黄泉辻渚③
「凪くん、おはよう!」
灰島の忠告を聞かず、黄泉辻は凪原に挨拶を交わした。それは、灰島にとって自身への宣戦布告とも言える行為だ。
「渚ぁ、あんた生意気にワタシに喧嘩売ってるんだぁ?面白いじゃん、今までは優しくしてあげてたけどもう手加減しないから。凪原!お前もだからな。ワタシは三年にだって顔が利くんだ。泣いて謝ってももう許さねぇから!」
「それはこのクラスの総意って事でいいんですかね?誰か僕らを助けてくれる優しいお方がいたりとかは……」
凪原はクラスを見渡す。さすがにやりすぎと思うような表情をしている生徒もいなくはないが、この状況で手を挙げる勇気も声を上げる正義も持ち合わせる者はいない。そりゃそうだ、と思いつつもだからこそ先刻の黄泉辻の挨拶がうれしく思う。
「ははは、いるわけないよな。そんな馬鹿なやつ」
凪原は窓際にある黄泉辻の席に近づくと、チラリと窓の外を見る。彼らの教室1年C組は南棟の3階にある。コの字型の校舎。窓の外にはグラウンドが広がり、今は誰も使用していない。
「黄泉辻。このクラスにはお前の居場所はないってさ」
「なに他人事感だしてんだよ。お前もに決まってんだろうが」
灰島の言葉に凪原はもう興味はない。おもむろに黄泉辻の机に触れると、斜めに傾けて教科書をザーッと落とし、カバンも何もない空っぽの状態にする。したかと思うと、意外な力の強さで机を持ち上げる。
「だからもう机もいらないよな」
「え。凪くん、何を」
黄泉辻は引きつった顔であわあわと凪原を制止しようとする。信じたくはないが、たぶん次に彼がとる行動は一つだ。
「フリだよね?一旦置こ?ね?やめよ?」
「そーれっ」
「あ」
黄泉辻は短く息を吐くように声を出し、彼女の机は教室の静寂を飛び立ち、青い春の空を舞い、美しい放物線を描いて、グラウンドに落下すると、意外に大きな金属音を伴い一度跳ね、転がり、シンと動かなくなった。
灰島の顔から血の気が下がる。相手が何を考えているのかがわからない恐怖感。
「椅子もいらんだろ」
「うあぁ、あたしの椅子ぅ」
黄泉辻の懇願も空しく、椅子も相棒たる机と同じ軌跡を描きグラウンドに落ちていく。
ほとんど間を置かず、今まで聞いたことの無いような音を立てて教室の扉が開き、血相を変えた教師が駆け込んでくる。
「何をやってるんだ!?誰だ!?誰の机だ!」
同調圧力。当然誰も声を出せない。この空気と教師の剣幕の前では当然だ。一人を除いて。
「黄泉辻さんのでーす」
教師の視線は黄泉辻に移る。確かに机のない場所は彼女の席があった場所。
「……じゃあ誰が。誰がやったんだ!これは大問題だぞ!正直に言え!」
悪ふざけにせよ、イジメにせよ、乱闘の結果にせよ、グラウンドはすべての学年のすべてのクラスから見える。隠しようはない。明らかに全校的な問題となるのは明白だ。
「誰がやったんだ!……凪原、どうなんだ?」
空いた窓のすぐ近くにいるのは凪原だった。決めつけるわけではない。一般入学の外部生が入学早々こんな事件を起こすなど前例がない。
「そうっすねぇ」
凪原は含みのある濁し方をしつつクラスを眺める。
「……は、灰島さんです」
クラスのどこかから、小さく震える声が聞こえる。
そして、それはさざ波のように広がっていく。重なる声で、匿名性を帯びて。
「灰島だよ」「灰島さんです」「前から黄泉辻さんのこといじめてました」「わたしは止めてたんです」「灰島!」「灰島!」
想像だにしなかった光景に灰島はおろおろと狼狽して弁明を始める。
「な、なに言ってんの?ワタシなわけないじゃん。みんな見てただろ?あいつが勝手に投げたんじゃん。女の力でそんなのできるわけないじゃん。凪原だろ?なぁ!?」
灰島はそう弁明する。そしてそれは事実である。だが、世論はそうはいっていない。いまだ口々に灰島の罪だと断じている。教師も灰島に疑いの目を向けつつ、一応彼女の弁明にのっとり、凪原に問う。
「凪原、灰島はそう言っているが、どうなんだ」
「すいません。俺がやりました」
まったく悪びれもせず、凪原はたやすく自供する。まるで、初めから隠すつもりなどなかったように。
「えぇえ!?」
黄泉辻やクラス中から驚きの声が上がる。灰島は今にも泣きそうな目を丸くして驚きを隠せない。
教師は怒りを通りこして、まだ信じられない様子で、困惑した様子で凪原に問いかける。
「……本当にお前がやったのか?正気か?」
「えぇ、残念ながら」
「理由は?」
「黄泉辻さんにフラれたんでムカついちゃって」
ヘラヘラと証言する凪原を見て教師は頭を押さえて大きくため息をつく。楠木崇38歳。凪原は脅されて言っている様子でもない。理由はともかくとして、おそらくは本当に彼が投げたのだろう。だが、それと先ほどの生徒たちの灰島への糾弾の整合性が取れない。とはいえ、今このままにしておくことはできない。
「凪原、黄泉辻。指導室に来い」
「了解っす」
「……はい!」
C組には自習が言い渡されたが、教室の空気は地獄の空気。女王失脚した灰島は悔しさに歯を食いしばりながら、周囲を囲むひそひそ声に耐え忍ぶ。
ところ変わって北棟、1年A組。窓際の一番後ろの席。頬杖をついて窓の外を眺める和泉まほらはクスリとあきれ笑いをする。
「ばかね」
その顔はどこか嬉しそうに見える。