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みんなの物語

 黄泉辻渚は、雨の中傘も差さずにずっと二人の背中を見つめていた。親友であるまほらと、初恋の相手である凪原。頰を濡らす雫が雨なのか涙なのか、彼女にはもう分からなかった。凪原がまほらへの愛を告げる度に、誇らしい気持ちで胸がいっぱいになり、……その奥の方が鈍く痛む。だが、その痛みは彼女だけの誇りだ。

 ――あたしの好きになった人は、こんなにもまっすぐに人を愛せる人なんだ。

 そう思うと、自分のことの様に嬉しくなり、想いは胸の奥で静かに熱を帯びた。黄泉辻はそれを確かめるように、胸の辺りにそっと手を触れた。

 

 もう自分に出来る事は何もない。声を掛ける事も、手を伸ばす事も出来ない。だから、彼女はただ願う。目をそらさずに、大事な、大切な二人の幸せを――。



 凪原の宣言に些かの動揺を見せはしたものの、秋水はわざとらしいくらい大きくため息をついてから、互いの立場と力関係を再確認させるように凪原を睥睨する。

 

「凪原君。私には君にまほらを守る力も、幸せにする力もあるとは到底思えないんだがね」

 品定めする様な視線。凪原はそれを受けて軽薄に笑う。

「そうっすね。それは俺も同感です」

 予期せぬ肩透かしに秋水がピクリと眉を寄せると、凪原は得意げに笑いまほらを指差す。

「でも、あんたにはこいつが人に黙って幸せにされる程度の人間に見えてるんですか?」

「ちょっと、指差さないでよ」

 まほらは繋いだ手を揺らして凪原に苦言を呈する。

 

 初めて見るような自然体のまほらの姿は、なぜだか無性に秋水を苛立たせる。その理由は、まだ彼自身わかっていない。

「私は政治家として、様々な人間を見てきた!魑魅魍魎集う政財界、そんな薄汚れた世界で、戦えるほどまほらは強くはない!だから――」

 秋水は言葉を選びながら、それでも二人を説き伏せる様に、信念を込めて言葉を放つ。

「男が盾になるべきなんだよ。断言する、君はそれにはな成り得ない」

 だから、婚約者を当てがって婿入りさせようとした。それが、歪んだ男尊女卑の権威主義の家に生まれた彼が、妻や娘を守る為にたどり着いてしまった場所。


 凪原は眉を寄せて首を傾げる。

「なれないって言うか、なるつもりもないっすけど。それに、それはさすがのまほらでも無茶振りでは?18かそこらであんた方みたいなのとまともに戦える訳ないでしょ」

 チラリとまほらを見ると、ムッと口を尖らせて『できるけど?』と呟く。凪原はそれを無視して、大事な宝物を誇るような得意げな顔で、秋水を指差し高らかに宣言する。


「けど、あと何年か見てて下さいよ。そしたら絶対まほらはもっとすごくなる。あんたにも、玖珂にも負けないくらいにね。なっ?」

 まほらはコクリと確信に満ちた表情で頷く。


「お父様。あなたから見れば、私は随分と弱く頼りなく見えるかもしれません。けれど、……私はお父様とお母様の娘ですよ?お願いです。どうか、全力で私に期待して下さい。私は、……絶対にそれを裏切りませんから!」

 

 初めて、まほらはまっすぐに父を見てそう告げた。秋水は、雨に打たれたままでじっとまほらを見る。降り続く雨は、秋水もまほらも等しく濡らし、まほらの右頬の耐水性コンシーラーの奥にうっすらと傷が見え隠れする。TVカメラも、無数のスマホもまほらに向いている。それに気づき、秋水は珍しく少し慌てながらまほらに歩みを寄せる。まるでカメラから我が子を守るかのように。時折振り返りTVカメラの位置を確認しながらまほらを諭す。

「ま、まほら。雨が強くなってきたから、今日はもう戻りなさい。これ以上は雨で頬が――」


 父の視線に気づくと、まほらは凪原の繋いだ手を取り、ぎゅっと強く右頬を擦る。雨に濡れたコンシーラーは拭い落ちて、右頬の傷が露わになる。

 秋水がそれを見るのは事故以来の事だった。受け入れる事ができず、ずっと目を逸らしていた。愛する娘の顔に出来た一生消えない深い傷。

 父の躊躇いを見て取ったまほらは、にこりと笑う。まるでそこだけ雨が上がったと錯覚してしまうような晴れやかな笑顔で父に問いかける。

「傷、醜いですか?」


 まほらはぎゅっと凪原の手を握り、秋水は口を開けて何かを言おうとしたが、言葉は喉の奥で引っ掛かり、音に変わる事は無かった。そして何秒か経って諦めた様に右手で目元を押さえると、首を横に振り、震える声で呟いた。

「……そんな筈がない。真尋に似て、とても綺麗だよ」


 まほらは嬉しそうに笑い、それを見つめる凪原も柔らかな表情でまほらを見守った。


 歓声も、拍手も上がらず、雨だけが降っていた。


 まほらが仮面を付けていたとするのなら、秋水は鎧を着ていたと言える。自分を守り、妻と娘を守る盾となれる様に。今、鎧はゴトリと音を立てて秋水の身体から離れた。そうして初めて、秋水は先刻から素顔のまほらを見て感じていた苛立ちの正体に気が付いた。続く言葉が中々口に出せなかった。言葉は口に出したら最後。撤回も取り消しも出来ない。それをする者は政治家を名乗れない。

 その逡巡を全て飲み込んで、秋水は口を開いた。


「私は、……間違っていたのかな?」

 素顔のまほらを美しいと感じる事は、今までの自身の教育の過ちを認める事になる。それだけは認められなかった。だが、まほらは秋水が思うよりもずっと強かった。頬の傷を躊躇いなく曝け出せるくらいに。いつからか。もしかすると、ずっと前からか。それに気づいた秋水は、誰に問うでもなく独り言の様に呟き、自嘲気味に笑った。


 生まれて初めて聞く父の弱音。それを聞くとまほらは恥ずかしそうにはにかみ、手を広げる。降り注ぐ雨粒を受け止めながら、全てを受け止めるかのように。

「私もたくさん間違いましたよ?多分、お母様だって、三月だって、司くんだって。だから、お父様だって間違ったっていいんです」


 凪原は困惑した様子で首を傾げると、小声でまほらに耳打ちする。

「……俺なんか間違った?」

「ほら、今間違った」


 秋水は二人のやり取りを見てほんの僅かに口元を弛める。

 

 そして、ゴホンと一度咳払いをして政治家の顔に戻るといつも通りの冷徹な瞳で凪原を見る。

「凪原くん。そう言えば、まだ返事をしていなかったね」

 髪をかき上げ、雨に濡れて重くなったネクタイをキュッと締める。まるで、将棋の棋士が投了をする際に身なりを整えるように。それから、まほらとよく似た見惚れるようなしっかりとした所作で、まっすぐに凪原に頭を下げる。

「娘をよろしく頼む」


 瞬間、比喩でなく広場は揺れた。

『秋水!秋水!』と手拍子と共にコールが巻き起こり、安眞木は遠くテントの中から事態が呑み込めずに一人困惑していた。


 黄泉辻は人目もはばからず涙を流して、両手で何度も拍手をしていて、凪原とまほらは顔を見合わせたあとで、二人で秋水に頭を下げた。



 

 ――大歓声から少し離れた、広場を曲がった奥ではパトカーの赤色灯が揺れていた。


 銀色の長い髪は乱れ、顔を腫らして傷だらけになった玖珂は壁にもたれ、足を放り出して座り、その視線の先では兄・遥次郎が複数の警察官に身柄を拘束されていた。騒ぎを聞きつけた誰かが警察に通報し、到着した警察官により現行犯逮捕されたようだ。


 肩で息をする玖珂は、広場の方から聞こえる大歓声で状況を把握して口角を上げる。切れた口の中の痛みに一瞬顔を歪めながらも嬉しさの方が勝る。

(……やれやれ、本当世話が焼ける)

「君、今救急車呼んだからね。痛いところあるか?」

 警察官が玖珂に駆け寄ってくるが、玖珂は迷惑そうに手を振りそれを拒否する。

「いや、平気です。救急車で退場なんてかっこ悪いでしょ」

 その言葉に警察官も困惑する。

「かっこ悪いって……、そういう問題じゃないだろ」

「僕にとってはそういう問題なんだよ。ほら、行った行った。懲戒にするよ?」

 犬を払うようにシッシッと手を払うと、玖珂の事を知る同僚になにやら耳打ちをされた彼は引きつり笑いで敬礼をしてパトカーへと戻る。


 そして、少しの間目を閉じて歓声に身を任せる。

 だが、その時間はそう長くは続かなかった。


「寝てんすか?」


 聞きなれた声に思わずクスリと笑う。声の主は久留里緋色だ。

「起きてるよ。どう?丸く収まった?」

 久留里は心配そうに眉を寄せる。

「あっちはまぁ。センパイは――」

 周囲のパトカーの数と、一人押し込められる大柄な男が目に入る。遥次郎の顔は週刊誌で見たことがある。なんとなく事態を把握した久留里は優しく笑い、玖珂の頭をよしよしと撫でる。

「頑張ったんすね。絆創膏要ります?」

「一枚貰おうかな」

「……一枚じゃ全然たんねーっすよ」



 ――雨はいつしか止んでいた。


 分厚い雲は、端の方に切れ間が見え、僅かに青空が見える。


「……選挙が終わったら皆でうちにご飯でも食べに来なさい。沢山まほらの話を聞かせてくれると嬉しい」

 濡れた髪をかき上げ、SPから渡されたタオルをまほらに渡した秋水はそう言い残すとそのまま広場を去った。


  

 気恥ずかしそうに二人並んで秋水の後ろ姿を見送る凪原とまほら。

「……まぼらざんっ!」


 振り返ると、顔を涙でぐしゅぐしゅにした黄泉辻が勢いよく駆け寄ってくる。

「黄泉辻さん……」

 もうその顔を見ただけでまほらも泣きそうになる。

 そして、黄泉辻は大きく両手を広げて、文字通り二人に飛びつくと、その両手でまほらと凪原を力強く抱きしめる。

「うわっ」

「おめでとうっ……、本当によかったよ~」

「……ごめんね、黄泉辻さん。でも、ありがとう」

 黄泉辻は必死で首を横に振る。謝られる理由なんて何一つない。


 三人は濡れた身体で、身を寄せて、声を上げて喜びを分かち合った。十二月の雨に濡れて冷えた身体に、それぞれの体温を感じる。


 雨はいつしか止んでいて、切れ間から差し込む夕日が、三人を祝福するように照らした――。

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