第十三話「月と地王星」
リーペンワープの遥か彼方で、九つの首が蠢いた。
雷鳴を轟かせ、稲光をまとう、赤茶けた雲の影は静かに前進を開始した。
九つの頭はゆっくりと、だが確実に、リーペンワープへと貌を向けた。
「……あぁ!」
その威容を前にして、研究員の一人が膝をつく。
一頭の鼻先が、自らが従える毒を孕んだ熱気と、街を守る清浄な空気との境界に触れる。
そして――
満足したように消え去った。
空には青みが帰ってくる。
木々が伸び上がり、葉をつける。
花が咲き、ダンジョンは再び生命を取り戻す。
しかし、それは最初に見た楽園ではなかった。
遠くには海が、砂漠が広がる。
火山が噴煙を立ち昇らせる。
険しい氷河が、ただ静かに流れる。
アジサイは、花を散らした。
「赤色け……ぐっ」
犬人の騎士、マレン・クーバーはベッドの上から号令を飛ばそうとする。
しかし、まだ万全ではなかった。
「マレン、私が言いますわ。
――仮想魔術『拡声器』」
領主メリッサ・ハートメイは病院の窓を開け放って、甘美な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「赤色警報ですわ!」
「うっ。
メリッサ様。頭に、響きます……」
*
骸骨の群勢、雪原、スライム――果ては毒と灼熱の試練まで。
幾度となくダンジョンに裏切られてきたリーペンワープは、警戒を解かなかった。
しかし、数時間経っても何も起こらない。
領主館の機関制御室で、メリッサは警報を解除すべきか見極められずにいた。
魔力残量とにらめっこしながら、帰還に十分な量が溜まるのを待っている。
こんな時、マレンならどうしますかしら……。
「んぁ……?」
街の付喪神リッペがメリッサの顔を覗き込む。
灰色の目に、赤色警報の光が浮かぶ。
「警報解除!」
部屋のドアが開くと同時に、吠え声が響いた。
「――マレン!
お身体は大丈夫ですの?」
「アコラの処方です。
……長時間の警報は、疲弊するとのことです」
「申し訳ありませんわ」
マレンは得意げに胸を張る。
「いえ、問題ありません。
――私がおりますので」
……とは言っても、今回のようなこともありますもの。
頼りすぎるわけにはいきませんわね。
「ところで、メリッサ様。
帰還準備は進みましたか?」
「魔力のチャージに時間がかかってますのよ。
それと、操舵はゾーロンにお願いしようと思ってますの」
禁忌の召喚士ゾーロンはいま、無数の召喚獣たちとリーペンワープ周辺の警戒にあたっていた。
「ゾーロンにですか?」
「ええ、ダンジョンは地脈現象ですわ。
星脈と同じ魔力の流れの中を、何千回と潜った彼ならできると思いますの」
今回の跳躍は最低限の安定性しか確保できない。
少しでも適任な者を選ばなければ。
「ん?」
「領主様、至急ご確認をお願いします。
――星脈に奇妙な点が」
メリッサとマレンの会話を遮って、研究員が魔動石板を差し出す。
「……マレン、ここは任せますわ。
それと、ゾーロンを呼んでおいてくださいませ」
「了解です」
*
メリッサの魔動石板に、月と地王星を繋ぐ星脈が映し出される。
「ダンジョン反応が、移動しましたのね?」
「はい。我々が攻略している間に、ダンジョンごと移動していたようです」
リーペンワープのいたダンジョンは、月面ダンジョンだったはずだった。
しかし、今やそれは地王星の上空に位置している。
少なくとも、星脈地図はそう示していた。
「予想外のことでしたので、確認に手間取りました……」
「興味深いですわ」
セレアレの言っていた「蜜の香り」の件もありますわ――。
元仮聖女である彼女は、宝の蜜から地王星の魔力を感じ取っていた。
「んぉ?」
メリッサは一つの仮説に辿り着いた。
「もしかしたら――。
月と地王星は、ひとつなのかもしれませんわ」
天の五星も、月も、太陽も地王星の対となる天の光。
今まで、メリッサはこの事実について、深く考えたことがなかった。
しかし、この探索結果を見るに、月は思っていたより特別な存在なのかもしれませんわ。
例えば地王星の――伴星?
それとも、近衞の星?
父の目標も、よい奇想でしたのね。
メリッサは少し誇らしく思った。
少なくとも、月と地王星がひとつのダンジョンを共有していることは確かだった。
*
「で、嬢ちゃん。俺に用事だって?」
「ええ、予定より早く帰れそうですの。
ダンジョン経験豊富なあなたに、操舵席へ座って欲しいのですわ」
いま、リーペンワープは地王星上空の魔力流の中にいる。
それはつまり、現在の魔力残量でも帰還できることを意味していた。
「地脈と星脈、ってか」
「尖塔を三つ失ってますの。
この跳躍を任せられる人は他に――」
「断る」
ゾーロンはそう言うと、握った手を開く。
「――んぁ!」
リッペの視線の先で、ふてぶてしい偵察ネズミが一匹現れた。
ゾーロンの指に手をかけ、メリッサたちを偉そうに見つめている。
「俺よりチュリオンが適任だ。
……席には座れんがな」
「どうやって、操舵しますの?」
「お前なら思いつくだろ?」
ネズミ用操舵機関、ですわね――。
メリッサはにやっと笑った。
「もちろん、できますわ。
マレン、機関士を呼んでくださいませ」
*
機関制御室では、メリッサと機関士たちが急ピッチで作業を進めた。
いま、数本の魔力ケーブルがその接続先を待っている。
「仮想魔術『ネズミ用操舵機関』」
メリッサが手をかざすと、青く光る設計図が現れる。
それが静かに動くと、ワイヤーフレームが輝く一つの箱が形作られる。
すぐさま機関士たちが魔力ケーブルを接続すると、箱の中で魔法陣が回転をはじめる。
「さあ、ここが入り口ですわ」
「入れる前に聞かせろ。
……どうやって使う?」
「中央にある球体が操縦桿ですわ。
そして、この箱で星脈の魔力流を再現いたしますの」
「悪くねえ。
チュリオン、いってこい」
チュ。
短く一言発すると、チュリオンは中央の球体に収まった。
早く出発しろ、と言わんばかりにメリッサを見つめる。
「跳躍プロセス――はじめてくださいまし!」
「コースセット、青色警報!」
研究員たちは何度も訓練したプロセスを開始する。
「対魔力流防護膜、展開!」
「機関詠唱、完了!」
「星脈潜航、開始します!」
リーペンワープが白光に包まれ、外界が歪む。
「跳躍、準備完了しました」
メリッサは息を吸い込んだ。
このダンジョンから、やっと帰れるのだ。
気を引き締め直し、手をかざした。
「――跳躍!」
リーペンワープはダンジョンを突破した。
*
「おつかまりなすって!」
リーペンワープが鳴動する。
チュリオンが走る。
星脈の乱れを髭で感じ、避ける。
目標は故郷のダンジョン、その最奥だ。
リーペンワープが建築された場所、掘り抜かれたボス部屋だ。
帰還すればまず、街を再建する。
王国の支援があれば、一年ほどでなんとかなるだろう。
この激しい揺れさえ、耐え抜けば。
「城の構造支持力、十五%減少!」
「手が離せませんの! 持ち堪えさせてくださいまし!」
研究員はすぐさま機器を操作する。
メリッサはネズミ用操舵機関の維持で手一杯だ。
「こいつはな! 五〇三二匹目の契約獣だ。
こいつにとっちゃ、リーペンワープのダンジョンは故郷って訳さ!
だから、絶対に帰してくれるぜ!」
ゾーロンが勇気づけるように言った。
永遠とも感じられる時間が過ぎた時、リーペンワープはなんとか故郷へと辿り着いていた。
だが、辿り着いただけだった。
*
「領主様、浮上できません!」
研究員が叫んだ。
ゾーロンが頭を抱える。
「もう、俺にはダンジョンがわからねえ……」
リーペンワープは、壁にめり込んでいた。
位相の異なる魔力流の中にいるため、街は無事である。
だが、どう見ても浮上は不可能だ。
「リーペンワープは、このダンジョンから魔力を吸い上げていましたわね?」
「それを魔力として利用しておりました。
また、魔物を弱らせる効果も――」
「ダンジョンの形を保つ効果もありましたのね」
時間がない。
こうしている間にも魔力が消費されていく。
マレンが声を上げる。
「メリッサ様。
再跳躍しましょう」
「……文明から遠いところへ行くことになりますわね」
もし、どこかの街のすぐそばにリーペンワープが現れたら?
敵対しないとも限らない。
今の街にそれを跳ね返す力はない。
「地図を出してくださいまし。
――この砂漠地帯の中央へ跳びますわ!」
メリッサの指示で表示された世界地図。
領主は、もっとも文明から遠い場所を指差した。
マレンが頷く。
「再跳躍準備!」
「機関詠唱、完了!」
「目標、セットしました」
「跳躍!」
リーペンワープが重苦しい岩の蓋をすり抜ける。
チュリオンが走り、世界を駆けていく。
草原を、山を、海をも越える。
「目標地点、到達!」
「浮上可能です!」
「浮上、してくださいまし」
その瞬間、城壁が崩れる音がした。
*
リーペンワープは日没直後の砂漠へ浮上した。
空には銀色の三日月が浮かぶ。
周囲に街の灯はなく、宵闇に青く染まる砂の海が遥か彼方まで続いている。
信じ難いことに、住民のほぼ全員が生還した。
失われた命はゾーロンの繁殖個体数匹、それだけにとどまった。
一方、街は尖塔を半分失い、大部分が更地となった。
残っているのは、三つの尖塔と農園区画、リーペンワープ城、そして僅かばかりの城壁だけである。
もはや、理想機関どころではなくなった。
それでも、ここは地王星である。
決して変わることのない、平穏の大地であった。
しかも、蜜の魔力を得たリーペンワープには、乾燥や寒気すら届かないのだ。
その夜、メリッサは城のバルコニーで空を見上げた。
水循環機関は生きている。食料も二週間分はある。
ならば、目標が必要だ。
……こうなったら、天の五星を見に行ってやりますわ。
一、二、三、四……。
「メリッサ様、何をなさっているので?」
「星を数えているんですの。
一つ見えませんわ」
マレンが心配して声をかけた。
リッペは疲れて眠っていた。住民から借りたスモック姿だ。
「見えないのは、輪王星でしょうか。
この配置は引越しの好適日ですね」
「そうなのですか? お詳しいのですね」
「占星術は宰相の嗜みです。
早くお休みになっては? 明日からまた忙しいですよ」
マレンはそう言って、城の避難所へ戻っていった。
「さあ、どこまでも行ける街に変えて差し上げますわ!」
メリッサは更地になった街へ視線を向け、微笑んだ。
方法は――見つければよろしくてよ。
*
「――様! メリッサ様!」
翌朝、メリッサは激しいノック音で、文字通り叩き起こされた。
「マレン。何がありましたの?」
「外をご覧ください!」
メリッサはカーテンを勢いよく開いた。
見渡す限り砂しかない、そのはずだった。
青く澄んだ玻璃の街が、一夜にして築かれていた。




