閑話 まほら
――それは、灯台の灯りの様なものだった。
「玖珂三月です。よろしくね、まほらちゃん」
「よろしく、三月くん」
初等部への入学を控えた正月の賀詞交換会でまほらは初めて三月と出会った。幼稚園の他の同級生達とは明らかに違う、当時五歳にしてその瞳からは確かな知性と理性が感じられた。
玖珂家の三男であると聞いて、六歳になったばかりのまほらは一人納得した。兄弟もおらず、同級生達とは才能も性能も違いすぎる彼女には、『政治家の跡継ぎとはこう言うものなのだ』と、彼の存在が道標になった。
優しくも厳しい父の言われるままに多くの習い事を学び、学業に務める。真っ暗闇の海原で、共に進む同士を得た気持ちに胸が高揚した。
――もし、時間が許したのなら、その気持ちからは恋が芽生えたかもしれない。
帰り道、まほらが嬉しそうに玖珂の話をすると、優しい父は冷たい瞳でまほらを嗜めた。『玖珂と馴れ合うな』、と。
それからも、事あるごとに父は玖珂三月の名を口にした。――彼に負けることだけは許されない。幼いながらもまほらはすぐにそれを理解した。
もしかしたら、彼もそんな風に言われて自分を磨いているのかもしれない。そう思えば、幼い身体には過酷な習い事も耐えられた。
いつしか、努力も結果も当たり前となり、父は褒めてはくれなくなった。けれど、褒めてもらえないと頑張れないだなんて幼稚な言葉は、とても口には出せなかった。
初等部二年になり、まほらと玖珂は同じクラスになった。
国語の授業で行われた『将来の夢』の作文。玖珂の夢は決まっていた。『総理大臣』。一般的な小学生の中ではおふざけで書くものもいるだろう。『社長』『総理大臣』、子供の考える偉いものの代名詞なのだろうから。
玖珂は迷わずにそう書いた。尊敬する祖父の様に、この国をより良くする為に。
四百字詰めの原稿用紙二枚。『僕の夢は、総理大臣になることです』。玖珂はきれいに整った文字でそう書きだした。厳密に言うと、それは彼の夢のゴールではなく、スタートラインなのだが、細かいことを言ってもしょうがないと彼は考え、そう書きだすことにした。隣の席ではまほらもカツカツと小気味いいリズムで鉛筆を用紙に走らせている。
当時彼らの担任だった20代後半の男性教師が、皆の書く作文を眺めながら教室を巡回する。そして、彼は玖珂の席で足を止めると、少しして半笑いで、あきれ顔で口を開いた。
「玖珂くん、ふざけてないでちゃんと書きなさい」
あまりに突然の事で、玖珂はきょとんとした顔で教師の顔を見上げる。その顔は薄笑いで、子供だからと小ばかにしたような顔に映った。悪意に曝される事なく育てられた優秀な彼にとって、その言葉の意味を理解するには珍しく時間が掛かった。
人に笑われる事も経験が無かったうえに、ましてや笑われたのは本気の夢だ。
言い返す言葉を探す間に、隣の席のまほらが挙手をする。
「先生。正解があるのなら先に言ってください。これは思った事を正直に書く作文ではないんですか?じゃあ、どんな夢を書けば満点が貰えるんですか?」
真っすぐに手を挙げながら、教師に冷ややかな視線向けて、明確な苦言を呈する。
真っすぐな瞳と言葉で送られる抗議に、教師の薄笑いは苦笑いへと変わる。
「そ、そうだね。少し言い方が悪かったね。うん、……ははは」
教師が玖珂の席を離れると、まほらは玖珂の作文を覗き込む。大人に、先生に笑われてしまった『将来の夢』。慌てて玖珂はそれを隠そうとするが、周辺視に優れ、瞬間記憶に近い記憶力を持つまほらの前では無駄な抵抗と言えた。
まほらはその作文を読んでクスリと笑う。――これが、嘲笑であれば玖珂の人生は大きく形を変えていただろう。
「素敵な夢。じゃあ、私たちライバルになるかもね」
得意げにまほらが見せた作文には、『お父様のような立派な政治家になる事』と書かれていた。
玖珂はそれを見て、嬉しそうに笑う。
二人はお互いに、互いの存在を目印にするように切磋琢磨して夢を目指した。
――小学五年になったある日。
まほらは、母・真尋と共にとある有力者の家を訪れる。相手は全国の神社を統括する組織『神祇本庁』の最高責任者である、統理・凪原典善。選挙にあたって票の取りまとめを依頼しに来たのだ。
真尋は何度か凪原家を訪れていたのだが、まほらを連れてくるのは初めてだった。前回訪れた時に、まほらと同じ歳の孫を引き取ったと聞いていたので、日々学業や多くの習い事を学んでいるまほらにとって、少しだけでも気晴らしになれば、と思い一緒に連れてきたのだ。
「まほらー、帰りますよ~」
典善に選挙協力を取り付け、お茶を飲んで少し世間話をした後で、真尋はまほらを呼ぶ。
駆け寄ってきた娘の柔らかな顔を見て、真尋は自分の判断が間違っていなかった事を内心喜ばしく思った。
「また一緒に来てくれる?」
真尋がそう問うと、まほらは笑顔で『うん!』と頷いた。その表情は、彼女を年相応の少女に戻したかのようだった。
家の中も、学校も、彼女に取って気の休まる場所では無くなっていた。常に他人と比べられ、他人より先んじる事を義務付けられ、彼女はそれに完璧に応え続けてきた。
そんな利害から隔絶された場所が、凪原家だった。
それからまほらは何度も凪原家を訪れ、次第に真尋を通さずに自ら連絡をするようになっていった。まほらには笑顔が増え、真尋はそれを微笑ましく見守った。
やがて、中等部に進学するとまほらは玖珂三月と決別する事になる。きっかけは中等部一年・一学期の期末考査。勝負事に手を抜いた玖珂は、まほらにとってライバルには成り得ぬ相手と成り下がった。かといって、『真面目に戦え』といえるほどの勇気はなかった。真剣に勝負をしたら自分が負ける事は、まほら自身がよく知っていた。
時同じ頃、凪原がスマホを買ったので、二人はメッセージアプリ・Rhineで連絡をする事が増えた。家柄や、優秀さで自分を測らない初めての相手。まほらは、彼との関係を大事に、ゆっくりと育んだ。凪原の存在は、彼女の存在を肯定する光だった。
だが、中等部2年の12月。父から、10歳年上の玖珂家の次男との婚約を言い渡された。4年後の12月29日、18歳の誕生日にまほらは玖珂遥次郎と結婚する事となった。
だから、無理を言っているのは承知で、まほらは凪原を鴻鵠館へと誘った。
『……同じ学校に通えたら、素敵だなぁ……って思って』
婚約者がいる事は、当然話さなかったし、なにより彼女にはそんな実感はなかった。ただ、この時は、胸の奥に芽生えた小さく温かいものを大切にしたいと思う。
中等部3年、7月。その小さな芽は運命に踏み付けられ、踏み躙られる。
『あなたは私の下僕よ』
必死に運命に抗おうと紡いだ言葉は、きちんと彼の元に届いただろうか?連絡をする事は出来なくなり、彼が変わらず鴻鵠館を目指すのかどうかは知るすべも無い。
――思えば、この頃がまほらの人生にとって一番の暗闇だっただろうか?
玖珂も、凪原もおらず、真っ暗闇の海原で、自分の居場所を知るすべも無い。
一月下旬。願書の束の中から『凪原司』という名前を見つけた瞬間、まほらの呼吸は止まった。真っ暗闇を進んでいたのは、自分だけではなかったと知ると、胸の奥で温かな火が灯った。
二月中旬、一般入試から約一週間後の合格発表。凪原の受験番号は『0432』番。まほらはまるで自分の受験結果を見るように……、いや自分の結果を見る以上に心臓を高鳴らせて掲示板を見上げた。
『0432』――あった。
柄にも無く、叫びたくなる衝動を、ぎゅっと拳を握り必死に抑え込む。辺りの喧騒も、まほらの耳には届かず、しばらくの間まほらはずっとその番号を見つめていた。
――あぁ、彼の努力はきちんと実を結んだのだ。
一緒の学校に通える事よりも、まず最初に浮かんだのはそんな言葉だった。
あとは、校門の見える空き教室で一日中外を眺める。受験結果はオンラインでも確認できる。けれど、凪原は絶対に来ると信じていた。
「おめでとう」
一切偽りの無い、心の底からの最大限の祝福を五文字に込めて凪原の後ろ姿に投げかける。この時から、二人の時は再び動き出した。
運命に踏み付けられ、踏み躙られた芽は、まだ死んではいなかった。真っすぐでなく、歪んで育ってしまったけれど、それはまだ生きていた。
これから三年間と言う時間制限付きではあるけれど、歪んで曲がってしまったけれど、大事に温めたこの初恋の芽は、いったいどんな花をつけるだろう?
仮面の笑顔の下で、まほらは一人頬を弛ませた。凪原の灯した温かな光は、灯台の灯のようにまほらの心をを照らした。
――それから、三年が経つ。
高等部3年、12月1日。
時間制限は目前。それでも、あの時描いた最悪の未来からは遠く離れた場所にいる。親友が出来た。婚約者も代わる。……結婚した後であれば、凪原ともまた会えるようになるはず。
『待ってろ、今度は俺がお前の鎖を引きちぎってやるからな』
主従関係を解消したあの時、凪原は力強くそう宣言した。そして、心の奥でそれを待っている自分がいる事はもはや隠しようが無い。自分にできる事はもう無い。それなのに、まさかタイムリミットをこんなにワクワクした気持ちで迎えるとは、思いもしなかった。
まほらは身支度を整えて、家を出る。
「行ってきます」
今日は12月1日。衆議院選挙公示日。選挙戦の幕が上がる。
――灯台の灯りはもう見えなくなった。
けれど、大丈夫。その灯りが見えた場所を忘れる事は無いから。