致命的なフラグ
学園の舞踏会。年に一度の大イベント。
そして——断罪フラグの中で、最も致命的な第三のフラグ。
「舞踏会での王太子侮辱事件」。
ゲームでは、ヴィオラが舞踏会で王太子に無礼な発言をし、それが決定打となって追放エンドに直結する。前の二つのフラグは小さな積み重ねだったが、このフラグだけは——一発アウトだ。
回避策は練り上げた。レティシアとクラウディアにも協力してもらっている。
——でも、今回は今までと違う。
エステルが転生者かもしれないという疑惑。もしエステルが私の回避行動を読んでいるなら、今日の舞踏会で何か仕掛けてくる可能性が高い。
「ヴィオラ様、ドレスの準備ができました」
レティシアが差し出してくれたのは、控えめな藍色のドレスだ。ゲームのヴィオラは派手な赤いドレスで殿下の目を引き、それが「王太子を誘惑している」という口実に使われた。
だから——目立たない色を選んだ。
「レティシア、今日の作戦を確認するわ」
「はい! 殿下には近づかない。エステル様とは距離を取る。何か話しかけられても笑顔で短く返す。そして——」
「そして、クラウディアの近くにいる。彼女が証人になってくれる」
「完璧ですね!」
完璧なはず。ゲーム知識のフル活用。変数も潰した。
——問題は、エステルが何を仕掛けてくるか。
舞踏会場は華やかだった。
シャンデリアの光。オーケストラの調べ。貴族たちの笑い声。
ゲームの舞踏会をそのまま再現したような光景——ただし、私の立ち位置だけが違う。壁際で、クラウディアと並んで静かに過ごしている。
「ヴィオラ様、踊らないのですか?」
「今日は見学よ」
「もったいないですわ。せっかくの舞踏会なのに」
「フラグが怖いの」
「フラグ?」
「何でもないわ」
殿下がエステルとワルツを踊っている。聖女の銀髪が旋回するたびに光を散らす。完璧な二人。ゲーム通りの光景だ。
一時間が過ぎた。何も起きない。
これならいける。このまま舞踏会が終われば、三つ目のフラグも——
「ヴィオラ嬢」
殿下の声が、背後から聞こえた。
振り返ると、アルベルト殿下が立っていた。エステルは少し離れた場所で微笑んでいる。
「殿下。今宵は素晴らしいお舞踏会ですわね」
「一曲、踊っていただけますか」
——え?
これはゲームにないイベントだ。殿下がヴィオラに踊りを申し込むシーンは、どのルートにも存在しない。
断る理由を探す。でも、王太子のダンスの申し出を断ることは——それ自体が「侮辱」になりかねない。
詰んだ。
「……光栄ですわ」
殿下の手を取った。ゲーム知識が使えない。アドリブで乗り切るしかない。
ワルツが始まった。殿下のリードは完璧だった。でも——目が、こちらを観察している。
「ヴィオラ嬢。最近、変わりましたね」
「そうでしょうか」
「以前のあなたは、もっと——感情的でした」
「大人になったのですわ」
「エステルが心配しています。あなたが自分を避けていると」
心臓が縮んだ。これがエステルの仕掛けか。殿下を使って、私に揺さぶりをかけている。
ゲーム知識ではない、実際の人間関係を操作して——私を追い込もうとしている。
「避けてなどおりません。ただ、それぞれの時間を大切にしているだけですわ」
「そうですか。——では、エステルとも仲良くしてください。あの子は優しすぎて、誰かに嫌われることを恐れているのです」
優しすぎて——嘘だ。あの聖女は計算で動いている。
でも、殿下は信じている。それがエステルの最大の武器だ。
「もちろんですわ、殿下」
笑顔を作った。完璧な令嬢の笑顔を。
ワルツが終わった。殿下が手を離す。
——回避成功。侮辱もしなかった。不用意な発言もしなかった。殿下のダンスに応じつつ、フラグの発動条件を一つも満たさなかった。
会場の端で、エステルの目が細くなるのが見えた。
計画通りにならなかった——その苛立ちが、微かに表情に出ていた。
——やった。最大のフラグ、回避。
胸の中で拳を握る。ゲーム知識を総動員した、最も危険な回避成功。
レティシアとクラウディアが、遠くからこっそり親指を立てていた。
舞踏会が終わりに近づいた頃、テラスに出て夜風に当たっていた。
膝が少しだけ震えていた。緊張が解けたせいだ。
「——お疲れのようだな」
セシルの声。テラスの柱にもたれて、夜空を見上げていた。
「セシル様。今日は舞踏会に参加されていたんですね」
「壁の花だがな」
壁の花。攻略不可の公爵が、舞踏会で壁の花。似合っているような、もったいないような。
「見事だった」
「え?」
「殿下のダンスの申し出。お前は完璧に切り抜けた。——感情を一切出さずに」
また見ていたのか、この人。
「褒めていただいて光栄ですわ」
「褒めていない。心配している」
「……心配?」
「お前の笑顔は、あの場のどの笑顔よりも嘘が上手い。それは——疲れるだろう」
胸が痛んだ。ゲーム知識でも攻略情報でもなく、ただの——人間としての心配。
言葉が出なくて、夜空を見上げた。
セシルが何か言おうとしたとき——テラスの反対側に、人影が見えた。
エステルだ。
聖女が一人で、テラスに立っていた。月明かりの下で。
そしてエステルは——笑った。
聖女の穏やかな微笑みではない。もっと別の——ゲーマーが難しいステージをクリアしたときのような、あの笑い。
背筋が凍った。
エステルの唇が動いた。小さく、独り言のように。
「あーあ。失敗しちゃった。——でも、次の手はもう考えてるんだけどね」
——日本語。
この世界の言葉ではない。前世の——日本語。
聖女が笑った。それは、このゲームのどのルートにもない笑顔だった。
エステルは転生者だ。確信した。
そして——彼女は、ゲームを「攻略」する側だ。シナリオ通りに物語を進め、聖女エンドを勝ち取るために。
私がフラグを壊す者なら、エステルはフラグを仕掛ける者。
ゲーム知識対決が、今——本当に始まった。




