第二章
大陸西方にあり、その力で周辺の国々に睨みを利かせている大国エルディス王国。
その都たるエンディミオン市に建てられた、エンディミオン宮殿。
常時五〇〇〇人もの貴族、従者、使用人が集まる大宮殿に、一人の少女が訪れていた。
名前はルナ。
ゆるくウェーブした金と銀が混ざったたっぷりとした髪を、背でかんざしで一つに纏めた、大きな眼鏡をかけた少女だ。
彼女は他者からは見破られないだろう、完璧な作り笑顔を浮かべ、筆頭侍女のファンニと向かい合っていた。
ファンニはルナが携えてきた書類を手にして何か考えている。
「成る程、アルヴェーン子爵からの紹介状を持っているのですね」
どこか早口で、ファンニは言い、ちらちらとルナの顔と紹介状を見比べている。
ルナは彼女が何か悩んでいる隙に、周囲を窺った。
ファンニは、エルディス王国の王族たる姫たちの世話をするベテランの侍女で、有力な貴族の一族を出自に持つ。
故に任されているのだろう侍女の控え室は比較的に大きく、中央の大きな長テーブルには幾つもの椅子が置かれて、白い壁には金の装飾がなされ、窓には厚いカーテンが備わっている。
大陸一と呼ばれるエンディミオン宮殿は、まさに贅を尽くされた宝石のような宮殿で、インテリアとしての椅子も、壁際に並んでいる。
ファンニは白髪の混じった髪の乱れを片手ですいっと直し、沈思している。
「……あなた、自分の役目は分かっていますか?」
エルディス王国の王族を皆殺しにすること、と言う本音を、当然ルナは口にしなかった。
「はい、私は王女殿下の侍女として、身の回りのお世話をさせていただきます」
「そうよ……本来なら王族の侍女は位の高い者の仕事なのだけど」
ファンニの表情が曇る事情を、ルナは知っている。
だからこの場所に潜入しようと試みたのだ。
ルナが仕えようとしているのは、第五王女のアイリス姫だ。今年でルナと同じ十六歳になる難しい年頃の姫で、エルディス王国国王コーニーリアスと、プロシアから来た后、イルムヒルデ夫人との子にあたる。
イルムヒルデ夫人は、実はコーニーリアス王の二番目の妻だが、今では宮殿全てに隠然たる影響力を持つ、エルディス王国の頂点である。
だがアイリス姫は、『第五』王女だ。
子をなすことで権力を獲得してきたイルムヒルデ夫人だが、どうしてか男児にはあまり恵まれず、六人の子のほとんどは女児である。
そしてアイリス姫は末娘で、実の母たるイルムヒルデ夫人からも軽んじられ、他国との結びつきの為の政略結婚の駒としてしか見られていない。
だから彼女は自由闊達に育っている。
だから彼女には付け入りやすい。
「あなたは何が出来るの? ルナ。私は紹介状だけでは、侍女として宮廷に入れません」
「ソロン語、フリジア語、プロシア語、あとピアノの演奏が出来ます」
「それらの言葉は教えられる? 家庭教師のような本格的なものでも良いから、少しでも」
「はい。一般的な会話まででしたら、お教え出来ます」
ファンニの質問にルナが答えると「はあ」と、ファンニがため息を空に放つ。
「わかりました。あなたを雇いましょう。アイリス様付きの侍女としてです。ですがアイリス様がお気に召さなかったら、すぐに郷里に帰します。それで良いですね?」
「はい」とルナは素直を演じて返事をした。
「正式な契約はあなたの身分が保証されてからとします……しかし『ルナ』だなんて、何て名前かしら」
ぶつぶつと文句を呟きながら、ファンニは控えている侍女の一人に何かを伝え、ややあって一人の黒髪の少女が現れる。
根っから明るさが顔に出ている、輝くような笑顔の娘だ。
「初めまして、わたしはマリアと言います。アイリス様の侍女をしています」
「……ルナです、よろしく」ルナは素早く眼鏡のズレをなおす。
「ならルナって呼ぶわ、わたしのことはマリアでいいから」
「はい」
「二人とも、遊んでいる時間はありませんよ。ルナに侍女としての服をあつらえなければなりません。ルナ、あなたには早々働いてもらいますよ。マリア、頼めますか?」
「はいファンニ様」
マリアは常にそうなのか、嬉しそうに答えると「こっちよ」とルナを促して歩き出した。
廊下に出たマリアは、ルナに明るく説明した。
「ほら、すごいでしょ? この宮殿。廊下でもこんなのよ」
彼女の言葉の意味が分かる。確かに諸国に名が轟いているだけあり、エンディミオン宮殿は『豪奢』の一言に尽きた。
赤い壁に黄金が飾り立てられ、廊下の隅には彫像やらテーブルやらが等間隔で幾つも並んでいる。
中には職人がいないと作られない身長以上もある鏡もあり、このエンディミオン宮殿建造の費用がどれくらいだったか、考えたくもなかった。
「昔はここは狩りの休憩小屋だったのよ。でも当時の王様がここを気に入って、改装を重ねてこんなに豪華な宮殿にしちゃったの」
何故か自慢げなマリアだが、ルナには気になることがあった。
「どこに向かっているの? マリア」
彼女が正門を目指していると、ルナは目星を付けていた。
廊下はいつの間にか贅沢な鏡が並び出し、彼女は尋ねずにはいられなかった。
「ああ、オータンの店よ」
とマリアは自分の着ている、深い青に金糸で刺繍が入った衣服を示す。
「アイリス様付きの侍女の服よ。ただ、気を付けて……アイリス様は結構難しいお方よ、なるべく逆らったりしない方がいいわ」
しゃべりすぎでは、と訝るルナに、マリアはくすくすと笑う。
「でも良かった。あなたが来てくれて。実は大変だったのよ、今まで。何せアイリス様がひどく気まぐれでいらっしゃるから、いくら手があっても足りなかったの」
マリアはそう言った後、ふと廊下で立ち止まり壁に移動して畏まる。
「ルナ」と急かされ、彼女も倣った。
身なりの良い男が二人を一瞥することなく、通り過ぎていく。
所作から位の高い貴族だろう。