バレンタイン③ 熱くて溶ける愛おしいもの
――そして迎えた、2月14日。バレンタイン・デー。
この日は全国の中高生男子が朝から下校まで一日中期待と不安で心揺らす一日だ。鴻鵠館の下駄箱はロッカータイプで、各自鍵にて施錠を行うタイプである為、手紙程度なら隙間から入れられはするが、チョコレートは不可能である。
自宅の冷蔵庫に入れてあらぬ邪推をされるのを防ぐ為、和泉まほらは完成後のケーキをそのまま黄泉辻家の冷蔵庫に保管してもらい、当日一緒に持ってきてもらう手筈を取った。
「まほらさん、おはよ〜」
いつものバス停で待ち合わせると、黄泉辻渚は大きな保冷バッグを両手に抱えて現れた。
「お、おはよう、黄泉辻さん。そうよね、そうなるわよね。私持つわ」
困り顔でまほらが手を伸ばすと、黄泉辻は笑顔でケーキの入ったバッグを差し出す。
「じゃあ、半分ずつ持とっ」
二人でバッグを持ち、学校へと向かう。
「単純な疑問なんだけど、学校に着いたら、保管場所どうするの?」
まほらが不安げに問うと、黄泉辻はふふんと得意げに胸を張る。
「茶道部の部室に冷蔵庫あるんだよね、そこに入れておこうと思います」
「部長権限の濫用ね」
まほらはクスクスと笑う。
期待と不安が半分ずつの、黒くて甘く熱いもの。二人で持てば、足取りも軽い。
「よっ、黄泉辻さんは――、いつ渡すの?」
誰に、とは聞かない。聞かなくても相手はわかる。
「お昼休みがちょうどいいかなって思ってるんだけど、まほらさんは?」
あまりに気軽に答える黄泉辻に、まほらは羨ましさを超えて妬ましさすら覚える。
「……私は、渡せるかわからないわ」
「じゃあ、一緒に渡す?それなら渡しやすくならない?」
黄泉辻はいつも通り、優しく笑いながらそう提案した。それは一切の他意のない彼女の純粋な善意。
「そっ――」
――それはいい考えね!
まほらの脳裏に一瞬でシミュレート映像が流れる。昼休みの教室、それが難しいなら放課後の部室。黄泉辻がケーキを出すのと一緒に出すのなら、自分にも自然にケーキが出せそうだ。
まほらは言葉を続ける。眉を寄せ、冬の朝に相応しくない苦々しい顔で、口を開く。
「……それはダメ」
思わぬ言葉が返ってきて驚く黄泉辻をよそに、まほらは言葉を続ける。
「そんな事をしたら、半分になるわ。あなたの想いも、私のそれも」
もはやそれ自体が告白に近い言葉だが、既にまほらは腹を括っている。こうなれば、この程度のことで心は揺れない。
「だから、絶対に別々に渡すべきよ。……そもそも、この私に気を遣おうだなんて百年早いわ」
まほらはそう言い捨てるとプイっとそっぽを向く。
「じゃあ、あたし先に渡そっと」
黄泉辻は嬉しそうにクスクス笑いながら右手を挙げる、それを見たまほらは顎に手を当て思考を巡らせる。
「……なるほど、先手が優勢と見た訳ね」
「見てないよ?」
「確かに、将棋や碁などの二人零和有限確定完全情報ゲームに於いては先手が優勢なものは多いでしょう」
「多分違うかな」
「だけど、これはゲームではない。私は親近性効果を狙うわ!」
「話し聞こ?」
互いを見て、ふっと笑い健闘を祈る。二人は互いに知っている。自分たちは敵ではない事を。
――昼休み。
「凪くん、もうチョコ貰った〜?」
黄泉辻はいつも通り軽く凪原に問いかける。
「逆に聞くけど俺が貰えると思う?一歩間違えると度を過ぎたいじりだよ、それ」
呆れ顔の凪原から卑屈な言葉が飛び出してきて黄泉辻はクスリとする。
「じゃあ、あたしのチョコ……、貰ってくれる?」
黄泉辻はケーキをしまったバッグを凪原の机の上で広げる。クラスの男子たちの視線は、この一点に集中している。義理チョコとしてテロルチョコを貰った彼らのそれは多分に羨望と嫉妬の入り混じった視線。
「じゃーん、ザッハトルテでーす」
「……ザッハ……トルテ……、だと?」
名前の格好よさが既に凪原の心を掴んだ様子で、凪原は別の意味でゴクリと唾を呑む。思わぬ副産物に黄泉辻もご満悦だ。――そう言えば、初めて会った時もなんかドイツの名前言ってたっけ。
机に頰杖をついて凪原を眺めながら、そんな事を思い出して口元を弛める。
「え、これ食っていいの?」
「もちろん。召し上がれ」
二切れ分欠けた部分が口のように見え、目の場所に生クリームが乗っている事から某黄色の有名キャラクターの様に見える。
凪原は添えられたお手拭きで手を拭き、ザッハトルテをフォークで口に運ぶ。濃厚なチョコレートの中にアプリコットの酸味が絶妙に溶け合う。
玖珂三月直伝のザッハトルテ。そして、凪原はC組のケーキを食べていない。
一口食べた凪原は、言葉を出さず視線を上げ、驚いた顔で黄泉辻を見る。
その顔を見て、頰杖をついたままの黄泉辻は自然と笑顔が漏れてしまう。
「おいし?」
凪原は無言でコクコクと頷く。本当に美味しいものを食べると言葉が出ないらしい。
「本命チョコなんだけど、感想は?」
凪原はケーキを食べながらコクコクと頷き、その様子を見て黄泉辻は呆れ笑いをする。
「もうっ」
黄泉辻渚は知っている。凪原には想い人がいて、きっと自分の気持ちにも気がついている事を。そして、自分が決定的な一言さえ言わなければ、今の関係が続く事も分かっている。
「そう言えばさ、一緒に食べようと思ってあたし味見もしてないんだよねぇ」
そう言うと、頬杖をついたまま、雛鳥の様に、小さな口を大きく開ける。
時は昼休み、場所は教室。凪原は一瞬躊躇するが、ザッハトルテを黄泉辻の口に運ぶ。
もぐもぐ、と何度か咀嚼していると、自然と口元が蕩けていく。きっとそれはケーキのせいだけではない。
「えへへ、おいしいね」
「作ったのお前だけどな」
教室の後方見つめるまほらには、その光景はあまりにも眩しく、羨ましく映った――。
――そして、放課後。
結局部室でも渡すことのできなかったまほら。時は既に最終局面。手に持つ保冷バッグから、おそらくチョコを持っているだろうことは既に凪原にも分かっている。
勘違いでなく、今年もチョコをくれると言った。まだ貰っていない。と言うことは、バッグの中身がそれである、と思うのはあまり飛躍した推理では無いだろう。
「なぁ、まほら。そのバッグ、何入ってんの?」
まほらの性格を加味して助け舟を出してみる凪原。
「あなたには関係ないわ」
「え、ないの!?」
予想外の答えに凪原は驚きの声を上げる。もっとも、言ったまほら自身も内心動揺を隠しきれない。
(ば、ばかなの!?なんで折角凪原くんが助け舟を出してくれたのにそんなこと言っちゃうの!?)
まほらは不満げにむっと口を結びながら凪原の袖を引く。
「やり直し。やり直しを要求するわ」
凪原は「しょうがねぇな」とでも言わん顔で、再び保冷バッグを指差す。
「それチョコだろ?くれよ」
「えっ!?あっ……」
イメージした答えでなかったので言葉に詰まり、まほらはその場で地団駄を踏んで憤慨する。
「もうっ、ちゃんとやり直してよ!」
二人は川沿いの遊歩道を歩く。
まほらは立ち止まる。胸に手を当て一度深呼吸をする。そして、意を決して、保冷バッグを凪原に差し出す。
「……司くん。これ、バレンタインチョコ。私と……、二年前の私から。受け取って」
「二年前って――」
事故の後、高校入学前。二人の会えない時間。
まほらはこくりと頷く。
「用意してたの。……渡せる訳ないって分かってたけど、ガトーショコラ。結局一人で食べちゃった。なーんの味もしなかったけどね」
ベンチに座り、まほらはバッグを開ける。その表情は真剣そのものだ。
「だから、今度こそ……って思って、ガトーショコラを作ったんだ。すっごい上手にできたから、きっと司くんもびっくりする――」
凪原の驚く顔を想像して、期待と自信に満ちた顔でバッグを開く。すると、箱を開けて現れたのは昨日の美しいケーキとは似て非なる、斜めにひしゃげたガトーショコラだった。崩れた表面は、べったりと箱の内側にくっついてしまっている。冷蔵庫から出してから、長時間持ち歩き、たくさん揺らしたからだ。
「あ……」
思わず涙が溢れそうになるが、泣くわけにはいかない。ただでさえ最近涙脆い自覚がある。ここで泣いてしまったら、この後の全てが同情に変わる。――そんなのは嫌だ。
グッと一度強く口を結び、できる限りの笑顔――困り笑いで箱を差し出す。
「これが今の私の精一杯。……め、召し上がれ」
歪なケーキが自身と重なり、どこが愛おしくすら感じてしまう。
凪原はまほらを見て、少し嬉しそうに、フォークも使わずに、どこか楽しそうに、おもむろにケーキに手を伸ばし、口を開いてそれを迎える。
凪原の咀嚼が終わるのを、まほらは最後の審判を待つ気持ちで見守る。
そして、食べ終えた凪原へと問いかける。
「どう……?」
凪原は困り顔で首を横に振る。――瞬間、大袈裟でなく世界の終わりが訪れた様な気がした。
だが、次の瞬間。凪原はベンチに座りながら、まほらに向かい手をつき頭を下げる。
「参りました」
予想外の反応にまほらはキョトンとする。
「え?なに?」
凪原は顔を上げて苦笑い。
「んー、……なんて言えばいいんだ、これ。うまい?いや、うますぎる?とにかく、……食えばわかる。ビックリするから。はい、おひとつどーぞ」
凪原はケーキをフォークに刺し、まほらの口元へ運ぶ。まほらは躊躇いながらも口を開き、ケーキを頬張る。ひと噛み毎に、口の中に広がる芳醇でとろける様な重厚な甘みの渦。
まほらは満面の笑顔で凪原を見る。
「……おいしいね、司くん!」
「だなぁ」
満足げに口をゆるめる凪原の口へ、今度はまほらがケーキを運ぶ。
「生まれて初めて……、ケーキを作ったの」
「それでこれはすごいな。天才過ぎる」
運ばれたケーキを一口食べて、凪原は答える。
まほらは、フォークに残った半分欠けたケーキを少しの間じっと見ると、躊躇いがちにパクリと頬張る。
そして、照れくさそうに凪原を見てまた笑う。
「……それ、俺の」
凪原が照れ隠しに苦言を呈すると、まほらは悪戯そうに手で口を隠す。
「ふふっ、食べちゃった」
遅れて届いた二年前の贈り物は、少し歪で、それでも確かに凪原に届いた――。




