黄泉辻渚①
――子供の頃から、お人形さんみたいとよく言われた。
黄泉辻渚の母方の祖母はドイツ人だった。それ故彼女は天の川のように綺麗な金色の髪と、南の島の海の様な碧い瞳を持って生まれ育った。誰に会ってもかわいいと、お人形さんみたいと、お姫様みたいと、誰もかれも彼女の容姿を褒めたたえた。明るく、よく笑い、人が好きで、人の笑顔が好きな彼女の周りには、いつだって多くの人がいた。
中学生になって少しして、第二次性徴がやってくると胸が大きくなった。明らかに平均より大きく、それは人々の――主に男たちの視線を集め、それは周囲が思うより彼女自身にはよくわかった。
有力者の子女が多く通う私立鴻鵠館には初等部から通い、中等部に上がってもほとんどの生徒は顔見知りだ。人間関係やグループが大きく変わることは少ない。外部生は外部生で固まる事が多く、ある程度親の階級の近い子供たちが自然と固まるようになる。
彼女はそんなもの関係なく、誰にでも分け隔てなく接した。人が好きで、人の笑顔が好きで、人に優しくする事が当たり前と感じる彼女。両親に愛されて育った彼女には、それは当たり前のことだった。外部生だろうと、男子だろうと、女子だろうと、グループも関係なく、彼女は皆に笑顔を振りまいた。それは彼女にとって自然で当たり前のことだった。
中等部二年の頃、三年の男子に告白された。少女漫画が好きで、恋愛ドラマや映画が大好きな年ごろの少女は初めての経験に胸を高鳴らせたが、彼女はほとんど面識のないその上級生には当然ながら恋愛感情は抱いてはなかった。面識がないのだから当たり前と言える。初めてお付き合いする人はお互いに好きな人と。少女漫画や恋愛映画の多くがそうであるように、彼女は当たり前にそう思っていた。
例えば同じ学年の和泉まほら。ほとんど人と話さず、笑顔を見せる事すら滅多にない彼女は、その家柄もあり多くの男子から高嶺の花と目されている節があるが、黄泉辻はそうではなった。その人懐っこさからか、『いけるかも』と思わせてしまう脇の甘さがあったのだろうか。彼女はおそらく中等部で一番告白された生徒なのではないだろうか。
かっこいいな、と思う男子がいない事はなかったが、寝ても覚めてもその人のことを考えてしまうようなことはなく、彼女はいつか初恋が訪れる日を楽しみに毎日を過ごした。
三年に上がった頃、いつもの様に隣の席の男子と仲良くなった。車崎嘉人。芸能事務所に所属しているという優し気な雰囲気のイケメンで、恋心は抱かないまでも、男子の中でも彼と話す事が増えた。彼は黄泉辻の事が好きだったようで、周りの男子たちも彼なら、と応援して気を使い、二人でいることが多かった。
ある日、クラスの中心的女子に呼び出され、数人の女子に囲まれた。
「渚さぁ。いい加減誰彼構わず胸擦り付けて色目使うのやめてくんない?」
全く身に覚えのない忠告に黄泉辻は困惑する。
「えっ……?えっと、あたしそんな事、してる……かな?」
「してんだろ。ちょっと胸がでかいからって調子に乗んなよ」
「あ……、うん。ごめん、……えへへ」
身に覚えもない。どうしたらいいのかもわからない。次の日も、いつもと同じように車崎と話したら、その日からすべての女子は黄泉辻を無視するようになった。
初等部から続く交友関係は親のパワーバランスも少なからず関係する。黄泉辻の親はいくつものタワマンや商業ビルを所有する大手不動産デベロッパーの創業社長であることから、面と向かったイジメは行われなかった。それでも、例えばトイレに入ると必ずノックされたり、私物の場所が変わっていたり、微妙なラインで精神を蝕むような陰湿な行為が続いた。
男子たちは黄泉辻を守るように接し、女子と会話できない彼女は必然男子としか話すことはなくなった。続く噂話は『男好きのエロ女』。妬みを含んだ幼稚な陰口だ。車崎は黄泉辻を庇い、慰め、話を聞いた。ほかの男子たちも優しく、何とかやっていけそうだと感じていた。
ある日、車崎から告白を受けた。理由はわからないが、何故か強いショックを受けた事を彼女は覚えている。これを断ったらどうなるのだろう。今までみたいに話してくれるのだろうか?
答えられずにいると、彼は手を握ってきた。夢見る少女と言えばそれまでだ、でも好きな人と手をつなぎたいと思った。黄泉辻は怯えた顔で、とっさに手を引いた。優しかった車崎の顔がガッカリした表情に変わった。
思わせぶりにして気を持たせる。男子たちも彼女を疎外するようになった。車崎もだ。――そうか、彼はあたしのことが好きだったから優しくしてくれたのか。
なんとも勝手な言い分だ。彼女はただ、みんなと仲良くしたかっただけなのに。おはよう、と笑いかけても返ってこず、返事のない挨拶は二週間程続いたが、やがて彼女は挨拶をする事もやめてしまった。
今はもういない大好きなおばあちゃんから、挨拶はいつもきちんとするようにねといつも教えられてきた。悪いことをしてしまったような気持ちで、彼女は時折ベッドの中で泣いた。
高等部に上がっても9割近くの生徒は中等部からの内部進学だ。けれど、1割は違う。それにクラス替えもある。きっと大丈夫。彼女は自分にそう言い聞かせた。
一クラス40人。そのうち大体5人が外部生だ。
「お、おはよう」
恐る恐る挨拶をしてみる。
「おはよう!……わっ、すっごくかわいいんだけど、芸能人かなにか!?」
「え、違うよ。全然違う。でも、ありがとう」
久しぶりに挨拶を交わし、それだけで嬉しくなってしまう。だが、その子たちも次は挨拶を交わしてくれず視線も合わせなくなった。灰島の親は大手自動車メーカーの創業者家系だ。外部生である彼らは、これから3年の学生生活を考えれば、長いものに巻かれる選択をしたのだ。彼らの親は一般家庭が多い。しょうがないことかもしれない。
「おはよう……」
嫌いな自分にはなりたくない。黄泉辻は今日も挨拶の声をかける。
「ん、おはよー。うわ、ビビった。……不良っすか?」
眠そうな目をした外部生の男子は黄泉辻を見るなりそう言って驚いた。
「違うよ。地毛だもん」
クスリと笑い、結った髪を撫でると、彼は安心したように肩を落とす。
「へー、ハーフ?ダブルって言うんだっけ?」
久しぶりのなんでもない会話だ。
「おばあちゃんがドイツの人なの。だからクウォーター?」
「かっけぇな、それ。じゃあもしかして名前もなんかかっこいい感じ?ザルツ・ブルグ・フランク・フルトさんとか?」
「あはは、なにそれ。普通だよ。黄泉辻渚」
その名前の響きが少年は気に入ったようだ。
「いや、かっこいいな。『黄泉辻』って」
「そう?初めて言われた。ありがと。そういう君は?」
そう問いかけると、彼は困ったように口ごもる。
「いやぁ、黄泉辻の後だと……、普通だからなぁ。うちは」
苗字への妙なこだわりがだんだん面白くなってくる。
「普通でいいじゃん!教えてよ、ねぇ!」
「……凪原」
それを聞いてつい黄泉辻の口元が緩む。自分を指さして嬉しそうに笑う。
「あたし黄泉辻『なぎさ』。『なぎ』が同じだね、すごい!」
「……うわ、優しさが染みるわ。褒め上手すぎ」
「あはは、もー、なにそれ。じゃあ、凪くんって呼ぶね」
「いいなぁ、俺も黄泉辻って苗字がよかったなぁ」
返事も返さずに凪原司は呟いた。どうやら本当に黄泉辻姓が気に入った様子。単純なもので、そんな事だけで不思議と自分に自信が持てたような気がする。あたしは、黄泉辻渚だ、と。
でも、なんでもない会話を楽しむと同時に、きっと彼も……と半ば諦めに近い思いを抱いてしまう。一年近く、彼女はそんな環境で過ごしてきた。女子の外部生たちもはじめはこうやって話してくれた。
「困った事があったら言ってね。……と言っても、あたし嫌われてるから逆に困らせちゃうかもだけど」
そう言って黄泉辻は恥ずかしそうに微笑む。人が好きで、笑顔が好きな優しい少女だ。
凪原はわざとらしく目を擦る。
「……あれ?天使がいる。俺いつの間にか死んだ?」
「凪くん大げさだってば!」
彼女にとって、久しぶりの楽しく明るい朝。その光景を遠目に見て苛立ち舌打ちをする女子がいた。
 




