素だが、そんなことをまったく気にさせない圧倒的な美しさだ。年頃の女の子なら、一目見ただけでたちまち心を奪われてしまうに違いない。
とはいえ、エミリアに限って言えばそんな心配はまったく無用だった。
理由は単純。
エミリアの眼中には、たとえ相手がどんなイケメンであっても、兄ジュリアス以外の男は一切入らないからだ。
実際今も、彼女の目にはアルトの顔がのっぺらぼうのかかしとしか映っていない。
「なんですかアルト、その挨拶の仕方は! 御者台を下りてちゃんと帽子を取ってお嬢様にご挨拶なさい! 使用人の分際で不躾にもほどがありますよ!」
我に返ったリズが、真っ赤な顔で叱責する。だがエミリアは、手で彼女を制した。
「お待ちなさい、リズ」
そしてアルトに向き直り、柔らかく微笑む。
「アルトさん。初めまして。わたくしはエミリア=ド=ブランティーヌと申します。どうかよろしくお願いしますね。――ところで、今朝わたくしを送ってくださった御者のゴードンさんはいったいどうなさったのかしら?」
ゴードンはエミリア専属の馬車の御者だった。かなりの年配で、御者歴何十年のベテランだ。
「ああー、それ俺のオヤジね」
アルトはぶっきらぼうな口調で応えた。
「あいにくだけど、今朝屋敷に戻って馬の手入れをしてたらぎっくり腰をやっちゃってさ。ぜんぜん動けねーから代わりに俺が御者を引き受けたってわけ。あ、エミリア様ご安心を。馬の扱いにかけては俺はオヤジには負けないから」
「まあ、ゴードンさんがお腰を……。それは大変ですわね。あとでお見舞いも差し上げますわ」
「大丈夫大丈夫! 腰では死にゃあしません。それじゃ、さっさと行きますよ!」
アルトはそう叫ぶや否や、細身の鞭で黒鹿毛の馬の尻を強かに打った。
馬は悲鳴に近いいななきを上げて、いきなり全速力で走り出す。
「きゃああああ!!」
思わず悲鳴を上げたのはエミリア――ではなく、メイドのリズだった。
馬車は街道を土煙とともに突き進んだ。
「どいたどいたァ!!」
前をゆく他家の馬車を内側から強引に抜き去る。抜かれた馬車の窓から顔を出した令嬢の巻き髪が、風圧で真後ろに吹き飛んだ。
車内では、リズが天井に頭を打ちつけそうになって、慌てて叫んだ。
「ア、アルト! 速度を落としなさい! 落としなさいと言って――」
「いやーいい馬だ。オヤジが乗ってるときより速く走ってるじゃねーの?」
車輪が石に乗り上げ、馬車が大きく跳ねる。リズの体が宙に浮き、金切り声を上げるが、御者台のアルトは鼻歌まじりだった。
一方のエミリアはといえば、どんなに馬車が揺れても平然とし、座席の中央で腕を組んだまま微動だにせず、目だけを爛々と光らせていた。
頭の中が『お兄様の婚約の真偽』を確かめることでいっぱいだったのは、言うまでもない。
(お兄様お兄様お兄様お兄様――!)
アルトの暴走運転の甲斐あって、馬車はいつもよりずっと短時間で、広大な敷地に建つブランティーヌ家の美しいシャトーに着いた。
到着というより、激突に近い停まり方だった。
手綱を思いきり引かれた馬車が前のめりに急停止し、車内ではリズだけが前方の壁にぶつかった。
「ぐぼっ」
くぐもった声を漏らすリズ。エミリアはその時にはもう、涼しい顔で馬車の扉に手をかけていた。
「……エ、エミリア様、お待ちください!!」
痛みをこらえて叫ぶリズの声も、もはや耳には入らなかった。
エミリアは馬車を下りると、さっき注意されたことも忘れて、屋敷の入口へと駆け出した。




