双曲線
――七月に入る。
俺の停学期間は残り一か月。
ちょうど一学期が終わるまでの停学。その前には期末考査が控えている。教室とは別の場所で、監督の教師と一対一で行われる特別措置。停学中で時間がある凪原はテスト勉強に勤しむ。勉強をする際の集中については人によるところが大きい。音がすると集中できない人や、静かすぎるとダメなやつ。俺はテレビやラジオを流しながらの方が勉強がはかどるタイプだ。
テレビのニュースによると、7月の頭に参議院選挙が行われ、与党が大敗した様子。18歳になった俺は形の上では成人扱いなので、当然ながら選挙権を得た。どこに投票したのかは内緒だ。テレビには、経済産業大臣であるまほらの父・秋水や、法務大臣である玖珂の父・俊一郎が時折映る。選挙戦の時の映像が流れ、そこではまほらの父が応援演説を行っていた。応援相手の候補者をほめちぎり、集まる民衆に頭を下げて、応援をお願いしていた。結果、その候補者は落選していた。
当たり前の光景なんだけど、見ているとだんだんと腹が立ってきた。誰彼構わず頭を下げて、握手を求める。規模は違えど去年の生徒会長選挙、まほらは一度も校門には立たなかった。一度も握手を求めなかった。公約も掲げなかった。
テレビで見るこの人たちは、様々な公約を掲げている。減税だとか、権利だとか、皆が口々に耳に甘いことを声高に叫んでいる。この中のどれだけが実現できるのだろうか?するつもりがあるのだろうか?結局のところ、言葉はいくらでも偽れる。
――ここに、まほらが立ってたならどうしただろう?
テレビを見ていて、そんな事を思った。
そして、選挙の他にもう一つSNSを賑わしているもの、それは、玖珂の初恋相手探しだ。初等部から高等部までエスカレーター式の鴻鵠館。要するに、同じ学校にいるだろう事は容易に推測ができる。もっと言えば、鴻鵠館の生徒であれば、相手はまほらだと言うところまで簡単に特定できる。写真は出回らないまでも、存在くらいはネットに広がるのも時間の問題だろう。玖珂がそれを予見していないはずがない。
将棋じゃないけど、相手が何手先まで読んでいるのか全く見当もつかない。ネットで世論を形成して、外堀を埋めてからまほらにアプローチを掛けるとか?考えてみるが、外堀を埋める程度でどうこう思う性格ではないと思う。
で、考える。まほらは、本当に俺に好意の様なものを持っていたのか?と。
一旦勉強をやめて、境内へと移る。お盆に麦茶とグラスを乗せ、蚊取り線香を準備する――。
三年前の事故の時は、そんなこと考えた事も無かった。俺も、まほらも、間違いなくお互いに好意を抱いていたし、もっと言えば……、照れくさい話だが、恋心を抱いていたと思う。
じゃあ、今は?と考えてみて、そんな必要がない事に思い至る。まず、大事なのは俺がどう思って、どうしたいか、だ。まほらはそんなに馬鹿でもお人好しでもない。迷惑なら拒絶する。
――そこで、一つ大事なことに気がつく。
「……あー、そうだ。よく考えたら俺、あいつにまだ一度もちゃんと伝えた事無いな」
七月の初め、夏の夕暮れ、仄かに光る蚊取り線香の火からたちのぼる煙は、か細く、ながらも空を目指す。
凪原はベンチに寝転がり、それを眺めていた。頭の中では可能性の積み木を重ねる。鴻鵠祭の時の様に、実現可能かは分からない、ぼんやりとしたイメージが積み重なる、――。
見上げた空には、月が大きく浮かんでいた。
――七月某日・夕暮れ過ぎ、和泉邸。
参院選の大敗を受けて、和泉秋水の周囲も慌ただしくなる。非公式ではあるが、躍進した野党からの突き上げもあり、十二月近くには衆議院総選挙の予定が進められている。
「まほら、応接室にお茶を出しておいてくれ」
秋水からの依頼を受けて、まほらは応接室にお茶を運ぶ。
「失礼致します」
流麗な所作で扉を開けると、和室には初老の肥えた男性が胡座をかいて座っていた。
「おぉ、お嬢さん。今日も変わらずお美しいですな、わはは」
神祇本庁の最高責任者――、統理を務める安眞木。凪原の祖父・典善を閑職に追いやった政敵だ。
「安眞木様、お久しぶりで御座います」
まほらはニッコリと柔らかく微笑み、挨拶を交わす。安眞木の傍には、いかにもと言った黒いアタッシュケース。そこに何が入っているのかなんて、考えなくても分かる。
(……薄汚いブタ)
内心眉を寄せて罵ってから、自身の寝食も、衣服も、与えられた能力や教養も、その薄汚い何かを糧に生み出されたと思うと、心の底から嘔気が湧き出てくる。
何を話したのかなど、一切記憶の片隅にも残らない自動応答で、まほらは秋水が来るまで安眞木の世間話の相手をする。怒りも、吐き気も、何も浮かんでは来ない。感情も感傷も心の奥底に仮面で押し隠す。
「やぁ、お待たせしました安眞木さん」
どれだけ時間が経ったか、秋水が和室を訪れたのでまほらも静かに部屋を後にする。
――まほらは耳がいい。
「……そろそろワタシも国政に打って出ようと思うとるんです。コレで、どうか秋水さんのお力添えを頂けんですかね?」
「おや、もう統理をお辞めになる、と?」
「わはは、大丈夫です。次のもよ〜く話のわかる奴ですんでな、あのジジイと違って」
扉の向こうでは、そんなやり取りが微かに聞こえ、まほらは長い渡り廊下を進み、和室を離れた。
「……司くんに会いたいなぁ」
空を見上げて、ため息と共にそう呟く。自ら手放したそれは、きっともう叶うことはないとよくわかっている。
空に浮かぶ月は少し欠けていて、それがどこか自分と重なるように思えた――。




