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序章

 あ、と気づいた。

 いつからか分からない。

 昨日どうだったのかも思い出せない。

 針は同じ場所を指したまま止まり、秒針も震えることすらしていない。

 その懐中時計は、もう時を刻んでいなかった。

 持ち上げようとすると、指先に、白く乾いた埃が付いた。こすり合わせると、細かい粉が空気に溶けていく。

 そういえば、最後に触ったのはいつだっただろうか。

 家族から譲り受けたこの時計は、アンティークな彫金が施された、何十年も前に作られた複雑そうなものだった。どうやって動いているのかなどもちろん知らないし、今までどうやって動いていたのかも知らない。

 金色に輝く装飾は、灰色の塵が積み重なって、煌びやかな光を曇らせていた。

 もったいない。

 真っ先に頭に浮かんだ言葉はそれだった。

 手のひらに乗せて、積もった埃を指先で軽く払う。

 裏返してみても、ネジ穴一つなく、ただ小さな引っ掛かりが側面にひっそりと佇んでいるだけだった。

 指先をねじ込む隙間すらなく、ただ輪郭の曲線をなぞるしかない。

 ここに何か特別な道具を差し込んで、もしくは引っ掛けて、裏面の金属板を外すのだろうことは容易に想像がついたが、そんな道具は持ち合わせていなかった。

 機械いじりなどそもそもしたことがないし、こういったものはいつも店に任せていた。

 つまり、自分でこの時計を直すことは到底不可能だった。

 少し悩んで、その時計をバッグに仕舞った。

 直してくれる時計屋さんを探そう。

 何故か、強くそう思った。

 スマートフォンで近所の時計屋を探すと、ここからバスと歩きで三十分ほどの場所に店があった。

 その店に行くには、途中までバスに乗って、それから少し歩く必要があった。

 窓の外に目をやると、絵の具で塗ったような青空に、白くて厚みがある雲が浮かんでいた。

 緑色の葉をつけた木々が、地面に濃い影をつくっている。

 出かけるにはちょうどいい日和だった。

 バッグを持って、玄関の扉を開けた。吹き付けた風にはまだ冷たさの破片が混ざっている。

 最寄りのバス停まで五分ほど歩き、そこでバスに乗って十五分、降りてからまた十分ほど歩く。道の端には紫陽花が咲き、ホトトギスの鳴き声が聞こえてくる。

 時計屋に着くころには、冷たい飲み物が飲みたくなっていた。

 店に足を踏み入れると、正面に置いてあるガラスケースに腕時計が並んでいるのが目に入った。

 壁には掛け時計がいくつか飾られており、油と金属の匂いがした。

 秒針が時を刻む小さな音のみが耳に入ってくる、静かでこぢんまりとした店内だった。

 古い柱時計が低い音で時を打った。

 店の奥の机に、男性が座っていた。少し黒ずんだ手からは、長年に渡って培ってきた力や信頼を感じ取れた。この人が店主なのだろう。

「あの……すみません、この時計を……」

 バッグから懐中時計を取り出しながら声を掛けると、店主は時計に目をやって、「……分解してみないと、なんとも」と言った。

「分解して大丈夫なので……よろしく、お願いします」

 店主はそっと時計を受け取り、机に置いて工具をいくつか取り出した。

 裏に返し、金属板が外される。中には小さな歯車のようなものがいくつも重なり合っているように見えた。

 歯車ひとつひとつを確認するように、中を覗き込んでいた店主は、静かに首を横に振った。

「……うちじゃ無理だな」

 この懐中時計は、かなり前のものらしい。

 そのため、当時の技法を知っている人じゃないと修理はおろか分解すらできないのだと言う。

「ルーメア辺りでなら、直せるのがいるかもしれないな」

 店主はそう言って、金属板をはめなおした時計を丁寧に返却した。

 小さくお辞儀をして、店を後にした。

 外に出て、手に持ったままの懐中時計に視線を落とす。

 店内の秒針の音が、扉の向こうで遠ざかっていった。

 店主が言っていた言葉を繰り返す。

 ルーメア。あそこは港町で栄えているから、時計屋の数はここより多いだろう。

 ただ、この町からは電車を乗り継いで行く必要がある。

 懐中時計はただ静かに時を止めていた。


 ――ほら、音がするだろ。


 幼い頃、懐中時計を耳に当てて、小さな鼓動のような音を聞いた。

 あのときは、これがただの時計なのだと思っていた。

 どうしてそれを、今、思い出したのだろう。


 このまま、ずっと止まったまま。

 それは、なんとなく、嫌だと思った。

 まだ明るい空を見上げる。

 風が頬をかすめていき、横の髪を手で押さえた。

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