今日の推し事
今日の推しごと①
凪原司は高校からの外部入学だ。鴻鵠館では外部入学は全体の1割程度であり、大体一クラスに4~5人が外部生と言うことになる。そして、外部生の中でも芸能やスポーツなどの特別枠で入学する生徒もいる事から、一般入学はさらに困難を極める。
休み時間、数人の女子生徒たちが廊下で楽しく世間話に花を咲かせる。凪原たちのA組とB組は北棟、C組からE組は南棟にある事で、移動を考えると北棟と南棟の交流は多くない。とはいえ、もちろん全くないわけではない。
南棟から友達に会いに来た女子の一人が、トイレに向かう凪原を見つける。
「あっ、あの人」
そして、キラキラした瞳で言葉を歓声を上げる。
「椅子投げ王子じゃ~ん。そっかぁ、こっちのクラスだったんだ。ヤバ~」
目を輝かせているのはその子一人で、ほかの女子は頭にクエスチョンマークを浮かべて白い目を向ける。
「は?凪原の事?真剣に大丈夫?ただのモブ男子だよ、あの人」
その言葉が彼女の熱量をヒートアップさせる。
「はぁあ!?モブ男子!?あんたこそ大丈夫!?去年の1C椅子投げ事件をご存じない!?」
「……いや、そりゃ知ってるけど。あの人が投げたんでしょ。やべー奴だよね、あはは」
「そう!尊いの!」
「なんか字が違う気がする。よくわからんけど」
「とにかく尊いでしょうが!渚ちゃんが灰島にいびられる中、身を挺して渚ちゃんを救う……。そして、机と椅子を投げる」
「ほら、やべーやつだ。DV気質ありそうね」
「あるわけないでしょ!?」
そんなやり取りをしている間に凪原がトイレから出てくる。
「あっ!王子出てきた!ちょっと行ってくる」
「えっ、設楽。まじ?」
設楽と呼ばれた少女はトイレから出てきた凪原を呼び止める。
「凪原くん!」
突然面識のない女子に話しかけられ、凪原は一瞬自身の向こう側振り向く。もしかして、同学年に凪原がいる可能性もある。クラス全員の名前さえ怪しい。
「俺っすか?」
設楽は照れ臭そうにもじもじとしながら凪原に右手を差し出す。
「応援していますっ、握手してください!」
突拍子もない行動に戸惑い、凪原は苦笑いを浮かべる。
「えっと、誰かと勘違いしてません?」
「いえ、全然。お願いします!」
頭にクエスチョンマークを浮かべながらも凪原は右手を伸ばす。握手をせがまれる覚えもないけど、特別断る理由もない。
「すんません、手洗ってないんで」
伸ばした右手でやんわりと拒否。
だが、それは設楽の解釈と完全一致。設楽は満足げに笑い、ペコリとお辞儀をする。
「これからも頑張ってください!では」
「……何を?」
設楽は弾むように友人たちのもとへと戻り、嬉しそうに報告する。
「王子手洗ってないって」
「……きたなっ。そんな王子いねーよ」
「ばかだなぁ。愛する渚ちゃんとしか手は握らねーよって言う意思表示じゃん。推せる~」
設楽はご満悦の表情。
「好きなの?」
彼女の反応から友人としても当然の疑問。だが、設楽はきょとんとした顔で首をかしげる。
「いや?王子は渚ちゃんしかありえないでしょ」
感覚としては、恋愛感情でなく、『推し活』なのだろう。彼女の親は芸能人。彼女も初等部からの鴻鵠館生であり、あまり変わらぬ人間関係を過ごしてきた。そこに突然現れた外部生の常軌を逸した英雄譚。恋愛ならずとも心惹かれるのはある種当然と言えた。
そして、この日から凪原の噂話の一つに『トイレで手を洗わない』が追加されることになった。