噂話
噂話
「ねぇ、凪原くん。あなたどうやらトイレに行っても手を洗わないらしいじゃない。問題よ?それは」
凪原司にはいくつも噂話がある。いつも教室で寝ている本人の耳には入りづらく、黄泉辻渚が悪い噂を本人に伝える訳もない。彼に直接伝えるほど仲のいいクラスメイトもおらず、友人はいないが独自の情報網は数多く持っている和泉まほらも基本的には本人に伝えない。
だが、実害があるものは別だ。
まほらはトイレ帰りの凪原を呼び止め、自身の席の前で直立させる。そして、頬杖を突き足を組むいつものスタイルで凪原に冒頭の説教をかましている最中なのだ。
「いえ、お言葉ですがね、和泉さん。いつもちゃんと洗ってますよ。こないだなんか急に握手をせがまれて、断るときもしかしたらそんな事言ったような……。たぶんそれが原因っすね」
凪原の抗弁を受けて、まほらは大きな大きなため息をつく。
「誰が何の為にあなたと握手したがるっていうの?バレバレの嘘は低学年で卒業しておかないと人生詰むわよ?」
「それは俺が聞きたいんすよ。……マジであれ何だったんだろ」
「まぁ?百歩譲って?そんな奇人がいたと仮定しましょうか。そして、あなたはその握手を断る為に手を洗っていないと嘘を言った、と」
「譲っていただいて恐縮っすね。まぁ、その通りっす」
「へぇ」
興味なさそうに返事をするまほら。だが、彼女の詰将棋はもうすでに始まっている。
「と、言うことは凪原くんはいつもトイレから出るときにちゃんと手を洗っているということね?」
「そうだよ。当たり前だろ?俺美化委員だぜ?」
「石鹸も使って?」
「当然」
「じゃあ、匂いでわかるわよね。手」
「手!?」
まほらは腕組みをして、顔の角度を僅かにくいっと上げる。
「早く。手」
「はいよ」
戸惑っていてもしょうがない。凪原は右手をまほらの鼻に近づける。まほらの鼻腔にふわりと石鹸の香りが香る。
(……あらららら?何これ。脳がとろけそう。……私、石鹸の匂いそんなに好きだったかしら?)
思わず口元が緩んでしまいそうになるが、ここは教室だと思い出して何とか踏みとどまる。
「ゲホッ、ゲホッ……!ゴホッ!うえっ」
そっぽを向くと、手で口を覆い何度か咳き込む。
「そんなに臭くはねーだろ!?」
凪原は驚き声を上げ、自分でも手を嗅いでみる。当然だが石鹸の香り。
「さ、最低限ちゃんとは洗っているようね。あとは私の方で対処するわ。行ってよし」
まほらは無表情を決め込み、凪原に手で自分の席に戻るようにと促す。
「よくわからんけど誤解が解けたようで光栄っす」
凪原はヘラヘラと笑いながら席へと戻る。
それと同時にまほらは時計を見る。授業の合間の休み時間は10分。まだ時間はある。まほらは急ぎ席を立ち、トイレに向かう。
普段なら絶対に廊下など走らないまほらが早歩きでトイレに急ぎ向かう。移動中、学年一位を誇るその明晰な頭脳で分析。教室に一番手近なトイレでなくその先、視聴覚室側のトイレなら利用者はいないはず、との解を導き出す。
やがて目的のトイレに着く。彼女の読み通り利用者はいない。念のため周囲を確認してから、彼女はおもむろに手を洗う。ドキドキしながら、緊張の面持ちで、丹念に手を洗う。
そして、再度辺りを見渡してから目を瞑り、恐る恐る自身の手の匂いを嗅ぐ。当然だが、その手は石鹸の匂い。
(んんんんん!?これ大丈夫なの!?まるで凪原くんの手を嗅いでるみたいじゃない!?法に触れてないわよね!?)
一度目を開け、胸を押さえて深呼吸をし、一旦気持ちを落ち着かせる。なお、ここはトイレである。試しに目を開けたまま手の匂いを嗅いでみる。当然、自分の手に優しい泡の残り香。
「ふむ」
まほらは一つの真理に至る。目を開けていると自分の手だが、目を瞑っている場合誰の手かは確定していないのである。目を閉じてさえいれば、それは凪原の手かもしれない。
「なるほど、さしずめ『シュレディンガーの手』と言ったところね」
観測時点で確定するのであれば、目を開かなければ凪原の手の匂いであるともいえる。
まほらは再度目を瞑って自身の手を嗅ぎ、脳を蕩かせる。
「……っんふ」
つい、笑い声が漏れてしまい顔がにやける。目を開くと、鏡に映るのは赤い顔をしてにやけている自分の顔。
急に恥ずかしくなり、素知らぬ顔で髪を整えるふりをする。
再度周りを見て、一応個室に誰もいないことを確認。そうしてからまた手を洗う。目を瞑る。匂いを嗅ぐ。にやける。無限ループの始まりだ。
すでに授業開始のチャイムが鳴っていたが、まほらはそれに気づかずトイレで一人頬を緩ませていた。