魔王と女王の茶会
「三月。話があるの」
私立鴻鵠館高等部、2年C組にざわめきが広がる。他のクラスになど出向くことの無い和泉まほらがわざわざC組を訪れ、玖珂三月を訪ねてきたのだ。
玖珂とまほらと言えば、おそらくこの学園で最もカップリングを望まれる二人。ハイレベルに対等な家柄と幼馴染という関係、そして二人の優れた容姿からは誰しも物語性を感じざるを得ない。
玖珂はまほらの来訪を予想していた様で、驚きではなく喜びで彼女を迎えた。
「やぁ、まほ。よく来たね。話ってなんだろ?まさか告白とか?」
玖珂がそう言うと、クラスの女子達はハッと息を呑む。彼女達はまほらに嫉妬などしない。時折怪文書を貰うくらい悪意を持たれたりはするが、それは嫉妬ではなく厳密に言えば妬みに当たる。
「えぇ、そうかもね。お茶でも飲みながらどうかしら?」
長い付き合いの玖珂にしてみれば、確実に愛の告白などでは無いと分かっている。だが、彼は涼しげな笑顔を浮かべてその話に乗る。彼の基本行動原理にリスクやメリットは関係ない。
面白いかそうでないか、だ。
「良いね。場所を変えようか」
――昼休み。貸切の食堂。
テーブルは玖珂とまほらの座る一つのみ残されていて、あとは何もない。いつも多くの生徒たちが楽しく囲む多くのテーブルは、一体どこへいったのか一つを除いてどこにもない。厨房にも誰もいない。本来であればこの時間、多くの人と笑い声が溢れるこの場所には、今は二人以外は誰もいない。
「あなたねぇ……少しは人の迷惑を考えたら?みんな何処でお昼食べれば良いのよ」
腕を組みながらまほらはため息を吐いて苦言を呈する。
「食堂で食べられなければ教室で食べれば良いじゃないか」
まったく悪びれる様子も無く、マリーアントワネットの様なことをのたまう玖珂にまほらは呆れ顔。
「あらあら、まるで暴君気取りね。凪原くん、お茶」
後ろを振り向いてお茶を所望するが、当然凪原はここに居らず、振り向いたまま数秒無言で固まるまほら。
「凪原くん呼んでこようか?」
ニコニコと提案する玖珂。まほらはゴホン、と一度咳払いをするといつも通り足を組み、頬杖をつく。
「結構よ。単刀直入に言うわ。うちの飼い犬が怯えて震えてるからちょっかい出すのやめてくれる?」
玖珂は心外とばかりに困り顔をする。
「えー?むしろちょっかい出されたの僕なんだけど。それを言うならバカ犬の鎖くらいちゃんと握っといてくれる?飼い主さん」
「は?」
その言葉がまほらの逆鱗に触れる。
「凪原くんを犬呼ばわりして良いのは私だけよ」
「あはは、意地張らないで好きだからって言えば良いのに」
まほらはバンと勢いよくテーブルを叩く。
「好きじゃな……!」
冗談でも、照れ隠しでも、その言葉だけは言いたくない。一度深呼吸をして、寂しそうに微笑む。
「言えるわけないじゃない」
その表情を見た玖珂は傍に置かれたティーポットから紅茶を注ぎ、一口喉を潤すと長い銀髪を一度かき分けて挑発的な視線をまほらに向ける。
「そんな顔されたらまたちょっかい出したくなっちゃうよねぇ」
「それは私に喧嘩を売った、と言う解釈で宜しいわね?」
冷たい瞳でまほらは凄む。だが、玖珂は意に介する様子もなく、笑顔で会話を続ける。
「怖っ。怖くてうっかり秋水さんに口が滑っちゃうかも。あ、それとも凪原くんに滑らせた方がいいかな?」
玖珂はにっこりと優しげに笑う。
「まほは婚約者がいて18歳で結婚するんだよ、って」
それを聞いてまほらはさぁっと血の気が引いて青ざめる。
「……やめてよ」
弱々しく懇願する様に玖珂に手を伸ばすまほら。かつての彼らの行いの様に、このやり取りをカードゲームに例えるのなら、この戦い、まほらに勝ち目は無い。
皮肉にも、互いに他者にダメージを与えられるカードのほとんどは彼らの親の力によるものばかり。だが、まほらの手持ちで玖珂に効くカードは彼がまほらに好意を抱いていると言う一枚のみ。対して、玖珂はたった一言を凪原に伝えるだけで、凪原とまほらの茶番を彼女の父秋水に伝えるだけで、彼女が守ろうとした全てが瓦解するのだ。
それで戦いになるはずがない。
玖珂は大切なガラス細工に触れる様にやさしくその左手に触れる。
「君はずるいよね。僕が君の事が好きだからってそんな事言われないと知ってて来たんだろ?」
「そんな事……ない」
和泉まほらは本来強くない。彼女は本来女王でも暴君でもない。凪原司の存在が、彼との繋がりを守る事が、彼女を女王に、暴君にしただけなのだから。
仮面は今にも割れ落ちてしまいそうな程脆く見える。玖珂にもそれは分かっている。あと一押し――。
「知ってるよ。君はそんなに強くない。君はあの家には居場所なんてない。それでも君はあの家に居続けなければならない。君が居なくなればお母さんは一人になってしまうからね。でも、僕なら君を自由にできる」
甘美な悪魔の囁きは、魅力的に心を揺らす。
「僕なら君を幸せにできるよ」
「……幸せに、できる?」
まほらはジッと、玖珂の目を見上げる。
「あぁ、約束するよ。必ず僕が」
言葉遊びかもしれない。言葉尻かもしれない。だが、その一言が彼女の心に火を灯す。
まほらの震える右手は置かれたカップを倒し、紅茶がこぼれ、右手が濡れる。今にも涙が溢れそうな瞳で玖珂を睨み、濡れた右掌は全力で自らの右頬を叩いた。その痛みは、あの日の痛みを思い出す。そして、そのまま、擦る様に右掌を引くと、力強く引かれたその手は、隠した傷を露わにする。
それは仮面を剥がす程度ではない。彼女にとっては顔の皮を剥ぐに等しい行為だ。
「……私はもう幸せよ。だからあなたに私は幸せにできない」
何も言わず、玖珂はまほらを見つめる。正確に言えば、何も言えず、彼はまほらを見つめた。右頬に大きく傷の残るその顔が、涙のにじむ瞳が美しくて、彼は見とれて言葉も出せなかった。
「そっか」
少しして、ようやく絞り出せた短い言葉。不思議と悔しさはない。
「ごちそうさま、もういいわ」
まほらは席を立ち、出口に向かおうとしたが、思い出した様に振り返る。
「あぁ、それと。婚約の事、言いたければお好きにどうぞ。ただし、それがあなたが私にきれる最後のカードだと言うことをお忘れなく」
玖珂は紅茶を飲みながら小さく右手を動かしてそれに答えた――。
まほらは食堂を出る。
「あら」
食堂を出ると目の前には凪原がいた。
「やっぱりお前らかよ」
あきれ顔の凪原は中にいるもう一人の事もわかっている様子。
「やっぱりってなによ」
「珍しく教室にいねーし、食堂は謎の閉鎖だし。考えられるのは一つしかねーだろ」
「あ、そう」
そっけなく答えたまほらの顔を見て凪原は驚き目を見張る。理由はもちろんその頬の傷。白くなめらかな肌を覆う大きく歪な異物。
「……お前、それ」
傷が残っているのは知っていた。だが、実は凪原も見るのは初めてだ。平静を装いつつも、まほらの内心はぐちゃぐちゃだ。でも、確信はある。凪原の言葉は、絶対に自身を傷つけるものではないと。
「かっこいいな」
無邪気に笑う凪原の顔を見て、まほらはあきれ顔でジト目を向ける。
「……それ、女の子に向かっていう事?」
「いや、率直な感想だったんだけど、まずかったか……?」
予想した言葉とは違う。でも不思議と悪い気はしない。
「別に。いいんじゃない?」
髪を手で揺らしてそっけなく答えたまほらはそのまま歩き出す。そして、何歩か歩いた後でまた立ち止まり、振り返る。
「凪原くん、お茶もらえる?喉乾いちゃった」
――照れくさそうに微笑むその顔は不思議といつもよりきれいに見えた。




