過去編③ 恋
「じいちゃーん、俺高校私立受けていい?」
帰宅してすぐに凪原司は祖父凪原典善に聞いてみる。凪原は現在公立中学に通っており、小学校も勿論公立だ。
「んお?そりゃもちろん構わんぞ。お前一人私立に送るくらいのたくわえはあるわい。年金もあるしのう。で、どこかいい学校を見つけたんか?どこかのう」
凪原はこたつのテーブルに頬を乗せつつ、学校名を思い出す。確か――。
「んー、こうこくかん?」
その名を聞いて典善はお茶を盛大に噴き出す。
「こーこくかんっ!」
「うわ、何だよ急に。自分で拭けよな」
何度かゴホゴホとむせながら、典善は疑惑の眼差しを凪原に向ける。彼の中で点と点はつながった――。私立鴻鵠館高校は初等部・中等部の内部入学が9割を占め、一般入試の外部受験は偏差値70を超える超難関。そして、凪原は昨日『じいちゃんって偉い?』と聞いてきた。そこから導き出される答え。
「……ばあさん、美琴。まさか司が裏口入学をせがんでくるとは、……育て方間違ったかのう、やっぱりジジイ一人じゃ無理じゃったのか」
家が神社であることから、彼らの家には仏壇はなく、祖霊舎(仏教で言う所の仏壇)に手を合わせて孫の悪行を嘆く。美琴とは、典善の娘であり凪原の母。数年前に病で他界している。
「裏口入学!?どっから出てきたその単語。じーちゃんが聞いたから答えただけだろ!?」
事態が掴めず慌てて弁明。典善は祖霊舎に手を合わせたまま、未だ半分疑惑のまなざしを凪原に向ける。
「……裏口入学では、ないと?」
「決まってんだろ。いくら何でもそんなズルしねーよ」
それを聞いて典善は笑顔で大きく安堵の息をはく。
「じゃよね~。寿命縮まったぞ。ま、ワシは最初っからお前を信じとったけどな」
「どの口が言った?」
凪原は白い目で祖父を見る。
一旦お茶を淹れなおして仕切り直し。
「まぁ、お前がチラチラ見てまほらちゃんからの連絡を待っとるそのスマホで調べりゃわかることじゃが――」
「見てねーよ」
典善は無視して話を続ける。
「まず、高等部の一般入試は偏差値70越え。学費等掛かるお金は三年間で800万超。国内有数の難関校であり、名門校じゃ」
「……まじか」
門を見た感じから明らかに名門校とは思っていた。だが、それは凪原の想像を超えるものだった。
「金の方はまぁちゃんと貯めとるんで心配はするな。他に自分の学力にあった学校だったらどこでも好きなところを」
「いや」
凪原はスマホに映る鴻鵠館高等部の写真を見つめる。おそらく瞳に映っているのはそれではない。まほらと自分が通う姿か。
「行くって言ったから。俺、嘘つきにはなりたくないから」
「ほっ」
典善からつい歓喜の声が漏れる。
「残り一年でどうにかなるのか?」
挑発的な笑みを向けると、覚悟を決めた凪原は頷く。
「あと一年もあるんだろ。死ぬ気でやって見せる」
「よし、ならばワシの財布も火を噴くぞい」
典善もにやりと笑う。
凪原の言葉に偽りはなかった。一般的な公立中学校でさえ、凪原の成績は中の下程度だった。真面目と言うほどではないが、不真面目でも決してなく、要領の良さは持ち合わせるものの、それは手を抜く方向にのみ発揮される事が多かった。若者の多くにあるように、勉強をする事に意味を見いだせず、何のために頑張るのかわからなかった。
でも、今は違う。まほらと同じ学校に行く。確固として明確な目的がある。傍から見たら軽薄でバカみたいな理由。それでも、あのまほらの嬉しそうな笑顔は、彼の心に火を灯した。まだ名前のない感情は、激しく燃える。中学2年、2学期末テストは、学年180人中108番だった。
朝起きる時間が1時間早くなった。眠る時間が2時間遅くなった。今までよりリビングで談笑する時間が減った事を典善はさみしく思うが、今までに見たことのない孫の熱意が本当に嬉しく感じられた。どんなやり取りがあったのかはわからないが、たったの一言二言でこれだけ人を変える事ができるまほらに感心するとともに深く感謝した。
3学期の期末テストは180人中49番だった。
中学三年に進級。季節は春。タイムリミットは、残り9か月。
「司くん、そこ間違ってる」
「まじか。つか一瞬で見つけるのすごいな」
「ふふん、まぁね」
まほらは得意げに笑う。数字を探すのは得意な方だ。
凪原とまほらは時折一緒に勉強をしている。それ以外でも家でRhineのビデオ通話を用いて一緒に勉強をしたりしている。今まで勉強をする習慣がなかった凪原は勉強の仕方がわからなかっただけで、一度要領を掴めば学力は目に見えて上がっていった。とはいえ、当然まだまだ壁は高い。
茶道や、華道、ピアノ、舞踊。この頃のまほらはたくさんの習い事を行っていた。自らの価値を和泉家に、父に示す為に。当然成績は学年一位だ。
それでも、時間を縫って、凪原と一緒に勉強をした。普通の中学生の様に、放課後の図書館で机を並べて、ペンを走らせる。
ある日、消しゴムを取ろうと伸ばした手が凪原に触れる。リズミカルに走っていた凪原の手が止まり、チラリと視線が上がる。
「手」
照れか抗議か、凪原が一文字つぶやくと、まほらはクスリと笑う。
「うん」
凪原はジッと眉を寄せてもう一度、『手』と呟く。静寂を友とする図書館でギリギリ許容される範囲の、会話と言えないやり取り。まほらは嬉しそうに微笑む。
「手、だね」
まほらはまた嬉しそうに笑う。たった一文字のその言葉は、こんなにも二人の心を揺らす。
凪原も、まほらも、互いへの感情を口に出した事は無い。でも、きっとこの頃にはもうわかっていた。
かつて名前のなかった感情。その正体を凪原は知った。4か月の間、必死に勉強をしたから。4か月の間、一緒に勉強してきたから。だから、彼にはもうわかっていた。
これは、恋なのだと。




