攻略不可の理由
舞踏会から三日が経った。
エステルが転生者だという確信は、日に日に重くなっていく。
でも、今日は別のことが頭にあった。
セシルが、図書室に来なくなった。
三日間。一度も。
別に気にしているわけではない。あの人が図書室に来ようが来まいが、私のフラグ回避には関係ない。
——関係ない、はず。
「ヴィオラ様、今日も図書室ですか?」
「本を返すだけよ」
セシルから借りた詩集。まだ返していなかった。
図書室の扉を開ける。静かな空間。午後の光が窓から差し込んでいる。
セシルの席は——空だった。
やはりいない。
詩集を元の棚に戻そうとして、手が止まった。この本、本当に棚の本だったのだろうか。もしセシルの私物だったら、棚に戻すのは違う。
悩んでいると、図書室の奥から声がした。
「探したぞ」
セシルが本棚の陰から現れた。いたのか。
「セシル様。三日間、お見かけしなかったので——」
「見かけなかった、とは。探していたのか」
「い、いいえ。ただ、本をお返ししようと——」
「ああ。その詩集は俺のものだ。返してくれ」
私物だった。やっぱり。
詩集を手渡す。セシルの指が、一瞬だけ私の指に触れた。冷たくて、硬い指だった。
「……ここ数日は別の場所にいた。少し——考えることがあってな」
セシルが窓際の席に座った。いつもの場所ではなく、奥まった隅の席。日が当たらない場所だ。
私も近くの椅子に腰を下ろした。
沈黙が流れた。セシルの横顔を見ると、いつもと違う——少しだけ、疲れた表情をしていた。
「セシル様。もし差し支えなければ——何があったか、聞いてもいいですか」
「……母の命日だった」
声が、いつもより低かった。
「お母様の——」
「七歳の時に亡くした。それ以来、この時期は少し——落ち着かなくなる」
ゲームの辞典には書かれていなかった情報。「冷徹な性格のため攻略ルートなし」——その一行の裏に、こんな過去があったなんて。
「母は、人に優しい人だった。公爵家の当主の妻なのに、使用人にも領民にも同じように接した。——俺はそれが怖かった」
「怖かった?」
「優しい人間ほど、先に壊れる。母がそうだった。心を砕いて周りに配り続けて、最後に何も残らなくなった」
セシルの目が、窓の外を見ていた。何も映していない目だった。
「だから——人と関わらないと決めた。近づかなければ、失わない。失わなければ、壊れない」
それが、「攻略不可」の理由。
ゲームで攻略ルートがなかったのは、設定上の制限ではなかった。セシル自身が——人との関わりを拒んでいたからだ。
胸が痛かった。ゲーム知識とは関係ない、ただの——痛み。
「俺の過去を聞いて、どうする」
「……わかりません。でも」
「でも?」
「お母様のこと、話してくれてありがとうございます」
セシルが微かに目を見開いた。
「——礼を言われるとは思わなかった」
「だって、これはデータにない話ですから。攻略wikiにも——」
しまった。口が滑った。
「攻略wiki?」
「い、いいえ! ただの例えです! 本の話の例えで——」
「変な女だな」
「よく言われます」
セシルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った——のだろうか。この人の笑顔を見るのは初めてだ。
「ヴィオラ」
名前を呼ばれた。今まで「お前」だったのに。
「お前は——不思議だな」
セシルが立ち上がった。窓際から一歩、私に近づいた。
「逃げないのか、俺から」
声が変わっていた。「私」ではなく——「俺」。
公爵としてではなく、セシルという一人の人間として。
心臓がうるさい。鳥肌が立つ。ゲーム知識が何の役にも立たない、この感覚。
「逃げません」
なぜそう答えたのか、自分でもわからなかった。
「……そうか」
セシルが目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
「ならもう少しだけ——ここにいてもいいか」
「いいですよ」と答えた。声が少し震えた。
図書室の隅で、二人並んで座っていた。
何も話さなかった。でも——温かかった。
これはゲームにないイベント。データにない感情。攻略不可キャラとの、攻略wikiに載らない時間。
胸の痛みが、心地よい痛みに変わっていた。




