傷と鎖の物語
――雨が降り始めていた。
SNSでは、『現代のロミジュリ』、『凪原司』、『まほら』、『三月』と言ったワードがトレンドを席巻している。4社来ていたテレビカメラのうち1社は生中継で映像をお茶の間に届け、ネットニュース各社も随時記事を更新して、この東京30区の選挙戦最終日を盛り上げる。間違いなく、今ここは全国で一番注目されている場所となっていた。
広場の中央近く、お立ち台を降りて、マイクを片手に足を進めた凪原は視線の先にまほらを見つける。息を切らせたまほらは汗を滴らせ、縋る様に凪原を見る。5月以来、半年振りの二人の邂逅だ。
「久しぶり」
凪原が軽く笑ってそう言うと、まほらは泣きそうに眉を寄せて頷く。
「……うん、久しぶり」
そして、まほらは凪原の後方に立つ黄泉辻を見ると、頭を下げる。
「黄泉辻さん、ごめんなさい。……応援するって、言ったのに。でも、やっぱり、私――」
恐る恐る視線を上げると、黄泉辻は満面の笑みでまほらに親指を向け、小さく呟く。
「頑張れ、まほらさん」
親友からのエールを受けて、まほらは力強くコクリと頷く。貰った勇気を確かめるように、左手を胸に当て、凪原を見る。
「司くん、私あなたが好き」
「婚約者、いいのか?」
凪原が意地悪く問いかけると、まほらはむっと口を尖らせて恨みがましい視線を凪原に向ける。
「あ、いじわる。いいの。親が決めた婚約者がいても、それでも私はあなたが好き。思うだけなら自由でしょ?」
まほらは辺りを見渡す。無数の聴衆は、少し距離を置いて凪原とまほらを囲むように見守っている。パシャパシャ、とスマホのシャッター音。時折フラッシュが光る。少し高いところからはテレビカメラと思しき大きなカメラを抱えたクルーの姿も見える。
「こんな事してこの後どうするの?大変だよ?……一生ネットに書かれ続けちゃうかもよ?」
「一生か――」
凪原は少し考えて、まほらに笑いかける。
「じゃあ、爺ちゃん婆ちゃんになった時に眺めて懐かしもうぜ。俺とお前と、黄泉辻も一緒にさ」
まほらは目に涙を滲ませて、両手で口を覆う。
「……そんな風に言われると、一生一緒にいるって勘違いしちゃうよ」
「それは困るな」
凪原は照れ臭そうに一度髪に触れてから小さく息を吐く。そして、まっすぐにまほらを見る。
「じゃあ勘違いしないようにはっきり言うな?まほら、お前が好きだ。だから、一生俺のそばにいてくれ。事故があろうと、誰かに引き裂かれようと、絶対離れずにずっと一緒にいて欲しい」
二人を無数の目とカメラが包み、それを証人にするように、観念するように、まほらはコクリと一度頷く。そして、一度咳払いをした後で、再びその顔を仮面が覆う。
「……いいわ。でも、一つだけ言わせて」
雨はポツ、ポツ、と次第に間隔を短くして、まほらの頬に落ちて伝う。仮面は、もうたったそれだけで剥がれ落ちる。まほらは今にも泣きだしそうな困り顔で、言葉を絞り出す。
「絶っ対……、私の方が好きなんだからぁ」
謎の抵抗に、凪原もつい笑ってしまう。
「ほんっと、負けず嫌いだな」
ワァっと地鳴りの様な歓声が湧きあがり、南口広場は祝福の声に包まれる。
『告白成功!』『まほらちゃんかわいすぎる』『おめでとう!』『末永く爆発しろ』『日本始まったな』『現地すごい事になってるぞ』『うらやま死』
盛り上がる広場の聴衆。それに水を差すかのように、声がした――。
「まほら」
重い低音で、マイク越しに短く一言だけ呟かれたその言葉は、不思議と広場に響き、祝福の喧騒を一瞬で鎮静化させる。
まほらの父・和泉秋水は、降り始めた雨の中、傘もささずにゆっくりと二人に近づいてくる。先ほど車上で演説をしていた時とは別人の様な威圧感を放ちながら、SP達が人をかき分けて道を作り、二人の前に立つ。
雨に濡れた前髪をかき上げて、秋水は二人を冷たく見据える。
――時をほぼ同時にして、広場の端。
広場の全員の視線が凪原たちに集まる中、キャップを被った玖珂は大柄な男の肩を掴み引き留める。
「待った。何してんだよ、兄さん」
肩を掴んだのは兄・遥次郎。学生時代ラグビーをやっていた彼は190を超える筋肉質で大柄な体躯を誇り、遠目にもよく目立つ。
「あァ、三月か。どうした?」
遥次郎は馬鹿にしたような薄笑みを浮かべて振り返る。
「どうしたじゃないだろ。選挙が終わるまで謹慎って父さんから言われてるじゃないか。それをこんなところで……、まさか馬鹿な事考えてないよな?」
「馬鹿な事?」
次の瞬間、丸太のような腕が玖珂を襲った。鈍い衝撃。植え込みへ弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
遥次郎は、大の字に伸びる弟を睥睨して吐き捨てるように言葉を投げつける。
「礼儀知らずの傷物女を二度と見られない顔にしてやるだけだよ……!」
頬を腫らし、口元から血を垂らしながら、玖珂はふらつき立ち上がる。
「……ふ、フラれた腹いせとは、笑えるね。あはは、哀れだなぁ」
痛みを堪えて必死に薄笑いを浮かべて遥次郎を煽る。彼は格下に馬鹿にされて黙っていられる人間じゃない。
だから、時間を稼ぐ。まほらと凪原の邪魔はさせない。
広場からは、熱気のある歓声が聞こえてくる。それが、玖珂の背中を押す。
「フラれてねぇ……、捨てたんだよ!」
遥次郎の拳は再び玖珂を襲う。玖珂とて武道の嗜み程度はあるが、圧倒的体格と腕力の前に、多少の技術は意味をなさない。ましてや、まほらに投げ飛ばされた事により、遥次郎はより用心深くなっている。
顔をガードすると、それはフェイントで遥次郎の拳は玖珂の腹部を打つ。そして、空いた顔に再び拳が飛ぶ。
「はっ……!顔と口先だけのペテン師が。男はな、最終的には力なんだよ!」
地面に転がる弟を一瞥して、遥次郎はまほら達の元へ向かおうとする。
だが、玖珂はまだ立ち上がる。顔が痛い。身体中が痛い。けれど、まほらだってもっと痛かったはずと思えば何度だって立ち上がれる。
「待てよ、馬鹿兄貴」
膝は笑い、視界は揺れる。それでも、まだ立てる。まだ口も頭も動く。玖珂は手で口元の血を拭うと、傷だらけの顔で涼しげに、挑発的に笑う。
「観客が舞台にあがろうとするなよ、みっともない」
遥次郎はいともたやすくその挑発に乗り、その顔は憤怒の形相だ。
「……三男のくせに、生意気なんだよ」




