第9話 ②
アクリル壁が勇者の大振りな右拳で大きくたわんで、中央から粉々に爆ぜた。
破片が雨のように散っている、その向こうで──同時、面会室側のドアを押し破った屍鬼が三体、雪崩れ込んできた。
それは精気を奪われた人間のなれの果てだった。千切れかけた手足で、座りこんだ真琴の上にのしかかってきた。
迫る影に悲鳴もあげられなかった。
が、その屍鬼めがけ、砕けたアクリル片ごと飛び込んできたもの──勇者──が、大きく腕を振りかぶるのも見えた。
髪を乱されながら、顔をそむけた真琴の耳に、水が砕ける音がした。へたりこんだ足もとへと、何かが重く崩れ落ちた。
こわごわ目をあけると、足もとに顔のない屍鬼が倒れていた。
真琴は、あとずさった。壁に背をつけたまま顔を覆った。でも目を閉じられなかった。
そのあいだにも勇者は次の屍鬼へ踏みこんで、暴虐な右拳を振り抜いている。悲鳴すら出ない。
それはもう、技と呼べるようなものではなかった。ただ力任せに彼らの苦悶を叩き潰していく。真琴は、その救済の血を浴びながら、気が遠くなった。
勢い余って待合室に飛び出していった勇者を、目で追うこともできなかった。
殴る音。振り向きざまにまた殴る音。そのたびに何かの影がドアを横切っていく。
ただ、壁際の下で、歯を鳴らして震えた。
膝のすぐ前では、スーツ姿の屍鬼が息絶えている。袖から覗く手首は枯れ木のように干からびているが、元は市民で、誰かの親か友人だったはずだ。けれど勇者のさっきの目は、少しも躊躇していなかった。獲物を見おろすネコのような表情をしていた。頭を振った。歯を食いしばった。夢であってほしいと。彼のことを、少しでも恐ろしいなどと思いたくなかった。
気がつけば、ドアの向こうで、スプリンクラーから霧のような雨が降っていた。
立ち上がろうとすると、腰が抜けていて立てなかった。
壁の下をいざって進み、待合を覗いた。
顔の見あたらない屍鬼が重なりあったまま、受付までの数メートルに、いくつも転がって息絶えている。
自分の手足を確認した。無傷だった。寒気と、震えとともに現実が戻ってきたような気がした。
顔をあげると、待合室では、さっきまで暴れていた〝嵐〟も、背中を向けたまま止んでいるようだった。
聞こえてくる音もひとつだけ。勇者が激しく息を整えている。背中が大きく上下している。返り血で、シャツが背中以外、真っ赤に染まっている。
けれども、その広い背中と息づかいは、激しい雨を受けながら、聖画のように真琴の胸をうった。
振り向いた勇者は、疲れた様子だった。歩み寄ってくる。シャツで手を拭いて、彼女に手を差し出した。
そして、ためらうことなく、あの名を呼んだ。
「いこう、キターラ」
真琴は、血に濡れたその手を見た。さっきまで人の頭を砕いていた手だ。それでも今いちばん頼りたいのは、その手だった。
彼女が手を出せずにいると、勇者は目を向けて、階下の気配に耳を澄ました。
「屍鬼は単体で行動しない。近くにソルバウたちがいるはず」
真琴はスプリンクラーの雨に目を細めた。
「でも、いくって……どこへ」
手を真琴に差し出したまま、彼は、彼女へと再度、促すような目を向けてきた。
「転化の甲冑……。僕の装備だ。とり戻さなければ」
霧雨にかすむ廊下の向こうから、時折、銃声のような小さな破裂音が届く。
ぼんやりしていた聴覚がもどってきたのか、いつのまにか火災報知器も鳴っていた。
汚れていない自分の手を見た。
父のことが、急に胸をよぎった。所長室にいるはずだ。
「そうだ、あなたの鎧なら、父が預かるって……」
「アサクラどのも、ここに来ているのか」
「うん。でも、避難できているかな……」
うつむいた彼女に、勇者は言った。
「助けよう」
顔をあげた。
「けど、どこにいるのか……」
そうだ、とジャケットのポケットに手を入れた。荷物を預けたロッカーの鍵が指先に触れた。
「スマホがある、つながるかも!」
腰が抜けたまま、勇者を見あげた。勇者は、彼女にほほえんだ。
手をとった真琴を引き寄せて彼は、そのまま彼女を抱きしめた。
血だらけの抱擁だった。記憶にない感情が、激しく胸の内を揺さぶった。
そんな場合じゃないと、わかっていたが、目を閉じた。
音が遠のいた。
一瞬、世界中の音が消えた。銃声も、怒号も、火災報知機のベルも。
スプリンクラーの雨の中、勇者と真琴の鼓動はふたつ、そこに重なっていた。
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次回は、明日7:00に公開予定です!




