始まりの場所
「凪くん、曲がってない?」
「や、真っすぐだろ」
「曲がってるってば」
俺と黄泉辻は選挙掲示板の前で首を傾げあう。すると、黄泉辻は後ろに停まる高級車の運転手を振り向き、声を掛ける。
「ねぇ!堂島さん、曲がってるよね!?」
堂島と呼ばれた運転手は50代後半くらいの男性で、本来は黄泉辻の父の専属運転手を務めているのだが、今日は一日中区域内を走り回るので、黄泉辻が父に無理を言って借りた形だ。
「そうですなぁ、曲がっておりますなぁ」
「ほら!」
「……絶対まっすぐだよ。アレだろ?黄泉辻が白って言ったらカラスだって白いんだろ?」
俺たちは選挙掲示板に爺ちゃんのポスターを貼って回っているのだ。一枚貼っては次の掲示板、一枚貼っては次の掲示板へと向かう。なので、今日はタクシーではなく無理の利くお抱え運転手に頼んだのだ。
移動中、俺と黄泉辻のスマホがピロンと鳴る。メッセージの主は久留里だ。
『10枚貼ったっすよ』
続けてマップ画像が添付され、現在の進捗も共有される。久留里は友人の鶴子ちゃんと一緒にポスター貼りを手伝ってくれている。爺ちゃんの名前と人脈があれば、本来協力してくれる有志に困ることなどない。だけど、今回の選挙は『俺のとある我儘』で、大人たちの手を借りない事に決めている。俺と黄泉辻が計画している馬鹿みたいな事。もしかすると、それが爺ちゃんの選挙を台無しにしてしまう可能性を考えると、ほかの人を巻き込むのは違うと感じたから。
『久留里、さんきゅーな』
三人のグループライン。俺が送ると、すぐに返信が返ってくる。
『鶴子にもお礼くださいっす』
『鶴子ちゃんもさんきゅー』
『あっす、って』
『あ、久留里。本当重ねて言っとくけど、お願い関係マジで無しだからな?未成年のお前らにできることは単純労務だけだから。選挙活動はNGだから』
『あはは、わかってるっすよ。うちを誰だと思ってんすか?』
『ん?在任一日の元生徒会長様かな』
『あはは、ひどっす』
一応事前に注意点は伝えてあるが、念を入れての注意喚起である。平日の放課後にしか回れないから、二手に分かれて少しでも多くのポスターを貼る。選挙カーで名前を連呼するやつはやらない。意味があるのかどうかわからないし、うるさいから。
「あ」
移動中、流れる景色を見て反射的に声が出る。
「どうかした?」
窓の外にくぎ付けの俺に声をかけつつ、黄泉辻は堂島さんに合図して車を停める。
「そう言えば、……っていうかよく考えたらこの辺りって――」
車は停まり、俺はドアを開けて外に出る。そして周囲を見渡す。たったの三年と少し前。けれども全然思い出せなかったのは、俺が薄情なのか、その間にいろいろな事がありすぎたのか、あるいは、その両方か。
「前の家の近くだ」
それを聞くと、黄泉辻は嬉しそうに笑う。
「少し休憩しよっか」
俺と黄泉辻は車を降りて少し歩く。十二月の風は冷たく、手袋を忘れた俺はポケットに手を突っ込む。
「一度も来た事ないの?」
「無いな。爺ちゃんは知らないけど、少なくとも俺は」
――事故の後、まほらの傷の責任を取り、典善は職を辞して大社の宮司も降りた。間も無く、長く住んだ池のある和風邸宅も手放した。
『お前のせいじゃない。儂のケジメよ』
爺ちゃんはそう言ってくれたけど、ノスタルジーに浸るには罪悪感が重すぎたし、目の前のことに手いっぱいで振り返る時間も余裕も意味も無かったから。
「小学校もこの辺?」
「だな。歩いて10分くらい。中学はあっち、5分くらいかな」
「へぇ、どんな子だったの?」
黄泉辻は楽しそうに問いかけてくる。
「どんな、って。まぁ、普通だよ。普通のガキ。友達もいなくはなかったけど、まぁ今は誰とも連絡とってないな」
「そっかぁ」
見慣れた道は、三年前のあの日まで、毎日歩いた道だ。見間違うはずはない。角を曲がればすぐに生垣が見えて、大きな石灯籠と古びた木の門があり、その奥に趣のある日本家屋がある。小学五年の夏、まほらと初めて出会った場所。あの日の夏祭りの匂いが鮮明に思い起こされる。
俺は少しの期待と共に角を曲がる。
そして、角を曲がると、何もなかった。
正確に言えば、場違いなほど広いコインパーキングがそこにあった。門も、灯篭も、生垣も、俺がガラスを割った母屋も、鯉が泳いだ池も、全てが平らに均されて、黒いアスファルトに覆われた駐車場になっていた。
音が消えたように静かだった。遠くを走る車の音だけが、かろうじて現実とここをつないでいる。
俺は、何も言えずしばらくそこに立って駐車場を眺めていた。冷たい風が吹いて、そのまま身体の真ん中を通り過ぎたと錯覚するくらい、空っぽな気持ちになった。
黄泉辻のハンカチが俺の頬を撫でたので、初めて涙が流れていた事に気が付いた。
黄泉辻を見ると、黄泉辻も目に涙を浮かべていた。
「大丈夫」
涙目の黄泉辻は力強く言い切り、言葉を続けた。
「あたしが買い戻すよ」
大真面目な顔と声でそんな事を言うので、つい笑ってしまう。
「まぁ、お気持ちだけ」
黄泉辻はやはり大真面目に俺を見る。
「来年の誕生日プレゼントでいい?」
「いい訳ねーだろ」
あきれ顔で答えながらも、もしも今俺一人でここに来ていたらどうなっていたんだろう?と怖い想像をしてしまった。黄泉辻の放つその言葉に、気持ちに、いや存在にすら、俺はどれだけ救われてきたのだろう。
「ここに門があってさ、家があの辺にあったんだよ」
駐車場を歩き、指さしながら説明すると黄泉辻は両手を後ろに組みながら興味深げに話を聞いてくれた。
「池は?」
黄泉辻に促されるまま、ゆっくりと近づく。建物がなくなっても、意外と正確に場所を覚えている。
ゆっくりと足を進め、立ち止まる。大きな岩の側にあった池。あの日、たくさんの鯉が泳いでいた。
「ここ」
短く答えると、黄泉辻は嬉しそうに笑う。
「そっか。じゃあ、ここが二人の始まりの場所なんだね」
黄泉辻がそう言うと、不思議な事に真冬の無機質なモノクロームにしか見えなかったアスファルトの駐車場は、春が訪れたかのように、にわかにカラフルな色どりにあふれ出した。
「……お前は、ほんっとうにすげぇよな」
「ふふん、そう?」
黄泉辻は得意げに胸を張る。
それから、しばらくの間俺と黄泉辻は駐車場を眺めていた。どれだけ眺めても、少しも寂しくはならずに、胸の奥が熱く燃えるのを感じた。
――『20枚!』『30枚っす!』『あれれ?』『センパイ?』『もしかしていちゃついてんじゃねーっすか!?』『ねぇ!』『コラァ!』、俺たちが久留里からのRhineに気が付くのはもう少し先の事だった。