過去編④ 幸せなことばかりの日
中学三年、一学期中間テスト――、182人中39位。同期末テスト、29位。凪原司は順調に順位を上げていった。もともと頭は悪くなかった様子で、和泉まほらと言う優秀な家庭教師の存在もあり、みるみる結果を残していく。夜は毎日3時に寝て、朝は6時に起きる生活を続けた対価として得た成果。
「まほらは?」
「ん?普通に一位だけど」
テストの復習がてら凪原が問うと、まほらはまぁ当然とばかりに答え、凪原はパチパチと拍手をする。
「すげぇよなぁ」
「ふふん、ご褒美もらわないとね」
「じゃあ、お茶でいいっすかね」
凪原はあくびをしながら自販機に向かう。平日の睡眠時間は3時間。土日は少しまとめて眠る。ただでさえあり得ない事をしようとしているのだから、そのくらいの代償は当たり前だと彼は考える。
その凪原の様子をまほらは心配そうに眺める。
「司くん、大丈夫なの?……もう少しちゃんと眠ったほうがいいよ?」
「まぁあんまりやばかったら寝るし、割と慣れてきたから平気だよ」
凪原からすれば、幾つもの習い事の類を並行して行っているまほらの方こそなぜ睡眠時間が確保できているのか不思議でしょうがない。もしかしたら彼女の一日は24時間ではないのか?と本気で考えそうになる。
凪原の家とまほらの家は距離にして14キロ程度離れている。互いの最寄り駅だと知り合いにみられることもあるので、会うときは中間地点で会うことが多い。この日もそうだった。図書館だと会話ができないので、その前に公園のベンチで世間話。Rhineのビデオ通話は頻繁に行ってはいるものの、やはり直接会っての会話には敵わない。
声や、表情や、匂い、そしてまほらの纏う画面越しでは表せない空気感が今の凪原の動力源だ。
「睡眠不足に慣れはないから。睡眠負債って言葉知らないの?」
「初耳っすね。なんかヤバそうなのはわかるけど……」
凪原の言葉にまほらはコクリと頷く。
「そうよ。だからちゃんと眠れる時に眠った方がいいと思うな」
まほらは一瞬言葉を飲み込みながらも決意を固めて、ベンチに座る自分のスカートをポンポンと叩いて何かを誘う。
「た、例えば……。ねぇ?」
かなり踏み込んだ積極的な行動。
「え」
行動の意図は明白だ。まほらは赤い顔でじっと凪原を見る。
「あ、じゃあ。お言葉に甘えて」
凪原としても当然やぶさかではない。冗談、と言われたり照れて『やっぱり無し!』と言われる前に錆びたロボットのような動きで頭部をまほらの膝の方へと動かす。
7月上旬。制服はしばらく前に半袖に変わり、ベンチを覆う木陰からは少し早い蝉の声が降り注ぐ。
凪原の頭はまほらの膝の上。互いの心音が身体を揺らすほど大きくなる。
「お休み。ちょっとしたら起こすからね」
「ん」
まほらはいつもより距離の近い凪原の顔を見て真っ赤な顔ではにかみ、凪原の目をハンドタオルで覆う。
「見えないんだけど」
「うん、おやすみ」
まほらはクスクスと笑う。
――眠れるはずないだろ。凪原がそう思ったのは束の間、少しして規則正しい寝息が聞こえてきて、まほらは一度凪原の頭を撫でた。
木々に遮られる初夏の光を眺めながら、まほらは凪原の頬を撫でる。頬は少し汗をかいていた。あぁ、自分の人生でこんなにも満ち足りた時間が訪れるのか、と半ば他人事の様な感慨にふける。
政治家の家系として、男子を望まれ、勉強も、運動も、芸事も、どれだけ成果を出したとしてもそんなものは望まれてはいなかった。一番をとっても褒められないが、一番を取れないと蔑まれる理不尽。もし、自分が男子だったら――。母もあの家で、もっと笑って幸せに暮らせたのか?と何度も思った。
すげぇよなぁ、と凪原は素直に褒めてくれた。もしかすると、それは当たり前の事なのかもしれないけれど。
来年からはもっとこんな時間が続くのかと思うと、なぜだか足をじたばたと動かしたい衝動に駆られるが、折角眠った凪原が起きてしまうのでぐっと堪える。
毎日三時間しか寝ていない。そんな生活でこれから9か月もつはずがない。どう考えてももっと睡眠が必要だ。
「……たまに膝枕してあげないとね」
眠る凪原をいいことに、まほらは一人呟きクスクスと笑う。
このままずっと、いい事ばかりが続けばいいのに――。
一時間もしないうちに凪原は目を覚ました。もう少し具体的に言うと、その少し前から目を覚ましていた彼は狸寝入りを決め込みながらまほらの方へと寝返りを試み、彼女に手で制止された。
「……おはよう、司くん」
「はい、おはようございます。まほらさん」
「あのね、そんな事してるともうしてあげないからね」
まほらが苦言を呈すると、凪原は驚きの声を上げる。
「え、……またしてくれんの?」
「……それは、まぁ。頑張ってる、し……」
そっぽを向き、口をとがらせながら小声でまほらはつぶやく。
夏至に至る前、夕暮れ過ぎでも日は長い。凪原は立ち上がり、背伸びをする。
「ん~、おかげ様でぐっすり眠れたよ。さんきゅー」
「無理はダメだからね、本当。まだ先は長いんだから」
「だな。気を付けるよ」
凪原は一度あくびをする。額に汗をかいている事に気が付き、まほらはハンドタオルで汗を拭った。
そろそろ二人は帰宅の時間。互いの自宅からの中間点。それぞれの帰宅となる。
「それじゃ、気を付けて帰れよ」
凪原は駐輪場で自転車を出して、まほらにヒラヒラと手を振り別れの挨拶をする。
――今日はいいことばかりの幸せな一日だった。だから、手を振り返そうとして、名残惜しさを感じてしまう。
「ねぇ、自転車。ちょっと後ろ乗せてよ」
サドルの後ろの荷台を指さして、まほらは言う。もちろん、自転車の二人乗りがいけないことだということは知っている。
「何でだよ、やだよ。普通に危ないだろ」
極めて常識的な反応の凪原。いつものまほらなら引き下がったかもしれない。でも、この日は違った。いつもより、少しだけ彼女は積極的だ。
「私の膝には乗ったのに?」
後ろ手に組みながら、挑発的な表情で凪原の顔を覗き見る。
「それは……、まぁ」
腕を組み、首をひねって少し葛藤した後で、凪原は諦めた様に息を吐く。
「じゃあ、少しだけだぞ」
まほらはにっこりと笑う。
「うん」
サドルにまたがり、バッグを前かごに入れ、まほらは荷台に横向きに座る。
「ちゃんと掴まってろよ」
「はーい」
まほらは凪原の身体に手を回し、自転車はゆっくりと出発する。目的地はまほらの最寄り駅へと向かう駅まで。
道を行く自転車の振動に、凪原は背中に柔らかいものを感じたが、口には出さなかった――。




