知らなかった、夏
――八月の中旬、全国にとある政治家子息の醜聞が広まった。
総務大臣・玖珂俊一郎の次男であり、私設秘書でもある玖珂遥次郎氏に未成年飲酒及び淫行、そして政治資金の不正還流疑惑だ。そのスクープをすっぱ抜いたのは黎明新聞社であり、政治部のデスクは久留里緋色の父である久留里孔明だ。もちろんそれは偶然では無い。
全ての生徒の顔と名前を憶えていると玖珂は公言しているが、覚えているのはそれだけではない。両親の職業などの個人情報も当然覚えている。そして、副会長選に久留里が立候補した時点で兄を蹴落とすスキャンダルの提供先として目星を付けていた。
もうすぐ引退する生徒会長として、久留里の両親に挨拶をしに自宅に赴き、久留里が席を外した僅かなタイミングで父・孔明にデータと情報を提供したのだ。
「……こんな事をして、君に何のメリットがあるんだ?お父さんに知られたらさすがにただじゃすまないだろう?」
久留里の父からの問いに、玖珂は眉を寄せて困り顔で首を傾げる。
「三男は正攻法だけじゃすぐ詰んじゃうんですよ。どうしても手に入れたいものがあるなら、少しくらい手を汚すことは厭いませんよ」
手に入れたいものは政治家の席じゃない。まほらの婚約者の立場だ。
一般紙は政治資金の疑惑をつつき、女性スキャンダルは週刊誌がつつく二段構え。遥次郎には婚約者がいて、なんとそれは盟友である和泉家の一人娘だ、と週刊誌には載っている。『まほら』と名前こそ出ていないものの、和泉家の一人娘と言われればすぐに特定がされてしまい、そしてそれが玖珂の初恋の相手であり想い人であるとネット界隈は全ての点をすぐに線で繋げた。
――凪原は、その報道でまほらに婚約者がいた事を初めて知った。
「そりゃ、……まぁいるよなぁ。婚約者くらい」
夏休み。いつも通り境内のベンチに寝転がりながら、週刊誌を眺める。
玖珂が婚約者なんじゃないかと思った事もあるが、まさか10歳も年上の兄の方だなんて少しだけ驚いた。
そして、ネット界隈では玖珂とまほらを応援する機運が高まっている様子。
もしかしなくても、このスキャンダルは玖珂の仕込みだろう。スクープが久留里の親父さんが務めている新聞社なのも絶対に偶然じゃないし、まさか芸能活動すら布石なんだろうか?じゃあゴールは?と考えると、すぐに分かる。
間違いなく、自分がまほらの婚約者になる事だ。
週刊誌情報によると、遥次郎氏とまほらは中学二年の夏に婚約したそうだ。当時14歳。……戦国武将の妻じゃねぇんだからさ。
で、再度の週刊誌情報によると、和泉家と玖珂家はライバルでありながら盟友関係にもあり、期せずして両家には同じ歳の子――まほらと玖珂がいる事から、当初はその幼馴染二人の婚約が予定されていた。だが、長女と三男では格が釣り合わないと秋水氏が横槍を入れた結果次男の遥次郎氏に代わったらしい。
その時玖珂はどんな気持ちだったんだろう?まほらはどんな気持ちだったんだろう?
俺は、あいつらの事を何も知らない。
参院選の大敗を受けて立て直しを図る中でのスキャンダル。議員直接の物では無いがイメージはよろしくない。そこで、玖珂とまほらを使った印象操作で好感度を高めつつ、年末前に衆議院解散総選挙が行われる可能性があると、とある週刊誌は記事を締めていた。
『玖珂の誕生日っていつだっけ?』
久留里にRhineを送ってみると、すぐにピロンとスマホが鳴る。
『3月9日っすよ。さんきゅーです』
『さんきゅー』
『そうですよ?』
微妙にかみ合わないやり取りを終えて、思考を巡らせる。と、なると二人の結婚は最短でもその日になる。三か月は猶予が伸びた。いや、猶予じゃない。俺にとってはそれは刑の執行だ。あと半年しかない。
で、俺は何が出来るのか?玖珂に、まほらの親父にどうやって勝てばいいのか?何も持たない高校生のクソガキが。
でも、考えてみればシンプルな話になった気がする。玖珂に、親父さんに勝たなければまほらと一緒には居られない。ただそれだけの話。ただ、それだけの価値のある戦いだ。勝てるかどうかじゃない。勝つんだ。
そうしないと、俺はまほらといられなくなる。
全周囲からサラウンドでセミの声が降り注ぐ境内のベンチ。身体が熱く、汗ばむのは夏の暑さのせいだけじゃない。
去年は三人で水族館に行ったなぁ、とふと思い出す。
少しして、ピロンとスマホが鳴る。
『もうすぐ着くよ』
メッセージの主は黄泉辻だ。そして、メッセージからさほど間を置かず黄泉辻は境内に現れる。長い石階段を上ってきた黄泉辻は額に汗を滴らせて息を弾ませる。
「あ、凪くん。おはよ。今日も暑いねぇ。アイス買ってきたから食べよ」
汗だくながら黄泉辻は保冷バッグを掲げて楽しそうに笑う。
「詰めて詰めて」
そう言って手で俺を促してベンチを半分空けさせて、そこに黄泉辻は座る。カバンからタオルを取り出して、額の汗を拭い、ハンディファンの風を俺に向けてくる。
「アイス食べよ。どれがいい?」
保冷バッグを開くと、某アイスクリームチェーンのアイスが半ダース入っていた。二人でこれって少し多くない?
「あ、じゃあ俺ラムレーズンいいすか?」
「どぞ~。じゃああたしチョコミントっ」
黄泉辻は楽しそうに笑う。
蝉の声、喉に染み入る、アイスうま。
俺がアイスに舌鼓を打ちながらバカみたいな俳句を脳内で詠んでいると、黄泉辻の視線は傍らに積まれた週刊誌をちらりと見る。
「凪くんは知ってた?婚約者の話」
「いや、初耳。黄泉辻は?」
「あたしは、修学旅行の時に……まほらさんから」
「へぇ」
多分、嫉妬みたいな物が全面に出た表情だったんだろう。黄泉辻はそれを見てにやにやと含みのある笑みを浮かべた。
「そりゃ凪くんには最後の最後まで言わないでしょ」
俺は顔の熱を冷ます様にパクリとアイスを一口食べる。
「って事は、局面は最後の最後って訳か」
黄泉辻は口を開けてチョコミントのアイスをスプーンで運ぶ。
「かもね。どうする?諦めちゃう?」
挑発的な笑みで俺の顔を覗き見てきたので、俺もニヤリと笑みを返す。
「まさか。そんな訳ない」
俺の言葉を聞くと、黄泉辻は嬉しそうにチョコミントの載ったスプーンを俺の口に運ぶ。
「だよね。はい、ご褒美」
だが、俺は眉を寄せてスプーンを固辞する。
「いや、結構。チョコミントって歯磨き粉食ってるみたいで苦手なんだよな」
その言葉が黄泉辻の何かに触れる。
「あっ、言ったね!?それ全日本チョコミン党を敵に回す発言だよ!?」
「なんだよ、その党。そういえば、こないだチョコ食った直後に歯磨いたら口の中でチョコミントが完成しちゃって少し嫌な気持ちになったよ」
「それはご褒美でしょうがぁ!はい、いいから一口!ん!食べればわかるから!あーんっ!」
「それ食べたら歯磨き要らない?」
「要らない理由がないっ!いい加減歯磨きから離れて」
夏の神社、鬱蒼と茂る木々の隙間から漏れるのはセミの声と、黄泉辻の声。もし黄泉辻がいなかったら、俺は今どんな気持ちで過ごしていたんだろうと考えると、本当に黄泉辻には感謝しかない。
それはそれとして、黄泉辻がそこまで熱狂的なチョコミン党員だとは知らなかったな。