火花
――花火大会、当日。隅田川に浮かぶ屋形船。
そこには玖珂とまほらの二人。本来であれば、10名程度で乗る船に二人だけで料理を囲み花火を眺めている。身体の芯に響くような大玉の花火の音が鳴り、火の粉が雨のように川に降る。沿道の観客やほかの屋形船の乗客は恍惚とした表情で幻想的な空を見上げているが、まほらは座敷の机に頬杖を突き、さほど興味なさげに窓の外を眺める。
「それで?話って何、三月」
花火を見に来たのが目的では無く、どうやら玖珂との密談が目的で彼に呼び出された様子。
「あはは、無粋だなぁ。せっかくの花火を見終わってからでいいじゃない」
黒い浴衣に銀色の帯を締めた玖珂は、自身を団扇で扇ぎながら涼しげな笑みを浮かべて空を眺める。まほらはそんな玖珂に苦々し気な視線を送る。
「あなたに粋だ無粋だと説かれる程無駄な事は無いわね。いいから早く要件を言いなさいよ」
「やれやれ。緋色ちゃんから凪原くんの写真送られてきたけど、そんな事ばっかり言われてると見せる気なくなっちゃうなぁ」
スマホをヒラヒラと見せながら玖珂がわざとらしく嘆くと、まほらは即座に玖珂との距離を詰めて目を輝かせる。
「三月っ!やっぱりあなたはやれば出来る子ね!早く、見せて見せて!どんな写真!?何の写真!?」
「……どうにも釈然としないけど、喜んでもらえて嬉しいよ。はい、これ」
玖珂のスマホに映るのはテスト最終日の凪原の写真。まほらはそれを眺めて口元を弛ませる。自身のスマホに保存する事は出来ない。だから網膜に焼き付ける。
「テスト5位だったってね。頑張ったねぇ、彼」
凪原が褒められればまほらも我が事のように……、いや自分の事以上に嬉しい。
「そうなの。卒業までにはあなたも抜かれちゃうかもね」
そう言ってまほらはクスクスと笑う。
その表情を慈しむように見つめながら、玖珂は微笑む。
「そう言えば、修学旅行で彼にも同じ質問したんだけどさ」
「あら、そう。いつの間に。写真は無いの?」
「無いねぇ。将棋やったよ。僕の全勝だったけど」
得意げに語る玖珂に、まほらは白い目を向ける。
「……あなた子供の頃からお祖父様にも勝ってたじゃない。それで?話の続きは?」
「うん。なんで彼?」
「なんで?」
そう復唱してまほらは眉を寄せる。そして、真面目に答えようとしてしまい慌てて口をつぐむ。
「あなたには関係ないわ」
とりつく島もないまほらの言葉に、玖珂は呆れ笑いで肩を落とす。
「関係ないって……。仮にも夫婦になろうって関係なのになぁ」
半年と少し前、まほらの17歳の誕生日に玖珂は言った。――兄を失脚させて、自身がまほらの婚約者になる、と。
「あら、それ本気だったの?」
当然まほらもそんな事は知っている。玖珂がまほらに誓うとはそう言う事だ。まほらは、幼少のみぎりから玖珂の好意を疑った事は無い。
「もちろん。準備が出来たから、今日はその報告。フリックしてみな」
まほらが凪原の写真をフリックすると、そこには玖珂遥次郎の姿。薄暗いラウンジで若い女性とグラスを交わしている。
「これが?」
さして興味のない様子でまほらは玖珂に問う。正直な話、婚約者だろうと、結婚したあとだろうと、遥次郎が他の女性と関わる事に何の関心も感傷もまほらは湧かない。
自身に関わられるのならよその女性と遊んでもらっていた方がよっぽど気が楽だ。
玖珂はニコニコと写真を指差して解説をする。
「これお酒、その子未成年。この後ホテル。あはは、僕が紹介したんだけどね」
まるで他人事の様にケラケラと笑う玖珂に、瞬時にまほらの怒りが沸く。
「三月……?」
「おっと、勘違いしないでよ。騙したり強制したりはしてないから。上昇志向で逆玉狙いのグラドルに、グラマーな女性好きのボンボンの行きつけの店を紹介しただけなんだから」
自身の潔白を証明する様に両手を挙げ、まほらを諭す様に言葉を続ける。
外では、大輪の花が夜空を染め上げ、大砲の様に腹の底に響く轟音が鳴っている。けれども、二人にそれは届かない。
「誰もがみんな、君たちみたいに純粋な恋心だけで互いを求めている訳じゃないんだよ」
――でも、だからこそそれに憧れるし、美しいと思うんだよ。
玖珂は、続くその言葉はそのまま告げずに飲み込んだ。
スキャンダルだけじゃない。父の資金団体から無許可で資金を還流するスキームを作っていた証拠も押さえてある。
対応を誤れば法に触れる可能性すらある。
「これを表に出せば、兄と君が婚約していた事が世に出て……、彼の耳に入る。出さなければ、君はそのまま兄と結婚することになる」
玖珂は一度大きく息を吸い、吐く。そして、彼にしては珍しくやや緊張の面持ちで両手を開く。その後ろでは、夜空を切り裂いて鮮やかな花火が舞い、そして闇夜に消えていく。
「だから、まほ。最後は君に選んでほしいんだ。このまま兄と結婚するのか、それとも僕と一緒になる方が少しはマシなのか」
提灯の揺らめく明かりが船の揺れと重なり、それに照らされたせいか玖珂の微笑みはいつもの自信に満ちたものでなく、今にも消えそうなか弱いものにも見える。ここに至って、玖珂には一切の策略や謀略はない。ババ抜きで例えるのなら、両方のカードを見せた状態でまほらが引くに委ねる。
「……なんで私にそこまでこだわるの?」
まほらの問いに、玖珂は少年のようにはにかんで答える。
「好きだからに決まってるだろ。子供の頃から、初めて会った時からずっと」
まさに一言一句想定通りの、予想通りの答えにまほらはクスリを笑う。
「ばかね、あなたは」
そして、玖珂の隣に歩みを進め、船の外の花火を眺める。今日初めて自分から見た花火は、大きな音を立てると、真っ暗な夜空を一瞬で、色とりどりに染め上げた。それは、まるで初恋のように。
やがて、それは儚く散り、夜の闇へと消えていく。
「私があなたを好きになれたなら、全部丸く収まるのにね」
そう言ってまほらは自嘲気味に笑い、玖珂はコクリと頷く。
「そうなって貰えるように努力するよ」
まほらは涙をこらえるように、ぐっと唇を噛む。考えるまでもない。悩むまでもない。ただ、微かにあり得たかもしれない、凪原との未来だけが小骨の様に胸を刺すだけだ。
「わかった。……どう考えても、それが最適解ね。いいわ、三月。結婚しましょう」
子供のころから夢見てたその言葉に、不覚にも玖珂の目に涙がにじんでしまい、それに気が付いたまほらは怪訝に眉を寄せる。
「あら、芸能人にもなると芝居もお上手になるのね」
「いや、違う。ただ川の水がはねただけだから」
船は川をゆらゆらと進み、川沿いの観覧席で花火を見上げる凪原たちのすぐ近くを通り過ぎる。まほらは気づかないふりをした。玖珂もそれに気づいたが、何も言わなかった。
百万人が訪れるその夜、彼らは確かに、同じ空を見ていた――。そして、船はゆっくりと通り過ぎていった。