100号キャンパスに絵を描いて
「ねぇ、凪原くん」
三学期の初め、放課後帰宅部の部室。和泉まほらは上座に位置する専用席で足を組み、凪原をじっと見る。
「はい、何でしょうかね。まほらさん」
まほらは床を指さす。床には真っ白で大きなキャンパス。
「絵を描きなさい」
「え?」
「そう。早くね。下校時刻までに描けるわね?」
凪原はいつの間にか床に置かれていた巨大なそれをチラリと一目見てから、あきれ顔でまほらを見る。
「あのー、言ってる意味がいまいち理解できないんですが」
「一から十まで伝えなきゃわからない?」
「十とは言わないまでも、せめて三くらいは教えてほしいっすね。俺顔回じゃないんで」
――顔回。一を聞いて十を知る、の故事成語の語源の人物。
凪原の答えを聞いてまほらは嬉しそうに目を見開き、表情を明るくする。
「あら、意外に博識ね」
まほらは満足げに目を閉じ、人差し指を立てて言葉を続ける。
「絵を描きなさい。そのキャンパスに。私に向けて。わかった?」
「……うえぇ、なんだよその無茶振りは。せめて理由を教えてくれ、理由を」
その言葉が気に障った様子で、まほらは頬杖を突き、冷たい表情で凪原を睥睨する。
「下僕が主人に絵を贈るのに理由がいるの?変ねぇ、黄泉辻さんにはあげたのに?私には理由がいるんだぁ?」
「何言ってんだよ、黄泉辻に絵なんてあげてねーよ」
怪訝な顔で凪原は抗弁をする。彼としても嘘をついているつもりはない。半年前に委員会活動で描いたポスターを欲しいと言われた。黄泉辻渚はともかく、彼にとってそれは然して大きな事件ではない。照れ隠しでもなんでもなく単純に覚えていない。
だが、それはまほらからしたら悪質な隠ぺい行為以外の何物でもない。まほらは凪原を指さし強く糾弾する。
「あーっ、嘘!嘘ついた、今ぁ!明白なのに!真っ赤な噓!バレバレのウソなのに!」
「ついてねぇよ。何言ってんだ、本当」
会話は平行線。真実を知っているまほらとすれば、凪原がしらばっくれているとしか思えない。むっと頬を膨らませ、恨みがましい視線を凪原に送る。
「黄泉辻さんが好きならそういえばいいじゃない。だからあげたんでしょ?私にはこんなに頼んでも描いてくれないのに」
まほら自身、面倒くさいことを言っている自覚はある。だが、言葉は、感情は止まらない。
凪原は大きくため息をつくと、そのまま何も言わずにドアに向かう。さすがにまほらもさぁっと血の気が引く。
「まっ、待って!違う――」
凪原はそのまま帰宅部の部室を出て行ってしまう。
椅子に座って左手を伸ばしたまほらは、そのままの体勢で何秒か固まってしまう。視線の先には白いキャンパスが床に広がっている。
まほらは伸ばした左手で胸をぎゅっと抑える。胸が苦しい。心臓の鼓動が早まる。――怒らせてしまった。どうしよう!?
まほらは、今まで友人がいたことはなかった。だから、誰とも喧嘩をした事はなかったし、仲直りの経験も無い。誰かに悪意を持たれる事は喧嘩ではないし、凪原と結んだ下僕契約だって仲直りでも何でもない。
誰かと関係を結んだ事がないから、壊れた時の直し方もわからない。
何を言っても許してくれたし、何を言っても許してくれると思ってしまっていた。現実的に考えると、彼にそれをするメリットは何一つないにも関わらず。
まほらは椅子の背もたれに深く頭を乗せ、天井を見上げると、空に届けとばかりに大きく、長く息を吐く。(……そうよね、普通に考えれば私と黄泉辻さんを比べたら黄泉辻さんを選ぶに決まってるわ。あの子はかわいいし、素直でとてもいい子だもの。それはそうよ、それはいい……、当り前よ)
さみしそうに微笑みながらポケットを探り、スマホを取り出す。両手でスマホを操作して、文字を打つ。
『ごめんなさい』
わずか六文字。言い訳も、許しを請うのも後の話。悪い事をしたと思ったのだから、まずするべきことは謝る事。まほらは自らの背を押すように小さく一度頷き、震える手で送信ボタンを押す。
すると、間を置かず部室のテーブルに置かれたままの凪原のスマホがブブっと揺れた。凪原のスマホはそこにある。
部屋を出て凪原を追う事はしない。スマホがあるのならそのまま帰るという事はないだろう。一度ここには戻ってくるはず。
豪華な椅子に深く身体を預け、くるくると椅子を回す。世界が回る。目を閉じると、世界は消える。それでも回る。
まほらは、自身と凪原の関係がこんな些細な事で終わる物でない事を誰よりよく知っている。終わるのであれば、事故のあの日に終わっていた。高等部に上がる前に終わっていた。それでも、人付き合いに乏しい彼女には実感は無いが、人の気持ちは変わる、――と言う事も知識としては知っていた。
気が付くと目から涙がこぼれ、椅子の遠心力により飛んでいく。――あぁ、何だか最近泣いてばかりだ。この夏に、凪原家を訪れるまでは、一度も涙などでなかったのに。
ガラッ!とドアが勢いよく音を立てて開き、まほらは回転する椅子の上でビクッと大きく身じろぐ。
ドアを開けたのは両手に画材を山ほど抱えた凪原。回るまほらを見て目を丸くする。
「何やってんの?」
その様子はいつも通りで、怒っている素振りなどみじんも感じられない。
「……ちっ、地球の自転が遅いからちょっと足してたのよ。追い自転ってやつね」
気づかれないように目元をぬぐいながらまほらは口をとがらせて反論すると、荷物を置きながら凪原は苦笑する。
「なんだそりゃ。聞いたことねーよ、そんな単語。相変わらず奇人だな」
まほらはいつもの様にあきれ顔で髪をはらう。
「ガリレイもきっとそうやって笑われたのね。それで?勝手にどこに行ってたの?」
凪原は画材をキャンパス周りに広げながら、制服のブレザーを脱いでシャツの袖を捲る。
「ん?美術部に画材借りに行ってたんだよ」
その言葉にまほらはきょとんとした顔で首を傾げる。
「描いてくれるの?」
「ご主人様の命令っすからねぇ。つーかさ、黄泉辻のやつは絵をあげたとかそんな大層なやつじゃねーだろ。ただの美化委員のポスターなんだから。忘れてたよ」
まほらが凪原を糾弾するさなかに、クリスマスの日廊下に名画に混ざって飾られていた事を思い出して、ようやく『あ、アレか』と思い至った。なので、あの時黄泉辻がしたように、美術部に画材を借りに行った次第だ。凪原は最初からこれっぽっちも怒っていないし、そもそも彼は自分の事程度では怒らない。そんなメンタルでは暴君の従者は務まらない。
さて、何を描こうかと、腕を組んで構想を練る凪原の後ろ姿を見てまほらは嬉しそうに微笑む。
「……ねぇ、司くん。やっぱりもっと小さい絵でいいよ?せっかく描いてもらってもこのサイズの絵を持ち帰ったら、きっとお父様に処分されちゃうから」
凪原は腕を組んだまま振り返る。
「だよな?俺もそれ思った。黄泉辻の家がおかしいよな?親はなんも言わねーの?」
まほらは手を口にあててクスクスと笑う。
「言わないって言ってたよ」
「へぇ、金持ちの美的感覚はわからんね」
借りてきた画材の中からあの時描いたポスターと同じA2サイズの画用紙を取り出すと、椅子に座るまほらをじっと見る。
「……な、なに?」
描く題材の着想を得た凪原はニッと笑う。
「オッケー、じゃあしばしお待ちを。女王陛下」
凪原は絵を描く。お世辞にも上手とは言えない、子供のような絵。
まほらは椅子に座り、その背中を眺めて微笑む。窓の外から入り込む光は少しずつ減り、やがて蛍光灯の灯りだけが室内を照らす。冬の日暮は早い。
まほらは飽きずにずっと凪原の背中を見つめ、見守る。どんな絵ができるのだろう?とワクワクした気持ちが自然と足を揺らせる。
最終下校時刻は午後六時。その少し前に、凪原は「出来た」と声を上げた。
「本当?見せて」
椅子から身を乗り出すまほらを凪原は手で制する。
「待った。……一応真面目に描いたんだから、笑うなよ?」
「笑わないけど?」
美化週間の二枚を思い出すが、あの時と違いまほらは凪原に「絵を描いて」とお願いをしたのだ。まさかそんなネタは投下してこないだろう、とまほらはたかを括る。
「じゃあ、はい」
凪原は完成した絵をまほらに見せる。黒髪のおそらく女性が、多分椅子に座り、もしかすると足を組んでいる。そして、お馴染みの吹き出しには『私の勝ちね』と書いてある。
まほらはその絵を見て、ハッと雪が瞬時に溶けたかのように満面の笑顔になる。
「私だね」
その表情を見て、凪原は急に照れ臭くなる。
「……笑わないって言っただろ」
「あ、そっか。……ふふふ、ごめん。嬉しくて、つい」
絵を両手で掲げ、蛍光灯に照らすようにまほらは眺める。
「さ、……さて、そろそろ片付けて帰りますかね」
凪原がスマホを開くと、まほらからのメッセージ。『ごめんなさい』
「まほら、これって――」
「――なっ!」
広角で鋭敏な周辺視を持つまほらは、瞬時に状況を察知。そして、その明晰な頭脳を以て、最適解を模索する。
流れるような所作で絵を丁寧に置くと、速やかにスマホで高速に文字を打つ。
凪原のスマホがブッと揺れる。まほらからのメッセージ。『が、聞こえない。』
「は?」
続けて読むと、『ごめんなさいが、聞こえない。』
凪原が顔を上げると、まほらは真っ赤ら顔で凪原を指差す。
「送り忘れてたのよ!私に何も言わないで部屋を出て!不安にさせたのを謝りなさいって言ってるの!」
「……なんたる理不尽」
と、呟いて凪原はある事に気がつく。
「不安になったの?もしかして俺が怒って出てったと思った?」
「全然思ってませんけどぉ!?」
そんなやり取りをしているうちに、最終下校時刻のチャイムが校内に鳴り響く――。
大急ぎで片付けをする二人。共に笑顔はもう隠すつもりもない。




