水槽の金魚
――8月下旬。和泉邸。
「お嬢様」
壮年の男性使用人が和泉まほらに手を差し出す。用件は告げられない。不定期に行われるスマホチェックだ。
まほらも無言でスマホを手渡す。
前述のとおり、よっぽど怪しいものでなければチャットの記録は見られない。だが、まほらは念を入れて帰宅する前に凪原司とのチャットログは全て削除する。見返してニヤニヤしたいやり取りがある事もある。だが、全てを削除する。この歪な関係を守る為に。
「結構でございます」
使用人からスマホを手渡され、内心胸を撫でおろす。
「今日はお父様いらっしゃるのね」
「えぇ、地方選ですが、念の為神祇本庁の方にも手を回したいとの事で統理を屋敷に呼ばれたようです」
「あら、そう。そう言えば、今の統理の方にはご挨拶をしていなかったわね。後で私もご挨拶させていただいてもいいかしら?」
神祇本庁の言葉を聞いてまほらは胸の奥がささくれ立つ様にざわつくのを感じる。
日本家屋の長い廊下を歩き自室に向かう。庭はまるで森や林の様に木が茂るが池はない。だから庭で金魚は飼えない。
廊下を歩きながらまほらは思案する。父・秋水は選挙の際に神祇本庁に票の取りまとめを依頼する。昔、母とともに凪原家を訪れていたのがそれだ。だが、今の統理は出向くのではなく、呼びつけているようだ。恐らく、『格』とでも言うのか、7期に渡り統理を務めた凪原典善を屋敷に呼びつけるなどと言う事はさすがの父でもできなかったのだろうと考えられる。だが、自身が出向くのもプライドに障る。妥協案として、母とまほらが出向いたのだろうと考えて納得する。今となってはその小さなプライドに感謝する。
自室に戻り、挨拶に合うようなフォーマルな衣服に着替える。髪を整え、薄く化粧をする。そして、右頬に触れる。
準備が終わると、立ち上がって部屋の隅にある小さな水槽に向かい餌をあげる。中には金魚が一匹だけ元気に尾を揺らして泳いでいた。池では無く、小さな水槽で泳ぐ金魚。
餌をあげ終えると、なぜか急に寂しくなる。
「……司くんに会いたいなぁ」
小さく一度だけそう呟く。
先週水族館に行ったばかりなのに寂しさから呟く。思い出すと水族館は本当に楽しかった。まさか、あんな高層ビルの一角に、まるで海底の様な世界が広がっているとは夢にも思わなかった。何度も、何度も、閉館まで回ってしまった。
許可を得て応接室に出向く。
「失礼いたします。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。和泉秋水の長女、まほらと申します。どうぞ、父にお力添えよろしくお願いいたします」
畳張りの和室の応接室。目の前に胡坐で座る肥えた初老の男性に、まほらは座を正し、叩き込まれた流麗な所作で礼を行う。
「おぉ、これはご丁寧に。わたしゃ神祇本庁つーとこの統理をやっとる安眞木つーもんですわ。わはは、それにしても美しいお嬢さんだ。秋水さんもお鼻が高いことでしょうな」
安眞木と名乗った男性の向かいに座るのがまほらの父・秋水。秋水は『美しい』の単語に反応して、チラリと冷たい視線をまほらに送る。まるで、『これが現実だ』とでも言わんばかりに。
まほらは澄ました顔で正座をしているが、心の中では『ブタ!』を連呼している。
挨拶を終えても礼儀としてしばし同室する。世間話に相槌を打ったり、お茶のお替りを淹れたり。
「安眞木さんが統理に成られて大分風通しがよくなったみたいですな、神祇本庁は」
「あぁ、それはもう秋水さんのお力添えがあっての事ですわ!……やっぱり権力にしがみつく老人程醜いものはないですからなぁ。ワタシも自戒せんといけませんよ。今までどんだけあの爺さんが若い芽を摘んできた事か。ワハハハ」
神祇本庁の最高責任者・統理。前統理は、凪原司の祖父・典善だ。下品な笑い声で、卑しい声で、典善を侮辱する安眞木に、もはやまほらは大げさでなく殺意に似た感情すら覚えた。だが、その感情は決して表に出すことはない。ただ、心の中で、安眞木が喋るに合わせて『ブヒブヒ』と豚の鳴き声を呟く。
「それでは失礼いたします。安眞木様、重ねて父へのご尽力をどうかよろしくお願いいたします。それでは、どうぞ心安らかなひと時をお過ごし下さいませ」
思わず安眞木が見惚れる様な美しさと微かな香りを残して、まほらは退室する。
父・秋水が在宅の時はご機嫌伺いや支援依頼または陳情に多くの人が訪れる。もっとも、わざわざ自宅で行われる密談は後ろ暗い物が多い。
「まほら」
応接間の扉が開き、秋水が顔を出す。
「何ですか?お父様」
「近くまで来たからと、遥次郎君が寄ってくれるらしい。洋間の方で待っていなさい」
その名を聞いて一瞬まほらの表情が揺れかけるが、水面は静かなままだ。
「あら、そうですか。ふふ、それは嬉しいですね。わかりました」
玖珂遥次郎。歳はまほらの10歳上の27歳。玖珂三月の兄であり、現役総務大臣玖珂俊一郎の次男。まほらの婚約者だ。
現在は政治家を目指し、父・俊一郎の秘書をしている。だが、父の地盤は現在参議院議員である長兄・鋼太郎が継ぐ為、政治家を志すものの彼には地盤が無い。玖珂家と縁も因縁も深い和泉家と縁談を結び、ゆくゆくは秋水の地盤を継ぐことになるのだろう。
和泉家に男子が生まれていれば、この縁談はあり得なかったものだ。
まほらはまるで、監獄にでも閉じ込められたような感覚で、洋間の応接室で時を待つ。
心を殺しているので、どれだけの時間が経ったのかはわからない。三分かもしれないし、二時間かもしれない。
とにかく、まほらは心を殺して時を待つ――。
ドタバタと足音が聞こえたかと思うと、洋間の扉が無遠慮に開く。
「まほらちゃん!急に来てごめんな!せっかく近くまで来たから少しでも顔が見たくてさ!」
ラガーマンぽい大柄な体格で、髪をオールバックにまとめた、声の大きく自信家な雰囲気のある男性。ややたれ目気味の整った顔と白い歯が印象的だ。
「遥次郎さんもお忙しいのに……。お越しいただき感謝しています。今、お茶を淹れますね」
「あー、俺に固い話し方しなくていいよ。婚約者なんだから。俺は父さんや秋水さんみたいに固いこと言うつもりはないからさ。現代的に行こうよ、ははは」
まほらは遥次郎に近づき、お茶を注ぎながらニコリとほほ笑む。
「遥次郎さんは優しいですね」
「そんな事ないよ」
遥次郎は朗らかに笑い、お茶を口にする。
「うまい!やっぱりまほらちゃんの淹れるお茶が一番うまいな。君と結婚する男性は幸せだろうなァ。おっと、俺か。ははは」
まほらは微笑みながらも、『毒でも入れればよかったかなぁ、死なないまでも、死ぬほど苦しむやつ』と内心舌打ちをする。
「う~ん……」
遥次郎はカップを片手にまじまじとまほらの顔を見る。見られている方は意外に視線に敏感だ。それは目ではなくもう少し下……、右頬を見ていた。
「やっぱり見てるだけじゃわかんないか」
遥次郎は無造作に手を伸ばす。その手はまほらの右頬に無遠慮に触れ、撫でる。
その手はゾリ、とやすりのようにまほらの心を削る。
「顔、治った?うまく隠せてるよなァ。やっぱ女は化粧か。あ、まほらちゃんはもともと美人だけどな。整形とかでキレイにできるんじゃないの?金なら出すからさ。やっぱり、ちゃんときれいにしとかないとね。女なんだから」
それは、悪意でなく本人からすれば純粋な善意からの言葉。いうなれば、独善だろうか?こみ上げる吐き気をこらえながらも、まほらは笑顔で地獄の20分を終える。
「ちょっと散歩に行ってきます」
遥次郎の車を見送った後で、まほらは使用人に断り家を出る。スマホを操作して、足早に角を曲がり、大通りに出るとアプリで呼んだタクシーに乗り込む。目的地はタクシーで15分――。
「典善さぁん!ブタが悪口言ってたぁ!」
凪原家に入ると、まほらは子供の様に典善に愚痴をこぼす。
「おぉ、まほらちゃん。よく来たね。ブタってあれじゃろ?安眞木じゃろ?」
「そう!よくわかりますね!」
「ま、ブタの方が遥かに可愛げがあるがの」
何の連絡もなしの急な来訪。急に聞きなれた声が下から聞こえてきたので、凪原がのぞきに来る。
「うわ、まほらじゃん。どうした?急に」
「むかつく事があったから飛んできたの。も~、疲れたぁ」
凪原はまほらにやさしく微笑む。
「何があったかは知らんけど、お疲れ」
「そう、お疲れなの!お茶淹れて、司くん。司くん、お茶」
いつもと違う司くん呼びでのお茶。これはまほらの悪ふざけだろう。
「はいはい、今淹れますよっと」




