理由なんか要らない
最初に目を引いたのは、断罪の夜だった。
セシル・レヴィアンスは舞踏会の壁際で、退屈な時間をやり過ごしていた。人混みが嫌いだった。貴族の社交辞令が嫌いだった。母を失って以来、この手の場に意味を見出せなくなっていた。
王太子が悪役令嬢を断罪する——そんな芝居に興味はなかった。
だが。
指を突きつけられた令嬢は、泣かなかった。逆上もしなかった。
冷静に事実確認を求め、微笑みすら浮かべて——退場した。
まるで、この場面を知っていたかのように。
廊下で声をかけたのは、衝動だった。
「なぜ笑わなかった」と聞いた。
令嬢は動揺していた。膝が震えていたのに——それを隠す演技が上手かった。あまりにも上手すぎて、長年の訓練ではなく「必要に迫られて身につけた」類の技術だと感じた。
名前はヴィオラ・クレスティア。それ以上のことは知らなかった。
翌日から、ヴィオラの行動を観察し始めた。
理由は——自分でもわからなかった。ただ、この令嬢は他の人間とは違うと感じた。
行動パターンが変わっていた。通学路を日替わりで変える。特定の場所を避ける。特定の時間帯に特定の人物に近づかない。
まるで——先の展開を知っている人間の動き方だった。
図書室で隣に座ったのは、実験だった。
ヴィオラは驚いた。驚いたが——嫌がらなかった。
それが意外だった。大抵の人間は、セシルの隣に座られれば緊張するか、避けるか、媚びるかのどれかだ。ヴィオラは困惑していたが、しばらくすると自然に本を読み始めた。
隣にいることを、受け入れた。
それだけのことが——なぜか、胸に残った。
詩集を貸したのは、もう一つの実験だった。
栞にメモを挟んだ。「台本の外にいる人間の話が書いてある」と。
ヴィオラがどう反応するか見たかった。「台本」という言葉に、何かの反応があるはずだと思った。
翌日、ヴィオラは詩集を抱えて図書室に来た。栞の文字を何度も見返した形跡があった。ページの角が微かに折れていた。
——読んでくれたのだな。
胸が温かくなった。温かくなったことに、自分で驚いた。
母の命日に、ヴィオラに過去を話した。
なぜ話したのか——これも、理由がわからなかった。
だが、ヴィオラは泣かなかった。同情の目も向けなかった。ただ「話してくれてありがとう」と言った。
そして——「攻略wiki」と口走った。
攻略。wiki。聞き慣れない言葉だった。
ヴィオラは慌てて誤魔化したが、その瞬間の表情が——素だった。令嬢の仮面が外れた、地の表情。
面白い、と思った。
この女は、何かを隠している。何かを知っている。そして、その知識を使って何かを避けている。
だが——そんなことは、どうでもよかった。
ヴィオラが何を隠していようと。何を知っていようと。
セシルが見ていたのは——隣に座って本を読む横顔。栞のメモに顔を赤くする耳。過去を聞いて「ありがとう」と言う声。
ヴィオラという人間そのもの。
審問の日。
聖女の嘘の証言がヴィオラを追い詰めていると聞いて、足が勝手に動いた。
審問室に入り、聖女に問い詰めた。「何時に」「どこで」「具体的に」。
聖女は答えられなかった。嘘が崩れた。
ヴィオラを庇った。「この女に手を出すな」と言った。
声が冷たくなっていた。自分でもわかった。
あの聖女が二度とヴィオラに手を出さないように——そういう声を出した。
審問室を出た後、ヴィオラが背中を見ていた。
振り返りたかった。でも——まだ、言葉にできなかった。
今日。
放課後の図書室で、ヴィオラが本を読んでいた。
セシルは隣に座った。もう実験ではない。
「セシル様。——ありがとうございました。審問の日」
「礼はもう聞いた」
「何度でも言います」
「一度で十分だ」
沈黙が流れた。居心地のいい沈黙だった。
ヴィオラが本のページをめくる音。窓から差し込む午後の光。
——ああ。
わかった。
理由なんか要らなかった。
この女の隣にいたいと思った。それだけのことだった。
「ヴィオラ」
「はい?」
「お前はいつも、何かを避けているように見える。何かを知っているように見える。お前の秘密が何であれ——俺には関係ない」
「セシル様——」
「理由なんか要らない。俺がお前のそばにいたいだけだ」
ヴィオラの目が大きく見開かれた。
耳の先が赤くなるのが見えた。
何も言い返せないヴィオラを見て——不覚にも、笑ってしまった。
セシル・レヴィアンスが、十年ぶりに——声を出して笑った。




