一重文
『忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に見えず』というお言葉がございます。
昔、宮仕えをしておられた名を馳せた美女と言えば、小宰相殿という人がおられました。
なかなか気の強いお方でございまして、彼女のことを気に掛ける男も多くありましたが、どうしても見向きもされない。
多くの貴公子が次第につまらなくなって、小宰相殿から別のお方へと心移りされます中で、ただ一人、とにかくずっとお手紙を送られたお方がおられました。
お名前を平通盛と申されまして、位は中宮の亮。当時はと言えばまさに平家隆盛の世、殿上人にも平家の方が大層たくさんおられましたから、これも良縁ではございましょう。
ところが、小宰相殿というお方、頑なにお返事を拒まれるのでございます。お仕えの女房が帳の内へとお手紙をお運びになるのを、やれ「吉兆ではありますまい」ですとか、「いつもの草枕でございましょう」ですとか、「どうにも気が進みません」ですとか言って、お受け取りになりません。
ついにお受け取りになったかと思えば、「お人柄も知らずに、お返事を返すのは憚られます」などと申されて、どうしてもお手紙を返そうとはされませんでした。
初めのお歌から四つある季節が三度も巡り、一年と同じ十二度も景色が変わられましても、どうにも靡かれなかったのです。
立場を取り換えて通盛卿から致しましたら、もう心細く、もどかしく思われたことでしょう。御心に燃える火も次第に力を失くして、大層元気なお方であられたのに、すっかり恋煩いで萎えてしまわれておりました。口を開けば嘆息ばかり。
小宰相殿と共に宮仕えをされている女房の中にも、夫や親の噂話などで、このお話を聞いたものもありました。
あまりに不憫であられたので、女房の一人が上西門院様に色々とご相談をされたのです。
上西門院様と言えば美貌の人として知られておりますが、何を隠そう、数々の歌人を輩出した御所の主人でありました。そうしたお人でございましたから、年若い小宰相殿へ向けた謀など、容易いことだったでしょう。
流石に三年もお返事がないことを心に病まれた通盛卿が、使いの者に唆されて、最後のお手紙を出すのです。勿論、この使いの者は、手紙の仲立人である女房に、謀について伺って、通盛卿にお手紙を認めるよう促されたのでございます。
意を決して送られたお手紙ですが、手紙の仲立をするはずの女房が不在で、ご自宅にはおられませんでした。使いの者は小宰相殿のご自宅から御所への道を走ったのでございます。
ここで、使いの者は大層緊張したに違いありません。何せ、上西門院様の謀というのは、「小宰相殿と共に、御所へ通盛卿のお手紙を運ばせること」だったのでございます。自分の女房からさえお手紙を受け取られないお方が、使者から直接、お手紙をお受け取りになることなど絶対にございません。そこで、使いの者は説得などと言った手段をとることが出来ませんでした。使いの者の考えはこうでした。「こうなれば、お車の中にえいやと放り込むしかないだろう」と。
さて、車の横を走る従者が通り抜けていきます。お車を運ぶ従者の間をすり抜けるように、従者はお手紙を簾の中へと放り込みました。
従者が通り過ぎた時に、お車の中で小宰相殿が声を上げます。
「今の人は一体誰だったの?」
横切った使いの者のことなど気にも留めていない従者たちは、皆心当たりがなく、お車が止まってしまいました。
小宰相殿は手紙の送り主を確かめるために、手紙を開かれます。簾の隙間から射す日の光を頼りに文字を読めば、いつもの通盛卿のものと知れましたが、御所への参上の途中でしたから、詳しく読むことや、ましてお返事を書くことなど到底できません。
だからと言って、三年も手紙を送ってこられた通盛卿のことを無下にも出来ませんから、取り敢えずは手紙を懐に仕舞われて、宮仕えへ向かうのでした。
さて、お手紙を隠したまま忙しくご出仕されていた小宰相殿ですが、その日に限って小宰相殿がよく動かれるお仕事をされるように取り計らわれておりました。上西門院様にご相談をした女房が懐に隠されたお手紙を確認し、上西門院様にお伝えになられたためです。
そうとは知らずあれこれと動き回っていた小宰相殿は、不意に、お手紙を上西門院様の前に落としてしまったのです。
すかさず、上西門院様がお手紙を拾われます。
「おや、恋文。これは誰の持ち物ですかね?」
「知りません」
「断じて存じ上げません」
「私も、何のことやら……」
女房方が次々におとぼけになる中で、小宰相殿はとても平静ではいられません。お恥ずかしくなり、赤ら顔で「うぅ」と唸られるばかりです。
上西門院様は小宰相殿のものとは明言せず、目を細めて、お手紙を開かれました。
思い人に嫌われては大変と、男臭さを隠すために焚いたお香の良い香りが立ちます。
上西門院様は、色々と手紙にお言葉が綴られている中の、結びとして書かれた一首のお歌に目を止められました。
「我がこひは 細谷河の まろ木ばし ふみかへされて ぬるる袖かな」
おや、これは……。上西門院様が思った以上に、通盛卿の恋煩いは重病だったようです。上西門院様が顔を持ち上げて、顔を耳まで赤く染め上げられた小宰相殿に向かって仰います。
「この殿方、随分と貴方のことを思っておられますよ。女として心強くあられるのは、実に良いことではありますが、あまり男心を無下にするのも良くありませんよ。小野小町様の例もありましょう。九相図なども示す通り、人の形も変わり果てていくものなのです。貴方自身も今の美しいままではいられませんし、殿方のお心も同じ……」
上西門院様が返答を促されても、小宰相殿は赤くした耳だけを晒して顔を隠しておられます。やがて意を決し、小宰相殿もこう返されました。
「お手紙を拝見するのでさえ、胸が焼けるように熱くなり、動悸も止まりませんのに、どうしてお返しなど出来ましょう」
帳の外では鳳蝶が飛んでおります。青いのと黒いのでございます。ふわふわと踊るように羽ばたき、戯れているようでした。
上西門院様が、年若い小宰相殿を愛おしそうに見つめ、硯の前に向かわれました。
「ただたのめ 細谷河の まろ木橋 ふみかへしては おちざらめやは」
このように認められますと、上質なお香をお手紙に焚きつけて、小宰相殿のお手に、手ずから、なんと、手ずからお渡しになられたのです。
「取り送ってもご先方から帰られることのないお手紙、片面だけの単衣のような単文では、あまりに浮かばれませんでしょう」
小宰相殿はそのお手紙を大事に胸に抱きしめて、二度も三度も、上西門院様にお礼を申し上げたのです。
宮仕えの仕事も、懐からお手紙を落とされないように、あまり動かなくても良いようなものとなり、その日の夜に、仲立ちをする女房に、ご返歌をお渡しになられたのでした。
寿永三年、未だ海風が身に沁みる2月、一ノ谷にて大きな合戦がございました。源平両軍の激闘の末、平氏は敗走、平氏一門は冷たい海風に晒されることとなりました。
通盛卿に仕える兵、君太滝口時員は、小宰相殿の乗る船へと馳せ参じますと、ぼろぼろと涙を落とし、小宰相殿の前に跪きました。
険しい春の海に浮かぶ幾艘かの舟、その上棚には血糊がべったりと染み付いておりました。先の戦で舟に取り付く平氏の雑兵の腕を切り落とし、海に沈めた為でございます。
勿論、それは致し方のないことでございました。そのまま荒海の中に船ごと沈むのに比べれば……ずっと、惨い最期とは言えませんから。
さて、小宰相殿は船の漕ぎ手越しに春霞の中に浮かぶ月を眺めておられます。時員は言葉を詰まらせながら、殿がどのようになられたのかを、仔細に説明されました。
「小宰相様。殿は、七騎の兵に囲まれて、お討たれになられました。私も潔く後に続こうとも考えたのですが、依然、殿が仰っておられたことを、私にお任せ下さったことを果たそうと、こうして涙を呑んで逃れたのでございます。その命というものは、小宰相様、貴方によく仕え、お世話をするということでございます」
時員は堪え切れぬと、底板が沁みるほどに涙を流されます。しとどに濡れた袖口も、そのお覚悟の強さを感じさせるものでありました。
小宰相殿は、静かに月を見上げたまま「わかりました。お下がりなさい」とだけ申されます。時員は背中を丸めて額を床につけると、おいおいと大声を上げて散々に泣かれて、その場を後にされました。
すると、小宰相殿はお供の乳母にお衣を乞われ、そのお衣をお体にかけて床につかれてしまいます。
平氏の舟が底の見えない夜の海の上を彷徨います。揺蕩う水面には月明かりと、上棚に着いた血糊の濃い紅が、見せつけるように映っております。嗚呼、耳をすませば、誰かの嘆くお声がどこからともなく聞こえてまいります。海原を飛ぶ千鳥の残影が虚しく通り過ぎ、嗚呼、その鳴き声が、亡き人を偲ぶ泣き声と重なります。千鳥は共に嘆いて下さるというのに、月はただ春の険しい海を照らし、霞む視界の先を暗く、青く照らすばかり。
業盛様が、忠則様が、知章様が、師盛様が、清貞様が、清房様が、経正様が、経俊様が、敦盛様が……。父も母も、妻も、子も、誰もが嘆き潮に涙を落とす中で、小宰相殿は床につき、夫の帰りをお待ちになられたのでした。
日が開け、夜が更け、五日が経ちました。海の上を彷徨う平氏の赤旗が、風に揺れ、千鳥と共に羽ばたき、やがて空に茜が射します。
眩いばかりの赤い陽光が平氏の旗を飲み込む中で、小宰相殿はすぅ、と大きく息を吸い込まれ、乳母に向けて乾いた唇を開かれたのでございます。
「あの人は、戦陣の仮屋で、こんなことを申されたのですよ。『今度の戦は不安だ』と、『私は死ぬかもしれない』と。でも、ねぇ。戦など、常のこととなっていたでしょう?ですから、私は『思い過ごしですよ』などと、簡単にあしらってしまったのですよ」
小宰相殿はそっと、優しく、膨らんだお腹を摩られました。慈しみ深い微笑みを浮かべておられましたが、その儚さは、全く直視できないほどでございました。
「あの時に、もっと本気で向き合っていたのならば、もしかしたら結末も違っていたのかも知れない。それなのに、私はあの人を元気づけるために、この子のことを話したの。貴方も、あの人のことは分かるでしょう?もう大喜びで。『でかした!私も三十だからなぁ。男の子かなぁ、女の子かなぁ』なんて、そう、仰っておられたわ」
楽しそうにお話になる小宰相殿の声が、静寂に波打つ海に響きます。嗚呼、千鳥の鳴き声。悲し気な相槌の声が、去り行く茜色の空に響きます。
小宰相殿は初めて身を起こされて、肩にかけたお衣を下ろされました。
「ねぇ。私がもしも身投したなら、あなたは私のお衣をお納めして、仏門に入って下さいね。そうして、私と、あの人のことを、よくよく弔ってちょうだいね」
お衣がするりと落ち、床に色を挿します。様々な、色とりどりの単が、一重に、二重に、重なりました。
たまらなくなった乳母が、激情を露わに訴えました。「後世で再びお会いできるとは限らないのですよ」と。
嗚呼、波が立ち、舟が揺れる、揺れる。平氏のように頼りなくさまよう浮き舟が、闇の中へと溶けていきます。
漕ぎ手のために、小さな明かりが灯されます。放浪の頼りにと掲げたこの篝火も、灰がちになり、今にも消え入りそうな炎を僅かに灯すばかりとなりました。
退却の旅は間もなく終わり、遥か先には屋島の浜がございます。あと少し、もう少しの辛抱で、屋島へと辿り着くのです。乳母は袴の裾に取り付いて、小宰相殿が横になるようにと押し戻そうとされました。
「まして後世でも再び相まみえるにしても、多くの道を、六道輪廻を巡るのですよ。もし、それでも、身投げをなさるというのならば、この乳母めにも、どうか、お供させて下さい。どうしてもと申されるのでしたら、どうか」
小宰相殿はすとん、とお座りになりますと、乳母のことを宥められたのです。
「あのね、私の気持ちを考えてね。あの人を亡くしたのだから、恨み言も言いたくなるでしょう?それが、私にとっては『身投げする』なんて言う事なのですよ。もし本気で身投げをするならば、あなたに黙ってはしないということも、分かるでしょう?」
小宰相殿はそう言うと、そのまま孕まれたお腹を労わって横になられ、「もう夜ね」と仰って、静かに寝息を立てられました。
乳母には、それが方便だということはすぐに分かりました。乳母は目を見開き、小宰相殿のことを見逃さないようにと気を配られました。
一刻、二刻も経ち、いよいよ夜の帳がおりますと、一層気を張られていた乳母も、うつら、うつらと、舟を漕がれました。何度か抵抗をしたのですが、ついに乳母も微睡に落ちてしまわれます。
そして、小宰相殿が、衣擦れの音を立てないように、慎重に身を起こされました。
小宰相殿は船首に立つと、霞む春の月を仰がれ、そして西の空へ向かって拝まれました。せめて此岸での思い出の数ほどをと、念仏を唱えられるのです。何度も、何度も、何度も。
「南無……南無……南無……」
あの淡い恋心も、あの時見た景色も、四季折々の花々も、それが枯れゆく景観すらも。愛おしい思い出が、唱えるたびごとに、小宰相殿の脳裏を過り、涙は頬を伝い落ちていきます。
「南無……南無……南無……」
百遍でも唱え終わらずに、小宰相殿の視界に映った通盛卿のお姿全てが、唱えるごとに、眼裏に浮かんでは消えていきます。百八遍の念仏を唱えられると、小宰相殿はそっと、彼方の光を拝まれました。
「南無西方極楽世界の教主であられる、弥陀如来様。どうかご本願の通りに、私とあの人を、浄土へお導き下さい。一つ蓮の花の上にて、再びまみえますように、どうぞお導き下さい」
「南無……」
小宰相殿の小さな囁き声は、激しい波の音に紛れて、誰にも漏れることがございません。小宰相殿はそのまま、水底深くへ、身を投じていかれました。
「誰かが落ちたぞ!」
番をしていた漕ぎ手が叫ばれます。乳母が目を覚まし、すぐにその周囲をまさぐられました。しかし、そこにはお衣があるばかり。人の温もりはありません。
「あら、あら!ああああああああああ!」
乗員が必死に櫂で海を探り、一寸先も見えない闇と成り果てた深い水中を探られます。ついに見つけた時には、小宰相殿は冷たくなっておられました。
「どうして、どうして」
乳母はお衣ごと小宰相殿を抱き、その青白い胸の中に顔を埋めて嘆かれました。櫂を手にした乗員が、通盛卿の形見である鎧を用意されました。
「せめて最期は、お二人で共に旅立てるように……」
水にぬれた艶やかな御髪を兜の中に仕舞い、しとどに濡れた袖を小手でお包みになられます。通盛卿の鎧を、小袖の上からお着せになる。そして、小宰相殿を、一ノ谷のある方角に向けて、舟から……。
どぼん、と鈍い音を立てて落ちる小宰相殿を、乳母は掴んでお供をしようとされました。しかし、乗員たちに抑え込まれて、舟の中へと引き戻されてしまいます。
月は西方浄土へと傾き、朝焼けが迫ります。泣きじゃくる乳母に、通盛卿の弟であらせられる忠快法師が鋏をお手に持たれて寄り添われました。
「次の朝が来る。あなたも務めを果たすべきです」
乳母は沈む月へ向けて手を合わせられ、茜色の空へと背を向けて、枯れた声で念仏を唱えられました。そして、忠快法師は彼女の髪を持ち上げ、鋏で切り落としていきます。
一重の文から始まったご関係が、二重となり、再会し、西海の彼方へと旅立って行かれました。
『忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に見えず』というお言葉がございます。
夜は明け、屋島の浜にも朝が来る。やがて赤旗の舟も、院宣も。
硯に向かうお人は、何か書き物をなさいながら、滔々と語られました。まるでその場にいたかのような臨場感でございます。
やがて、私が頭を下げますと、すくりと、顔を持ち上げられました。
「山路の露も少し隅に寄せて下さいませ。後鳥羽院が貴方の出仕を望んでおられるのです。どうぞご決断いただきたく存じます」
「わたくしも、昔が忘れられないのでございます」