甘くて苦くて、甘酸っぱい
――三月十四日、朝。
凪原司は考える。家を出て、長い石階段を下りながら考える。――さて、いつ渡すべきか、と。
「うぅむ」
腕を組みながら考えていると、無意識に呻き声が漏れる。黄泉辻渚の様に教室で渡すのは自身には不可能だ。それなら、必然部室か帰り道か。今になって保冷バッグを持ったまま放課後を迎えた和泉まほらの気持ちがよく分かる。
――階段を下りきる直前、ふわりと風に乗って覚えのある香りがした気がした。
「おはよ、司くん」
階段の脇から聞きなれた声がして思わず振り向く。まほらだ。
「お、おう。おはよう。どうした、こんなところで」
朝からまほらがここ凪野神社を訪れた事など今まで一度もない。まほらはクスリと笑い、凪原の表情を覗き見る。
「ん?待ち伏せしてたの。逃げられないように」
「……人聞きの悪い事言いなさんな。俺が何から逃げるっていうんだよ」
まほらはきょろきょろと凪原の手荷物に目をやる。普段通りの通学カバンだ。
「今日は何の日でしょう?」
ホワイトデーの催促をしているのは火を見るより明らかだ。
「円周率の日だっけ?」
凪原がはぐらかすと、まほらはそれすらも楽しみ事とばかりに楽しそうに笑う。
「あはは、そうだね。3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 41971 69399 37510……。このくらいでいい?もっと言う?」
記憶力には自信も定評もあるまほらの事だ。何桁まで言えるのか凪原には想像もできない。
「すげぇな」
「ふふ、すごい?ご褒美ある?」
学校に向かう川沿いの道。春も近づくが、朝はまだ肌寒い。ひんやりとした空気の向こう側で車の音が聞こえる。まほらは再び催促をしつつ、凪原の近くを右に左にと忙しなく動く。
「ご褒美はない」
まほらを見ずに凪原が言い切ると、さすがにまほらはしゅんとしてしまう。
残念そうに微笑みながら俯くまほらの隣で、凪原は、彼には似合わないほど可愛らしい包装紙に包まれた小箱を、通学カバンから取り出す。そして、まほらにそれを差し出す。彼女の方を見ずに、ぶっきらぼうに口を尖らせて。
「お返しなら、ある。……ったく、人がどう渡そうか悩んでたのによ」
その瞬間、まほらの顔はたちまち少し早い桜の芽吹きの様な晴れやかな笑顔に彩られる。
「本当……!?」
まほらは、空から落ちる星を受け止めるかのように、両手で大事にその包みを受け取ると、凪原の袖を引いて川沿いのベンチへと促す。
「遅刻するぞ?」
「タクシーで行けば間に合うよ」
さも当然とばかりにそう答え、まほらはベンチに腰掛ける。
川沿いの桜並木の芽は少し大きくなり、朝日が揺れる水面を輝かせる。まほらは笑顔で包みを抱く。
「なんだろ?開けていい?食べていい?お茶ある?」
子供の用に、まほらは矢継ぎ早に凪原にせがむ。凪原は当然のようにバッグからペットボトルを取り出す。今日のチョイスは紅茶。ブールドネージュに合うように。
「一つだけ、お願いがあるんだけど」
まほらはもう何だって嬉しい。
「うん、なに?」
凪原はまほらが大事そうに持つ包みを指さす。
「それ、全部ひとりで食べてくれ。……ちょっとキモイかもしれないけど。お前から貰ったケーキのお返し、俺の気持ちだから」
照れくささから、視線は差す指とは明後日の方向を向いている。まほらは嬉しさにゆるむ口元を隠さずにコクリと頷く。
「うん、わかった」
そして、まほらは包み紙を開ける。
中からは雪のような粉糖に包まれた小さくて丸いお菓子。――ブールドネージュだ。それは明らかに市販品ではない。手作りだ。
「わぁ」
宝石箱を開けた子供の様に、輝く瞳で、弾む声で、まほらは息を漏らす。
ころころと箱の中で転がる白い宝石を、壊さぬように一つ摘まむと、口を開けて一つ頬張る。それは、抹茶味。
「んっ、おいしい!」
凪原は照れ隠しの様に口を手で覆いながら、答えを急く様に問いかける。
「だけ?」
「ん?苦い。ふふっ」
まほらはクスリと笑い、凪原も隠した口で少し笑う。
「そりゃ、まぁ。気持ちなんで」
「ふぅん、苦いんだ?」
冗談めかして不満げに呟くまほらに、凪原は次の一口を勧める。
「お次どうぞ」
箱の中のブールドネージュは全部で10粒。残りは9粒。まほらはまた一粒手に取り、太陽に透かすように、見せびらかすように掲げてからぱくっと口に入れる。今度はミルク味。
「甘い」
今度は凪原はノーコメント。二粒食べたところで、まほらは凪原の意図を察する。苦くて、甘い。彼はそれを自分の気持ちと言った。普段言葉で気持ちを告げる事のない、出来ない凪原の最大限の気持ちとお返し。
まほらは慈しむ様に、次の一粒を口にする。
「苦いよ?おいしいけどさ」
小さくべっと舌を出すまほらに、凪原は一人納得して頷く。
「だろうなぁ」
まほらは一粒ずつ、惜しみながら、楽しみながら、味わいながら、ゆっくりと食べる。できる事なら、冷凍保存でもしていつまででも取っておきたい。けれど、今、全部食べてしまいたい。――彼は、これを自分の気持ちだと言ったのだから。
嘘と建前で塗り固めた、傷と鎖が繋いだ関係で、唯一凪原が語ってくれた本当の心。その全部を、今知りたい。
少しして、まほらは全て食べ終わる。不思議と寂しさよりも満足感が上回っていた。
「ごちそうさま、全部食べちゃった」
改めてそう言われると、凪原も少し照れくさい。
「ご感想は?」
凪原が問うと、まほらは悪戯そうに笑う。秘密を共有する共犯者みたいに。
「苦くて、ちょっと甘いね」
――抹茶が七個で、ミルクが二個。プレーンが一つ。
凪原は顔の熱を払う様に、パタパタとまほらに手を振る。
「ほ、ほら、そろそろ行かないと間に合わないぞ」
「司くんは?」
「……俺は歩いて行くから」
――ただでさえ顔が熱いのに、一緒に乗れる訳が無い。
結局凪原は、少し遅刻して学校に着くことになる。
「凪くん、今日どうしたの?寝坊?」
休み時間に黄泉辻が楽しそうに凪原に問いかける。
「まぁ、そんな感じ」
「へぇ。疲れてるんじゃない?乳酸菌飲む?」
黄泉辻はお馴染みパックの乳酸飲料を凪原に差し出す。
「あぁ、さんきゅー」
「お菓子いる?凪くんは源氏と平家どっち派?」
カバンからパイ菓子を取り出して凪原に差し出す。
「……また派閥争いする気かよ」
パイ菓子を差し出した黄泉辻は何やら期待に満ちた目で凪原を見つめる。パタパタと揺れる尻尾が見える様だ。
――いやいや、このタイミングでは無理よ!?
凪原は一人心の中で叫ぶが、当然黄泉辻には伝わらない。雨の日に散歩をせがむ犬の様に、耳を立てて尻尾を大きく揺らす黄泉辻は、凪原からのお返しが来ないことを感じ、次第に耳も尻尾も垂れていく。――というのは、もちろんイメージの話。
休み時間毎にそれを繰り返し、ついに放課後。帰宅部の部室。部室には凪原と黄泉辻の二人きり。お互いに、『ここしか無い』と言うシチュエーションは逆に緊張を招く。
黄泉辻はいつもと違い、就活の面接に来た学生の様に背筋を伸ばして、膝の上に手を置いて座る。凪原は椅子に座らす、無駄に窓から外を眺めている。窓からは桜の木が見える。もうじき、この窓からも満開の桜が見られる事だろう。――その頃には、別のクラスになっているかもしれない。
そう考えると、凪原の腹も決まる。
バチン、と音がしたかと思い、黄泉辻が凪原を見る。凪原は両手で自分の頬を叩き、気合を入れる。
そして、黄泉辻の正面に座り、カバンから取り出す。春の木漏れ日の様なイメージの包装紙に包まれた、ホワイトデーのお返しの箱を。
「黄泉辻、お返しと……俺の気持ち。貰ってくれ」
照れくさい。けれど、凪原はまっすぐに伝える。
この時を一日中待ち望んでいた。絶対にもらえるとは思っていたけど、もしかすると……とも思ってしまった。
黄泉辻は嬉しさを隠しきれないまま、少しの照れ隠しでクスリと笑う。
「本命?」
凪原はその軽口に首を横に振る。そして、黄泉辻がショックを受けるよりも速く、次の言葉を放つ。
「本命かどうかはわからない。けど、……少なくとも本気ではある」
黄泉辻はこくりと頷いて、箱を開く。その答えだけでもう十分満たされてしまったとさえ感じる。
箱を開けると、白い粉雪の様な粉糖から十粒のブールドネージュが顔を覗かせる。
「自分で作ったの!?」
改めて言われると、やはり気恥ずかしい。
「……まぁ出来はともかく、大事なのは気持ち、っすからね」
カバンから取り出した紅茶を黄泉辻の前に置く。
「へぇ〜、綺麗にできたね。おいしそう。食べるの勿体無いなぁ」
指で摘んだ白い玉を嬉しそうに眺めながら、意を決して一つ頬張る。
途端に黄泉辻の顔が蕩ける。
「おいしぃ〜、ほろほろだね」
「何味だった?」
その言葉に黄泉辻の言葉は弾む。
「色んな味があるんだ?ラズベリーかな?甘酸っぱくて、おいしい」
確かによく見ると、粉糖の奥でわずかに色が違うのがわかる。ほのかに赤いもの、色の薄いもの、濃いもの。
「そりゃよかった」
黄泉辻は、少し考えて薄赤い玉を一つつまむ。
「凪くん、あーん」
そう言って自身も見本の様に口を開ける。
「いやいや、お返しだって言ったろ?全部黄泉辻が――」
「あぁーんっ」
言葉を遮り開口をせがむ。仕方なく折れた凪原が口を開けると、ラズベリー味のブールドネージュが口を塞ぐ。指は、わずかに口に触れる。
「……どんな味?」
「んー、うまい」
凪原が答えると、黄泉辻はクスリと笑ってから少しだけ頰を赤らめて、大きく口角を上げて微笑む。
「お返し。それ、あたしの気持ちね」
「……お返しのお返しは反則じゃね?」
「えへへ、そう?」
そう言って笑ってから二人は窓を開ける。春はもう少し先だと言うのに、部屋は暑くて、顔が熱かったから――。




