勝てないという幸福
公開授業の一件から、三日が過ぎた。
学園の空気が変わっていた。エステルを見る目が変わり、私に向けられる囁きが減った。
でも、それは今——あまり気にならなかった。
気になっていたのは、別のこと。
あの日の図書室でセシルが言った言葉が、ずっと頭の中で反響している。
「理由なんか要らない。俺がお前のそばにいたいだけだ」
——どういう意味?
いや、言葉通りの意味だ。わかっている。わかっているけど——心が追いつかない。
ゲーム知識を検索しても答えは出ない。攻略不可キャラの好感度イベントなんて、存在しないのだから。
放課後。図書室に向かう足が、いつもより速かった。
扉を開けると、セシルがいた。いつもの窓際の席。
目が合った。
「——来たか」
「……来ました」
隣に座る。もう何度目かわからない。でも今日は——心臓がうるさい。
本を開いた。文字が頭に入らない。
「ヴィオラ」
「はい」
「この前の公開授業。——見事だった」
「ありがとうございます。でも、一人ではできませんでした。クラウディアとレティシアのおかげです。——それに、セシル様にも」
「俺は何もしていない」
「嘘です。審問の日、助けてくれました。あの日から——私は、一人じゃないと思えるようになりました」
セシルが黙った。
窓の外に目をやる。午後の光が、セシルの黒髪を柔らかく照らしている。
「セシル様に——お礼が言いたかったんです。ちゃんと」
「礼は聞いた。何度も」
「もう一回だけ。——ありがとうございます」
「……しつこい女だな」
セシルの声が、いつもより柔らかかった。
「セシル様」
「何だ」
「あの日、『そばにいたい』と言ってくださいましたよね」
セシルの指が、本のページの上で止まった。
「——言った」
「あれは——どういう意味ですか」
聞いてしまった。心臓がうるさすぎて、自分の声が遠くに聞こえる。
セシルが本を閉じた。
ゆっくりと、こちらを向いた。
「言葉通りの意味だ」
「言葉通り——」
「お前のそばにいたい。それ以上でも以下でもない」
「それは——」
「俺は言葉を飾らない。お前も知っているだろう」
知っている。セシルはいつも端的で、必要なことしか言わない。だからこそ——その言葉は、全て本気だ。
「ヴィオラ」
「はい」
「傍にいろ」
短い。たった五文字。
でも——
胸の中で、何かが溢れた。
ゲーム知識が何の役にも立たない。攻略情報もない。データもない。
ただ——嬉しい。嬉しくて、胸が苦しくて、目の奥が熱い。
「……攻略不可に、攻略された」
「何だ?」
「い、いえ! 独り言です!」
「お前の独り言は声が大きい」
「聞かなかったことにしてください」
「無理だな」
セシルの口元が緩んだ。笑っている。この人が笑うと、切れ長の目が少しだけ細くなる。
——ずるい。こんなの、勝てるわけがない。
「セシル様」
「何だ」
「私も——あなたのそばにいたいです」
声が震えた。令嬢の仮面が、完全に外れていた。
セシルが手を伸ばした。私の手に、指先が触れた。
冷たい手。でも——温かかった。
「やっと言ったな」
「……待っていたんですか?」
「待っていた」
「いつから」
「図書室で、隣に座った日から」
あのEP2の日から。ずっと。
涙が出そうになった。泣いたら台無しだと思ったのに。
「泣くな」
「泣いてません」
「嘘だな」
「……少しだけ」
セシルの指が、目の端に触れた。涙を拭うように。
図書室の午後の光の中で。
攻略不可の公爵が——たった五文字で、私を攻略した。
「勝てない」の意味が、変わった日だった。
断罪フラグでもない。ゲームの知識でもない。
ただの——恋に、負けた。
それが——こんなにも、幸せだなんて。




