過去編① 鯉が揺らした池
――六年前。
当時は裕福だった我が家の池には何匹かの鯉がいた。両親のいない俺の親代わりである祖父の来客があったある日、俺と同じくらいの歳の女の子が池のほとりにしゃがみこんで鯉を眺めていた。長い黒髪を後ろで結わえた彼女の横顔は人形のように美しかった。――それが、和泉まほらだった。
まほらは水面に指を近づけ、口をパクパクさせる鯉を見て楽しそうに微笑んだ。
当時小学五年。中学年男子によくある女子嫌いから一周して、女子が気になりだすお年頃でもあり、自分の家と言う空気感も後押しして俺は意を決してまほらに話しかけた。
「よかったら餌とかあげる?」
すると、彼女は薄い茶色の瞳をキラキラと輝かせて振り返る。
「いいの?」
「あ、あぁ。もちろん。ちょっと待ってて。すぐ持ってくるから」
おそらく赤くなっただろう顔を隠すように踵を返し、急ぎ家に向かう。
「はい、これ鯉の餌。あげた事ないならきっとびっくりすると思うよ。ほら」
家から持ってきた大容量パックの鯉の餌をまほらに掲げる。
「うん……!」
まほらは両手をお皿にして鯉の餌を受け取る。
「一個ずつ?」
チラリと振り返り、期待を込めた目で俺に尋ねる。その無邪気な表情に、自然と笑みがこぼれた。最近は鯉に興味も持たなくなっていたけれど、家で鯉を飼っていて、よかったと心から思った。
「最初は一個ずつがいいんじゃない?」
「うん、わかった」
まほらは手から餌を一粒つまみ、水面へと近づける。すると、その瞬間、餌を求めて無数の鯉たちが水面に顔を出して口を開いた。
「わわっ」
驚いたまほらが後ずさりした拍子に、手に残っていた餌がばらばらとこぼれ、水面へ落ちていく。
その瞬間——池が暴れ出した。
鯉たちは我先にと水をかき分け、バシャバシャと水しぶきをあげながら激しく跳ね回る。大きな口をぱくぱくと動かしながら、必死に餌を奪い合っていた。
「わっ、わっ」
「……っははは!すごいだろ?冷てっ」
「あはは、うん!すごいね、かわいいね!」
鯉の池のほとりには御影石で作られたベンチがあり、俺とまほらは並んで座り池を眺める。
「あの小さいのは子供?」
まほらが指さす先には鯉より一回り小さい赤い魚――、金魚が泳いでいた。
「あれ金魚だよ。俺が何年か前に祭りで取ったやつ。勝手に池に放したら爺ちゃんにすげぇ怒られた」
「えっ!?金魚ってあんなに大きくなるの!?」
まほらは口元に手を当てて目を見開く。彼女の知る金魚とは夏祭りの袋に入った小さな金魚であり、うちの池の金魚はまほらの靴ほどもある——二十センチくらいの大きさだった。
「すごいねぇ」
俺は自分が褒められた様な錯覚に誇らしくなる。
「すごいだろ」
それから少しして、母屋の扉が開き女性の声がする。
「まほらー、帰りますよー」
「――あっ、お母様!今行きまーす」
声の主はまほらの母だったようだ。後で知ったところ、政治家の娘であるまほらは、選挙の応援依頼でじいちゃんの元を訪れていたらしい。
「あっ、あのさ!」
まほらがベンチから立ち上がろうとしたそのとき、つい思わず声を上げた。まほらは驚いたように振り返ったが、すぐに微笑んだ。
俺も立ち上がる。そして、照れくさくて視線も合わせられずに、照れ隠しに頭を掻きながらぎこちなく口を開いた。
「俺、凪原司。ま、……また来なよ」
まほらは花が咲くような満面の笑顔で頷く。
「うん!私、和泉まほら。またね、凪原くん!」
「うん、……またね。和泉さん」
まほらは手を身体の前に合わせて礼儀正しく一礼をすると、どこか照れたように笑って母の元に駆けていった。
池のほとりには静けさが戻る。池の鯉はまだ餌を求めて水面を揺らす。まほろの後ろ姿を見つめる俺の心は、きっとその水面の様に激しく揺れていた。
その夏、二人は夏祭りを訪れる。