夏の始まり
「まほらさん、おはよう!」
「おはよう、黄泉辻さん」
黄泉辻渚はバス登校だ。自宅から鴻鵠館の最寄のバス停まで20分。バス停からは歩いて5分。実は二人は毎日バス停で待ち合わせて一緒に登校してきている。
「いつもバス停まで来てくれてありがとう。遠回りじゃない?」
「いえ、別に。道一本くらいだし」
まほらの家は学校から歩いて10分程度。待ち合わせのバス停は通り道だ。
凪原司の家は学校から徒歩40分。性格的に5分前行動でもない彼は大体いつも三人の中で一番遅く学校に着く。期末考査も終え、あとは夏休みを迎えるだけの7月中頃、この日は珍しく下駄箱で三人が一緒になった。
「あら、いつでもどこでも女性の裸を見たがってる凪原くんじゃない。おはよう」
「おう、おはよ――、って朝からふざけた挨拶してんじゃねーよ!」
期待通りの凪原の反応にまほらはクスクスと笑う。
「ツッコミがお上手ね」
まほらの隣でボトッと何かが落ちる音。口を大きく開け、顔を赤くした黄泉辻が持っていた上履きを落とした音だ。
「見たいの!?みみみ見せないよ!?」
黄泉辻は落とした上履きはそのままに両手で自身の胸を隠して身をよじる。
「残念ね、凪原くん」
「少なくとも俺は言ってねーよ!」
朝から下駄箱で大声を出してしまった事を内心恥じつつ、三人は教室に向かう。
「はー、朝からびっくりした」
教室に向かう道すがら渚は笑顔で胸を撫でおろす。
「な。同感」
「そういえばさ、凪くんって家遠いのに何で自転車で来ないの?その方が早くない?」
凪原の家は学校から徒歩40分の距離。自転車ならその半分もあれば着くだろう。
「あのな、黄泉辻。俺はコスパは理解する。だけどな、タイパって言葉は嫌いだ。これはあくまでも個人的な感想だぞ?なんでもかんでも時短すりゃいいってもんじゃないんだよ。一見無駄に見える時間でもそこに――」
「凪原くんは自転車乗れないのよ」
得意げに語る凪原の言葉をぶつ切りにしてまほらが代わりに回答すると、黄泉辻は嬉しそうにニヤニヤと笑う。
「えっ、そうなの?なんかかわいっ。練習するなら付き合うよ」
まほらはチラリと凪原を見て、凪原は眉を寄せて考える振りをする。
「んー、まぁ、いいや。今はまだ困ってないし。気持ちだけもらっとくわ。さんきゅー」
凪原のお礼に黄泉辻はニッコリと初夏の朝に相応しい笑顔を返す。
「うん。いつでも手伝うから困ったら言ってね」
「おう」
「ねぇ、黄泉辻さん」
まるでいつも凪原を呼ぶような感じでまほらは黄泉辻の名を呼ぶ。黄泉辻が振り返ると、まほらは何やら黄泉辻に疑惑の目を向ける。
「え、なに。まほらさん」
「多分私の聞き間違いか思い違いか勘違いだと思うんだけど、凪原くんの家……遠いって、別に行ったことあるわけじゃないわよね?伝聞情報よね?booble(グーグル的なもの)で調べればすぐわかりますもんね!?」
「うん、凪くんが停学の時に一回プリント届けに。趣のある神社だよね」
「あるのぉ!?」
急に大きな声を出されて黄泉辻はびくっと身じろぐ。まほらは勢いよく黄泉辻の肩を掴み、真剣な面持ちで忠告をする。
「だめよ、黄泉辻さん。それは危険。あなたみたいなかわいい人があんな人気の無いところに一人で行くなんて、凪原くんの家に黄泉辻さんを放り込むようなものよ」
「何の比喩にもなってねーよ、ただの事実だよ。それ」
まほらの真剣な忠告に黄泉辻は恐怖に震える。
「えっ……、あたしもう居間で」
「居間で!?」
「……お茶まで」
「お茶まで!?」
「なんなんだよ、お前ら」
凪原が白い目で呟くが女子二人の会話は止まらない。
「へっ、部屋は!?さすがに部屋までは行っていないわよね!?そうよね、黄泉辻さん!」
黄泉辻の肩をぐわんぐわんと揺らし、まほらは黄泉辻を尋問する。
「部屋ぁ!?う、うん!部屋は行ってないよ!それにお爺さんもいたし!」
「そそそ、そうよね!?いますよねぇ!?典善さん存命ですもんねぇ!?」
まほらは己を納得させるように何度も頷く。
そして、ふーっと一度大きく息を吐き、黄泉辻を安心させるように微笑む。
「黄泉辻さん、よかったわね。無事で。典善さんに感謝することね」
「うん、ありがとう……。凪くんのおじいさん」
「おー。伝えとくわ」
凪原は投げやりにおざなりな相槌を打つ。多分きっと、伝えない。
会話もひと段落、と思った矢先。まほらは不意にバンと手のひらで壁を叩き、不満げに声を上げる。
「私まだ行った事ないんですけどぉ!?」
急に大声を出されて二人は目を丸くする。一瞬で理性を取り戻したまほらは、すんと澄ました表情で黄泉辻を見る。
「そ、そう言えば黄泉辻さんの家に行った事ないわね」
少し苦しい苦肉の策。だが、それを聞いて黄泉辻は喜色満面、ひまわりのような笑顔を見せる。
「来てくれるの!?じゃあさ、お泊り会しようよ!もうすぐ夏休みだし!ねっ!?」
「しょ、しょうがないわね。予定が空いていたらね!」
その返事を聞いて黄泉辻はクスリとする。その返事が凪原の反応とよく似ていたから。
――私が誰かの家に泊まるだなんて。まほらは少し口を弛ませる。
夏休みが、少し楽しみになった。




